鎖(二)


 追わなくては。


 心の底をじりじりと焦がす感情にせき立てられて、夢の中で美郷は闇の中を走っていた。だが、夢の中では明瞭だった「追う」理由は、起きた瞬間に輪郭を溶かす。


「……やられた……」


 悔しさと情けなさに、美郷は拳を握った。八雲神社から持ち帰ってしまったのだ。


 弟への感情に付け入られた。無理矢理掘り返され目の前に晒された、暗い感情にざわざわと全身が粟立つ。


 心の奥底に巣食うそれに、全く気付かずいたわけではない。どうにか飼い慣らして「良い兄」で居続けようと思っていた。成功したとは思わないし、結局、最後は全て投げ出して逃げてきた。その罪悪感で、今まで固く封じてきた感情だ。もう、「鳴神」美郷はどこにもいない。


 意識がはっきりとしてきて、周囲の状況を思い出す。背中を探る指先に、蛇の鱗は触れない。怜路が連れてきて、再び連れて出て行ってしまったのだったか。当たり前のように肩に白蛇を乗せていた大家を思い出し、美郷は苦笑いする。


 普段、美郷の白蛇はすっかりペット扱いで日常に馴染んでいる。宮澤美郷という人間は蛇を憑けている、というのがいつの間にか暮らしの中で、当たり前の共通認識になっていた。隠さなければ、見られたくない、そんな恐怖も久しぶりだ。


「派手に荒らされたな」


 自嘲の笑みがこぼれる。まるで子供が無邪気におもちゃを掴んで投げ散らかすように、いいように蹂躙していった相手と、それを許した己のふがいなさと、両方にふつふつと怒りが沸き上がる。


 ざわつく心をなんとか宥めすかし、美郷はのろのろと寝巻を整えた。とんだ醜態を晒してしまった。正直、今怜路の顔を見るのは怖いが、布団を被っていても眠れるわけはないし、何も良いことはない。そう、腰紐を締め直して気合いを入れる。


 冬の夜の冷え切った空気にひとつ身震いし、枕元のどてらを羽織って美郷は立ち上がった。障子越しに、淡く月明かりが室内を照らしている。暗闇に慣れた目ならば、照明を点けずとも部屋を出られそうだ。


 縁側へ続く引戸を開ける。カーテンを引かれた縁側は和室よりも暗い。すでに体が覚えている照明スイッチの位置へ手を伸ばすと、古めかしい白熱灯の仄朱い光が廊下を照らした。


 冷たく、たまにささくれが触れる板張りの床を踏んでいるうちに、気持ちも落ち着いてきた。乱暴に引っ掻き回されて、輪郭を崩していた「宮澤美郷」が徐々に形を取り戻す。狩野家の古民家に下宿し、巴市役所に勤務する、今の美郷だ。


 寝乱れていた髪をざっと手櫛で梳いて、手首にひっかけていたヘアゴムでひとつに束ねる。


 時刻は丑三つ時に近いが、煌々と明かりのついた茶の間からはテレビの音と光が漏れていた。美郷は桜の模様の型板ガラスをはめ込んだ、飴色の木枠のガラス戸の前に立ち止まる。


「――怜路、いい?」


 ひとつ呼吸を整え、美郷は中へと呼びかけた。


 返事の代わりにテレビの光と音が途切れ、畳の上を立ち上がって歩く床の軋みが聞こえる。がたり、と音を立てて目の前のガラス戸が開いた。


「落ち着いたか」


 眠たそうに目を細めながら尋ねる怜路の肩には、白いものが幾重にも巻き付いている。


「うん、ごめん……」


「俺の前にコイツに謝ってやれ。いたくご傷心だぜ」


 そう言って目の前に突き出されたのは白蛇の頭で、しかし見慣れた白蛇は嫌々するように怜路に戻ろうと、美郷から顔を背ける。


「……嫌われた?」


「拗ねてんだろ」


「えっ、白太さん……お前、そんな感情豊かだったっけ……」


 しらんわ、と怜路が戸口から退き、美郷を茶の間に招き入れた。怜路の私室――というより、ねぐらや根城と呼ぶ方がしっくりくる部屋だ。傍らに延べられた万年床の周囲には雑誌や衣類が積み上がり、中央に鎮座するコタツの上は空き缶や食器類でとっちらかっている。


