絆(二)


 ――半年前。怜路が見たそれは、じっとりと湿度と粘度の高い、生温い闇が絡み付くような真夏の夜の悪夢だった。


 ひょうひょうと寒々しく熱帯夜を震わせた笛の音が止まる。


 岩笛を持つ美郷の両の手が、力なく膝に落ちた。


 手からこぼれ落ちた岩笛は、寝乱れた布団の上に転がった。俯く美郷の表情は見えない。汗に湿った黒髪が、頬に流れて白い顔を隠している。


 かたり、と中庭に面した掃き出しの網戸が鳴った。隙間から、這い出して来るものがある。真珠色の鱗が、てらりと蛍光灯の光に波打った。


 白蛇だ。


 岩笛に呼び戻された白蛇が真白い胴をくねらせ畳を這い、布団に乗り上げ、美郷に取り付く。項垂れたまま動かなかった美郷が、小さく囁いた。


「おかえり」


 寝乱れて大きく割れた裾から、白い腿が覗いている。その上を這った蛇が寝巻を上る。肌蹴た合わせから汗に湿る肌を辿り、するりと首に巻き付いた。美郷は動かない。傍らで一部始終を見守る怜路を、認識しているかすら分からない。


 黒絹越しに見える形の良い唇は、うっすらと笑んで見えた。


 それが喜びや安堵の笑みなのか、それとも諦観のそれなのか。怜路からは分からない。


 白蛇の頭が、美郷の首元から背中へ突っ込む。びくり、とひとつ美郷が痙攣した。色の薄い唇が僅かに開く。蛇に背を差し出すように前屈みになり、少しばかり荒い呼吸を漏らした。


 蛇はずるずると美郷の中へ消えていく。


 美郷は、俯いてそれに耐えている。寝巻の肩が落ちて、背が剥き出しになる。蛇の潜り込む場所が、辛気臭く黄ばんだ蛍光灯の下に晒け出された。


 ああ。これは、他人が見てはいけないものだ。


 息を殺して怜路は見詰める。美郷が、蛇に侵されてゆく。何を思ったか、形の良い長い指が、そろりと蛇の胴を撫でた。


 長い黒髪が前に落ち掛かり、ますます表情は見えない。美郷が蛇を疎んでいるのか、受け入れているのか。ただ屈辱に耐え甘んじているのか、多少の情はあるのか、怜路には分からない。


 恐ろしく、しかし妖艶で美しい。そして、酷く哀しい光景だった。


 ――長い、長い侵食が終わる。


 終始無言でそれに耐えた美郷が、億劫げに寝巻を整えた。初めて怜路を思い出したように頭を上げる。


「おつかれさん、笛は返しとけよ」


 何か美郷が言う前に、できるだけ優しい口調で声をかけて立ち上がった。返事はない。それ以上相手を窺うこともせず、怜路は部屋を立ち去ることにした。


 多分、美郷はなにも言わないだろう。 怜路も自分から、その夜の光景について口にする日は来ないだろう。


 襖の閉まる音が、夏の廊下に響いた。


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