八雲神社(三)
「――君! 宮澤君!!」
はっ、と美郷は現実に立ち戻った。がんがんと耳元で鼓動が響く。酸欠の魚のように、肩で荒い息を繰り返した。
相手に、引きずり込まれた。
美郷の肩を掴んで揺さぶっていた大久保が、やれやれと手を離す。
「どがしたんな、シャンとせえ」
若干厳しい声音に、すみません、と美郷は謝った。視界はいっそう薄暗く、昼間とは思えないほどの闇が社殿の中を満たしている。
目の前の棺桶をもう一度見下ろす。安置されているのは、朽ちた大きな藁人形だ。加賀良山に奉納されていたというものだろう。人形の周りにはぱらぱらと小豆らしき粒が零れて散らばっている。
「暗い、ですね……」
動揺を誤魔化して美郷は言う。応えるように、背後の蛍光灯が明滅した。身体を揺さぶるように、いまだ鼓動が騒いでいる。
ジ――、ピンッ。ジ――――……ピンッ。
耳障りなノイズをたてて、不機嫌に蛍光灯が瞬く。不規則に暗転する視界の片隅で、闇が蠢いた。
ジジジジジジジジジ、ピンッ。ジジジジジジジジジジジジジッ、ピンッ。
暗転するたびに、ノイズが音量を増す。木箱の中で、闇がノイズを増幅させる。
「宮澤君」
大久保の目配せに頷いて、美郷は浄めの結界を張るため印を組んだ。
「オン キリキリバザラバジリ……!」
ジジジジジッ。木箱の中から溢れ出した闇――夥しい数の黒い羽虫の群が、社殿内いっぱいに羽音を響かせる。
「――ホラマンダマンダ ウンハッタ!」
ぱんっ、と大きく家鳴りが弾け、静寂が落ちた。
「社殿周りにゃあ結界を張っとります。戸を閉めてしまやあ一旦封印できますけえ、田上さん、蓋を閉めて出ましょう」
田上に呼びかけて、大久保が木箱の蓋を持ち上げる。古びた藁人形の腹部からは、小豆を詰めた手のひら大の巾着がいくつもはみ出していた。虫に食われた巾着から、小豆が零れ出て箱の底に散らばっている。
蓋が閉められる。美郷は印を組んで結界を保持したまま、「御神体」を見つめる。
藁人形が蓋の影に沈む一瞬。
再び、白く丸い頬が闇の中に見えた。
ガタン! 閉められた瞬間、蓋が大きく上に跳ねる。大久保と田上が慌てて押さえ込んだ。だんっ! だん! だん! だんっ!! 何かが箱の中から蓋を殴る。殴って、蹴って、閉じこめられた棺桶から出ようともがく。男二人が押さえつける木箱の蓋が、小さく跳ねては障気をこぼす。
「宮澤君! 儂の封じ符を渡しとったじゃろう、貼ってくれ!」
「はい!」
作業用のヒップバッグから、美郷は渡されていた霊符を取り出した。
「天火清明、天水清明、天風清明、急々如律令!」
手早く符の裏に貼った両面テープの剥離紙をはがし、蓋と箱に封をする。とたんに箱はおとなしくなった。念のため、もう三カ所、四方を封じるように符を貼る。両面テープが革命的か間抜けかは意見の分かれるところだが、とりあえず霊符の効力に影響はない。
「……抑え込めたか」
言って、慎重に木箱の様子を窺いながら大久保が立ち上がる。田上も血の気の退いた顔で木箱から距離をとった。
ジジジジジッ。
なおも内陣の隅にたぐまる闇が、美郷の浄め結界から解放されて羽音を鳴らす。外では本格的に雨が降り始め、屋根を叩く雨音がノイズを重ねた。ぷつり、と蛍光灯が事切れて、社殿の中が薄闇に沈む。
「箱から出たんが残っとるな」
「……すみません」
動揺が術に響いて、いつもの力が出せていなかった。吐息のような声で謝る美郷に、返る声はない。
美郷は拳を握る。
――きちんと祓えなかったこと以上に、この闇を呼び込んだのは美郷だ。
「まだ、ここで調べにゃいけんことがある。宮澤君、あれをみな祓えるか」
「やります」
腹の内側では、白蛇がやたらに騒いでいる。集中力を削ぐそれを心の中で一喝して黙らせ、美郷は改めて呼吸を整えた。
「掛けまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、禊ぎ祓へ給ひし時に生り坐せる祓へ戸の大神たち、諸々の禍事、罪、穢あらむをば、祓へ給ひ清め給へと、白すことを聞こし召めせと、恐み恐みも白す――!」
