鎖(一)

 8.



「臨兵闘者皆陣烈在前!」


 ばしん! と怜路の気が離れの引戸を叩く。戸にびっしりとたかっていた、小さな黒い甲虫が弾き飛ばされて散った。


「俺ァキショいのは嫌ェなんだよ!!」


 言って戸を開け放ち、怜路は白蛇を巻き付けたまま、不動明王の火焔を召喚する。


「ノウマク サンマンダ バザラダン カン!」


 和室の中を白い幻炎が舐めて、布団に横たわる美郷に群がっていた黒い靄を灼き尽くした。酷く邪悪で陰鬱な気配は、物の怪の妖気とも人の怨念とも違う。どろりと澱みすえた水のような、収納の奥に忘れ去られていた食料品の放つ臭気のような、掴み所のない邪気だ。


 ――みさと!


「待て待て、人間は燃えねえから落ち着けー。あと、お前は燃えるからまだ俺から降りるなー」


 ぎゅう、と慌てた白蛇が絞めつけてくるのを宥め、怜路は和室に踏み込んだ。


「起きろ美郷ォ! 邪気に喰われてる場合じゃねーぞ!」


 どこで拾ってきたのか知らないが、随分なものに取り憑かれている。妖魔の類に対して最高の護りである白太さんが突破されたということは、余程厄介な相手であるか、あるいは美郷自身が引き込んでしまったのだろう。


(まあ、今のコイツは心の隙なんざ、ガバガバに空いてやがるだろうしな)


 実も蓋もないことを考えながら、怜路は魘され丸まっている美郷から布団をひん剥いた。


「おい、目ェ覚ませ!」


 はっ、と美郷が目を開ける。混乱し、怯えた瞳が怜路を見上げた。


「――っ! りょう、じ……?」


 怜路を振り払って、美郷は身構えるように蹲る。ほどかれた長い黒髪が、ざんばらに乱れて顔にかかっていた。まるで手負いの獣だ。


「……白太、さん?」


 怜路に乗っかったままの白蛇をみとめ、美郷の表情に困惑の色合いが濃くなる。ゆっくりと構えを崩し、美郷が半身を起こした。


「おう、脱走してたから返しに来たんだがな。お前、代わりに何連れ帰ってやがった」


 するすると怜路から下りて、白蛇が美郷の中に帰ろうとする。


 蛇が膝に乗り上げた瞬間、美郷が悲鳴を上げて白蛇を払い飛ばした。蛇を拒絶するように両腕で己を抱き、来るな、と再び蹲る。


「おいおい」


 驚き呆れた怜路に答えず、美郷は肩で息をする。驚いたのは蛇も同じらしく、跳ね飛ばされた場所で戸惑ったように鎌首を揺らした。


 なんと声をかけたものかしばし悩み、怜路は結局、白蛇を回収して再び肩に乗せる。触れる白い蛇体からは、戸惑いばかりが伝わってきた。


「――部屋の周りに結界張っとくぞ。頭が冷えたら出てこい。白太さんは借りとくぜ」


 言って来た道を引き返す。和室を出て引戸を閉めると、ショックに固まったままの白蛇を撫でた。


「意外とお前、今まで拒絶されたことなかったのな? ……泣くなよ、アイツもたぶん、悪い夢でも見ただけだぜ」


 自分は何を励ましているんだ。先ほどとは別の理由でぎゅうぎゅうと首に巻き付いてくる白蛇を慰めながら、怜路は深夜の天井を仰いだ。

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