 いつ来ても乱雑な部屋だ。日頃、挨拶代わりに「片付けろよ」と言っているその部屋の生活臭に、今は酷く安堵する。


「延々と肩の上でぐずられても、俺はコイツの飼い主にゃなれねーからな。早く引き取って慰めろ」


 言って、怜路が白蛇を己から引っ剥がして美郷に巻き付けた。


 蛇が肌に触れた途端、「はたかれた、避けられた」と拗ねる感情が伝わってくる。それにゴメンゴメンと苦笑いして、美郷は白い胴をさらりと撫でた。


「おれが悪かったよ。けど、先に怜路と話をしたいから、中に帰ってくるのはちょっと待ってくれ」


 白蛇を受け入れるのには多少時間がかかる。明日もお互い仕事だ、できれば先に怜路と話しておきたい。


「マジな話、白太さんってそんなよく喋るのな」


 横で見ていた怜路が、なんとも言えない顔で腕を組む。


「喋るっていうほど、語彙はないと思うけど……普段こんなに自己主張しないし」


 普段、白蛇が美郷に伝えようとするのは霊的なものに対する警鐘だけだ。大抵、美郷の意識が起きている間の白蛇は微睡んでいる。蛇が起きて美郷から抜け出すのは基本的に美郷が眠っている間なので、両者が起きた状態で相対するのは珍しいのだ。怜路が失踪した時のように率先して協力してくれることは稀で、美郷自身も白蛇を「使役」しようとしたのもあれが初めてだった。


「そうなの? メッチャ喋ったぞコイツ。まあ確かに語彙はなさそうだったが……とりあえず座れよ」


 どこに、と訊きたくなるような散らかり具合だが、さすがに他人様の布団の上は躊躇われる。適当に物を寄せて座る場所を作った美郷に、怜路が座布団をよこした。そこそこ頻繁に美郷はこの部屋にやってくるのだが、前回来たときに自分のために空けた場所が、次に来てそのまま空いていた試しはない。電気コタツに足を突っ込んで一息吐いた美郷に、布団の上で胡座をかいた怜路が「で、」と切り出す。


「とりあえず、単刀直入に俺の用件から言うんだが、白太さんがどうも克樹を見つけたみてーだぜ。昼間お前に無視られたとかで、白太さん一匹で迎えに行きにゴソゴソしてたのを俺が捕獲した。何か心当たりはあるか?」


 ぽかん、と美郷は目をしばたたいた。


「えっ? どういうこと?」


 唐突な話に頭が追いつかず、思い切り眉根を寄せて問い返す。ついさっきまで、夢の中で美郷は必死に克樹を探していた。それは美郷が八雲神社に巣喰う邪気に付け入られた結果で、美郷は確かに心の中で克樹の行方を気にしていたが、実際に探して歩いていたわけではない。


 まだ、夢の続きにいるのだろうか。寝惚けて混乱している美郷に、首元の蛇が思念を伝えてきた。


 ――克樹、見つけた。神社の奥。美郷、うるさいって。


「……ああ、あの時か……! イヤ、ゴメン……余裕なくて……」


 せっかく教えたのに叱られた、と白蛇のご不満がダイレクトに伝わってくる。何か騒いだのは分かった。しかし、うっかり八雲の御神体に引っ張られた直後だった美郷は、これ以上私情に気を取られまいと自分の感情ごと蛇の思念もねじ伏せたのだ。


