絆(一)
7.
不意に、どうと山が轟いた。
突風に舞った木っ端から顔を庇い、克樹は目を細める。
「何だ――ああっ。あにう――!」
え、と言う間もなく、克樹が追っていた紙縒りの式神はどこかへ飛ばされてしまう。せっかく見つけたのに、と肩を落とし、克樹は諦めて道を引き返すことにした。
(今、一瞬山の結界が解けかかった……きりのに何かあったのか?)
この山の主たる、粗末な身なりの少女を思う。
縄目を辿り、兄の気配を追って辿り着いたこの山で、克樹は「きりの」という名の少女と出会った。山を支配し、山に封じられている彼女の呼び掛けに、うっかり返事をしてしまったのが運の尽き、以来全く時間経過の分からない山の中で、恐らく数日間過ごしている。
全く腹も減らない、眠くもならない。暑くも寒くもない。山も自分も完全に時が止まっていた。見上げる空は白い闇に蓋をされ、暗くも明るくもならない世界には己の影すら落ちない。まさしく、現世とは隔絶した場所だ。
「克樹!」
目指す山の上から、少女の声が降ってくる。膝下までしかない、裾の擦り切れた着物を蹴立てて、小柄な体が駆け下りてきた。
「きりの。今のは何だ?」
「外に見つけたの、私『達』と同じ鬼!」
「『鬼』を?」
嬉しそうにはしゃぐ少女の年頃は十二と聞いた。この閉じられた山の中で、独り「鬼ごっこ」の始まりを待っているという。私達、と克樹も一緒に括られてしまっているのは、最初声を掛けられた時、咄嗟に「自分も追う側だ」と力説してしまったからだ。半分は本音、もう半分は状況からして、「追われる側」と認識されてはまずいと思ったからだ。そして、恐らくその判断は正解だった。きりのに仲間と認識された克樹はこの山から出られもしないが、きりのに害されることもなく、飢えも凍えもせずに過ごしている。
きりのはずっと、鬼ごっこの相手を探していた。きりのを鬼にして山の上に待たせたまま、消えてしまった妹を。
「そう。これできっと、おふさを見つけられる」
くすくすと無邪気に喜ぶきりのは一見、何の害もない少女だ。
(だが、きりのは恐らく、妹のおふさを呼んでは人間を山に引きずり込んでいる……。兄上の式は、きりのに引っ張られてしまった者の身代わりだろう)
あの式神は鳴神の秘術だ。作り方や用途は克樹も知っている。
(アレを手に入れられれば、入っている髪から兄上の所在を追える。だが不用意な真似をして、兄上の仕事の邪魔をするわけにはいかない)
克樹の兄は、鳴神を追われた後も鳴神の術を使い、呪術者として生計を立てている。そのことに克樹は安堵していた。暮らす土地は変わっても、克樹の敬愛する兄はその才で、克樹と同じ世界に生きている。
(あの式をずっと見張っていれば、どこかで兄上と会えるはずだ)
きりのに仲間と認識されてしまった克樹は、きりのと同じ山の結界に阻まれて外に出ることができない。力ずくでの突破は可能かもしれないが、同時にきりのも山から解放されてしまう。委細は分からないが、この少女は厳重に封じられた「祟る神」なのだ。
「お社に帰って遊びましょう」
克樹の手を引いて、きりのが山の斜面を上り始める。すると、ほんの十数歩も柴木を掻き分けた先に、山の頂上付近に佇むはずの磐座が見えてきた。先ほどまで麓近くにいたのだが、現世の理屈は通用しない空間なのだ。
(きりのはこの山の主のようだからな……しかし、人柱にしてはとうが立っている。妹、というのが幾つだったのか分からないが)
きりのは「山」そのものの器として人柱に立てられた様子だが、普通そういった
ある場所を境に、突然足元の雑草や柴木が消える。地面を覆うのはただ枯葉ばかりになり、目の前には、山頂に近いなだらかな傾斜の途中に、灰茶色の巨岩が突き出して見えた。
風化によって、山そのものが洗い出されたような
ほんの子供一人入れるか否かの、祠と呼ぶ方がふさわしいような、慎ましい社である。克樹がいくら歳のわりに小柄といっても、きりのと二人で入れるはずもない大きさだ。しかし、まるでにじり口のような丈の低い戸をくぐり抜けると、中には八畳ほどの板間が広がっている。きりのは始まらない鬼ごっこに飽きるとここで休み、部屋に無造作に散らばる玩具で遊んで時を過ごしているようだった。
むごい話だ、と克樹は思う。
