兄と弟(終)


 澄んだ冬の夜空を見上げる。狩野家を抱く里山の影に北側を切り取られ、虚空の濃紺に星々を散りばめた闇夜が美郷を迎えた。


 街の明かりも遠い狩野家の庭からは、夜空の星が良く見えた。夏場ならば、大きく中天に天の川が流れる。冬は、美郷に分かるのはオリオンくらいだ。


 ほわり、と白く呼気が漂う。家の軒にぶら下がった白熱灯に照らされて、僅かに橙色に光る。月のない、綺麗な星空だった。夜を歌う小さな生き物たちが眠りについている季節、耳に届くのは遠い瀬を流れる微かな水音だけだ。


 宵っ張りの大家はまだ起きている気配だが、時刻は既に深夜だ。怜路の車で寝入ってしまい、夕飯を食べたら目が冴えた。握って出てきた携帯電話に視線を落とす。


 液晶の白い光が、夜闇に慣れた美郷の目を灼く。真っ白い画面に表示されているのは、携帯電話の番号だった。父親から、預かったものだ。


 美郷が進む大学を突然変え、鳴神を出ると父親に直談判した時に渡された。そこに至るまでの騒動について、結局全てを共有することはできないまま、美郷は「もう鳴神には戻らない」とだけ告げた。


 父親は――鳴神家の現当主はそれを了承した。特に引き留めも後押しもなかった。ただ、連絡が付く番号を自分にだけは教えておいてくれと頭を下げられた。決して他言はしない、と強調する父親は、恐らく美郷の身に起きたことも、美郷が何を望んでいるかも理解していたのだろう。


 泣いて謝罪して、抱きしめて慰めてくれればと、思わなかったわけではない。だが例え「もうこれ以上辛い思いはさせない、必ず守る」と言って貰ったところで、美郷は恐らくそれを振り払って家を出ただろう。それくらいあの時、美郷はもう「鳴神家」という場所に辟易としていた。


 父親からの謝罪は、ただ一言だった。誰として、どの立場の人間としての言葉か、なにをどう悔いているかも、何もなく、ただ「すまない」とだけ頭を下げられた。


 たった一言の謝罪だった。だが、全てを背負って重く、重く響く言葉だった。


 震える肩と、押し殺して絞り出すような声と、白くなるまで握りしめられた膝の上の拳と、言葉以外の全てが語るものがあった。だから、美郷も一言だけ「いいよ」と返して番号を受け取ったのだ。


 家を出て、新しい携帯電話を契約して、受け取っていた番号にショートメッセージを送って、それきりだ。父親は美郷の住所も就職先も知らないはずだった。あれ以来、声も聞いてはいない。


 メッセージ画面を開く。履歴はたったの二行だ。自分から父親に宛てた、番号を知らせるメッセージと、それへの返信のみ。


 克樹のことを聞きたい。それだけの理由で、今の今まで連絡を取らなかった父親にメッセージを送るべきか否か。美郷は昨日あたりからずっと悩んでいる。


(訊いて、教えてもらえる立場でもないんだよな……)


 もう、美郷と鳴神家は何の関わりもない他人だ。元より書類上、美郷と鳴神家の当主は親子ですらない。事実上の関係が途切れてしまえば、美郷と鳴神の繋がりは何も残っていなかった。


 既に、連絡を入れるのは非常識な時刻になっている。諦めてバックライトを切り、美郷はもう一度星空を見上げた。分かるのはオリオン座だけ。どれかがシリウスで、どこかに昴があるのだったか。夜空の星が好きだった弟は、冬の大三角形だか六角形だかも知っていた。熱心に講義されたはずだが、覚えていない。


(草花は覚えられたんだけどな……星はどうも分からない)


 散歩に歩く先々で「あれは何」と訊いてくる弟の為に、植物図鑑にかじりついた日々も懐かしい。四季折々の草木は、季語としての知識も含めきちんと覚えられたので、単純に相性なのだろう。


 冬は大六角形を見に、夏は流星群を見に、何かと夜に外出したがる小学生に手を焼いたものだ。若竹が頭ごなしに却下する人種なせいもあってか、克樹が我儘を言う相手は常に美郷だった。


(あいつ、バスの乗り方なんか覚えてたんだな……。同じ路線に、同じバス停から乗ったのかな。――今度は一人で、どこに行くつもりだったんだ)


 鳴神の本宅から、徒歩で行ける範囲にあるバス路線はひとつだ。あの日の記憶が、まだ克樹の中に刻まれているのか。


(あの日、おれは……克樹を――)


 当時の美郷は、自分に戸籍上の「父親」が存在しないと知ったばかりだった。


 実母は約半年前に、突然美郷を置いて鳴神を出て行った後だった。


 冬の大六角形と違って、流星群は南東の空が開けていなければ観察できず、鳴神家の立地は南東の方角を山で覆われた海岸だった。見ようとすれば平野に出るしかなく、帰りのバスなどないことを、当時の美郷は知っていた。


 ――それでもあの日。美郷は克樹の手を引いてバスに乗った。

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