「お前が今日行ってたっつったら、やっぱ加賀良山か」


 コタツの上に投げられていたA4用紙の紙束を拾い上げ、数枚めくって怜路が美郷に寄越す。何かと紙面に目を落とせば、美郷の職場が作ったデータベースだった。


「お前、いつウチに」


「オメーが出てる間にな。鳴神の連中と違って俺ァ、市民税払ってる巴市民だからな。申請書けば見せてくれるって係長に聞いてさ。写しはもう若竹に渡した。明日早朝から、手分けして潰してく話にしてたんだが……その必要は無ェみてーだな」


 大きく欠伸をしながら怜路が説明する。もう仮眠程度の時間しかない、と時計を見てぼやく大家の仕事の速さに美郷は感服した。


「加賀良山もリストにあったのか。まあ当然だよな……にしても、そんな偶然ってアリなの」


 昼間行った場所の、すぐ目の前に弟がいたと思えば、言いようのない脱力感に襲われる。それに気付かず、気付いていた白蛇どうきょにんの言葉にも耳を貸さず、挙げ句、その弟を追う悪夢を見ていた自分が随分な道化に思えた。がっくり項垂れる美郷の斜め横で、ペットボトルの炭酸飲料をあおりながら怜路が「どうだろうなあ」と返す。


「俺は縄目渡りなんぞやろうと思ったことも無ェが、何の目印もなしにホイホイ思い通りの場所に行けるようなモンじゃねえだろ? 加賀良山にゃお前の式神がいた。そいつに克樹が引っ張られた可能性もあると思うがね」


 確かに、加賀良山には晴人の身代わりとして置いてきた美郷の式がいる。


「でもそんなの、克樹は別におれを探してたワケじゃ……」


「若竹はそう踏んでたぜ。克樹が家出するとして、お前以外に理由は見当たらないみてーな口振りだった」


 明後日の方向に言う怜路の目元は、サングラスが照明を反射していて見えない。なんと返すべきか迷い、美郷はしばらく黙り込んだ。


(克樹が、おれを)


 それこそ、悪夢の再演だ。フラッシュバックする醜悪な感情に、美郷は口元を押さえる。美郷に用件を伝えて満足したらしく、首元の白蛇は眠ってしまって動かない。沈黙の落ちる室内に、コッチコッチと壁掛け時計の秒針が音を刻む。


「つまり、全部おれのせいか」


 気力を振り絞って発した声は、それでもガス欠のスプレーのように無様に掠れていた。


「なんでそうなる」


 若干面倒くさそうないらえが返る。だが今夜はもう、「だって」と理由を語る気力も残っていない。


「つか、お兄ちゃん恋しさにここまで来たんだぜ、いじらしいじゃねーの。俺も仕事だから若竹連れて行くが、それよかお前が迎えに行ってやった方が克樹も喜ぶんじゃねえ? 散々心配させられたんだ、直接叱り飛ばしてこいよ」


 気の抜けた口調で怜路が続ける。第三者目線からはそう映るのか、と美郷はぼんやり考えた。


「そんな良い話じゃない。もう、おれが鳴神を出てから五年も経ってるのに、あいつがこんな無茶をしてまでおれを探すなんて、家の連中と上手く行ってない証拠だ」


「だからお兄ちゃんを頼って出てきたんだろ」


 そう頷く怜路に、美郷の言わんとすることを伝えるのは難しいだろう。


(違う、そうじゃない……)


 克樹が今孤独を味わっているならば、それは美郷のせいだ。


(でも、そんなこと怜路に言って何になるんだ。おれの負い目なんて、怜路の知ったことじゃない。これ以上、面倒なことを言って迷惑もかけたくない。どうすれば、どう言えば、お互い面倒な思いをせずに済むだろう)


 情けない。こうして黙り込むしかできないこと自体が、申し訳なく恥ずかしい。気持ちを上手く立て直せない己に歯噛みする。


「……俺ァ、羨ましいけどな」


 沈黙に耐えかねたような怜路の呟きが、ぽつりと深夜の茶の間に落ちた。

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