ぱんっ! と高らかに柏手を鳴らす。突風が観音開きの戸を叩いて、風雨が内陣まで吹き込んだ。冬の冷たい空気が中に凝る闇を吹き払い、空の彼方へと連れ去ってゆく。
突風に舞い上がった黒髪が背中に落ちて揺れる。伏せていた目を開き、美郷はひとつ大きく深呼吸した。一拍の間を置いて、思い出したように蛍光灯が再点灯する。
「消えたのう」
周囲の気配を探って、大久保が言った。はい、と美郷は頷く。
「宮澤君。さっき一瞬引っ張られたじゃろう」
「……はい」
普段は豪放で明るい口調の大久保が、美郷の正面から静かに問うた。叱責を覚悟して大久保の顔を見た美郷に、静かな声が続ける。
「油断することは誰にでもある。じゃけえこそ、現場に出る時はできるだけ二人一組にするんじゃ。けどな、自己管理とメンタルコントロールも覚えにゃいけんで。儂らの仕事は、そこが生命線じゃ」
「はい」
「プライベートに口出しする気は無ァよ。ただ、現場に持ち込んだら事故に繋がるけえ。次から気をつけるんで」
はい。と美郷は改めて頭を下げる。
睡眠不足や頭を離れない心配事で、意識が散漫になっていた。怪異は遭遇する者の精神に働きかけてくる。対峙するときは気持ちを引き締めて、精神を落ち着かせておくべきだ。分かっていたのに、油断した。
いくら身内が心配と言っても、今の美郷にできることなどない。気を取られて、敵に付け入られるなど論外だ。自己嫌悪で更に落ち込みそうになる心を、どうにか奮い立たせる。
「今後注意します。すみませんでした」
顔を上げて、まっすぐ大久保を見て言った美郷の肩を、表情を緩めた大久保がぽんぽんと叩く。
「頼りにしとるんじゃけえな。頼むで」
はい、と苦笑いした美郷に頷いて、大久保が辺りを見回した。
「はァあの『御神体』は開けられんが、他に何ぞ資料が無ァか探して見ましょう。宮澤君も田上さんも、何ぞ見つけたら儂に言うてください。絶対に一人でいじらんように」
静観していた田上が、了解して動き出す。美郷も大久保と手分けして、内陣の奥に設えられた祭壇とその周りの検分を始めた。
「田上さんの言われた、七年に一度の作り替えの資料というか、帳簿みたいなのとかあるといいですよね」
七年単位で遡り、飢饉の記録と照合すれば「始まり」の年が分かる。美郷の言葉に同意した大久保が、天井を見上げて田上に問いかけた。
「そういやあ、田上さん。今は長曽の小豆はどうしょってんです? 育てるのは育てよってんでしょう。さっき見た御神体に小豆が入っとったいうことは、元は収穫した小豆は、あの藁人形に入れよったんじゃろう思うんですが」
巴小学校まで長曽小豆の種豆が渡ってしまったということは、まだ小豆が栽培されているということだ。種は普通、そう何十年も生きながらえるものではない。
「あの小豆は、長曽の組内で持ち回りで栽培しよりました。収穫した小豆はここへ供えて、次の年のとんどで焚きよったですな。そうそう、アレも七年ごとの当番でしたなあ。はァ今は植えられる家が少のうなりましたけえ、ここ二十年くらいはひとつの家がずっと管理しよるはずですが」
探索の手を止めて、田上が記憶を探るように天井を睨みながら言った。美郷と大久保は視線を合わせる。
「その家を、教えて貰えやァせんでしょうか」
大久保が田上に頼む。ええですよ、と田上が快諾した。
「わたしから連絡してみましょう。天気も悪いですし、今なら家におってじゃろう思いますが、どうされますか?」
田上の言葉に、周囲を見回し、時計を確認した大久保が頷く。
「お願いします。ここにゃあ何も無さげなですけえな」
大久保の言うとおり、本殿の中に祭壇の神饌と御神体以外に、目に付く物はない。得られそうな情報から集めていく方が得策に思える。
時刻はもう少しで昼だ。午後一時から訪問したい旨を田上に伝え、美郷たちは長曽八雲神社の社殿を出る。
ぷわり、と一匹の黒い羽虫が飛んで、美郷の影に吸い込まれて消えた。
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