知識として、かつて実際に人柱が立てられていたことは知っていた。しかし、こうして恐らく大した慰めもないままに、永久の時を独り過すきりのは酷く哀れだ。
(独りぼっちは、辛い)
散らばる玩具は人柱の慰めに、と捧げられたものだろう。もう資料館でしかお目にかかれないような、古い時代のものばかりだ。きりのは恐れられ、封じられているだけで、慰め鎮めてもらえずにいる。
「今度は何をするんだ? またあやとりか? 指相撲か?」
およそ、克樹が知っている「遊び」はそろそろ出し尽くしたが、きりのがそれらに飽きた様子はない。
(そんなに簡単に、私一人できりのを鎮められるとは思わないが……。兄上ならば、きっと話を聞いてくれる)
克樹の兄は、柔らかく笑う優しい人だ。きっと、きりのにも親身になってくれるはずだった。
きりのがあやとり糸を掴む。二人以上で初めて成立する「遊び」は多い。
さあ、やるぞ、と克樹は板間に胡坐をかいた。兄の式神を追うための仕掛けを、折を見て山の麓部分にいくつも置いてきた。克樹のいる山の異界と現世の端境をふらりふらりと漂っている式神は、風に流されて一定のルートを周回しているようだ。
克樹がきりのの相手をしている間は、きりのが里の人間を引っ張ることはない。何とかきりのの意識を己に向けた状態で、式神を捕えれば兄は異変に気づくだろう。
(年下の相手は慣れていないが、存外どうにかなるものだ。兄上も、散々私に付き合ったのだろうな)
五歳年上の兄は、克樹の記憶が繋がるか否かのごく幼い頃に鳴神にやって来た。それ以降、克樹の小さな頃の思い出の中には常に優しい兄がいる。
(まあ、常に完璧に優しいばかりの人でもなかったが……五つも年下の子供に振り回されていれば、多少の憂さ晴らしはしたくなっただろう)
稀に、気付くと克樹の菓子がひとつ減っていたり、何かのゲームの最中で、明らかなズルをされたこともあった。その場は上手く誤魔化されて、今更思い返してあるいは、と思うこともあるし、その場で癇癪を起して大泣きして、結局兄の方が散々克樹を慰める破目になったこともある。それらも含めて克樹にとっては大切な思い出で、克樹の幼少期の全てだ。
「おふさともね、こうやって遊んであげてたの。おふさは全然あやとりがへたっぴだから、すぐ糸をぐちゃぐちゃにして泣きだしてね、わたしが糸をほどいてね……」
細い指を器用に動かしながら、きりのは徒然と思い出を語る。その大半は、幼い妹に手を焼かされた話だ。
「いっつもね、おふさがわがままを言って、わたしが怒られるのよ。母さんはわたしがキライなの」
憤懣やるかたなし、といった雰囲気の言葉が、ずきりと罪悪感を刺激する。
「――だが、おふさは沢山遊んでくれるきりのが大好きだったのではないか?」
散々我儘で振り回した覚えは、自分にもある。だが時に困った顔をしながらも、兄は根気よく克樹に付き合ってくれた。窮屈な生活の中で唯一、克樹の思いに耳を傾けてくれる人だった。
(あの人にとっての私も、邪魔なお荷物だったかもしれない)
そう思ったことは、これまで幾度もあった。最後に見た時の、真っ白に凍てついた横顔が忘れられない。あの時、兄はすれ違う克樹を一瞥もしなかった。今更会いに行ったところで、拒絶されるかもしれない。もうあの人にとっては、鳴神のことも、克樹のことも闇に葬ってしまいたい過去かもしれないのだ。
(鳴神は、私が変えてみせる。そのために、兄上を迎えるためだけに、私は鳴神を継ぐ)
それは、兄が出て行ったあの日誓った決意であり、あの日以降色を無くした世界で、唯一の克樹の生きる目的だ。
「そうよね。おふさは隠れんぼ鬼ごっこが大好きだったもの。また、絶対わたしに見つからないような場所を必死に探してるのね」
ざわり、と社の中の空気が動く。軒下すぐの高い場所の、ほんの小さな窓から明かりを取る室内は薄暗い。四隅にたぐまる闇が蠢いたような気がした。
(昏い、昏い闇の気配だ……)
「ああ。だから今は、私とあやとりでもして待っていてやろう」
――おふさもきっと、見つけてもらえるのを待っているから。
喉元まで出かかった慰めの嘘を、克樹はぐっと飲み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます