兄と弟(二)


 チッ、とライターの火打石が鳴って、暗い車内に火花が光る。パワーウインドウのモーター音と同時に、夜の県道を駆けるタイヤの音とごうごう唸る冷たい風が押し寄せてきた。エンジンをかけたばかりだ。エアコンはいまだ温風を吐かず、十二月の夜気が美郷を冷やしている。


 紫煙が車内を漂う。左手にステアリングを握り、怜路の右手が車の外へ灰を弾いた。朱い蛍火が、怜路の口元で明滅する。美郷は助手席から、見るともなしにそれを追っていた。


 怜路は喫煙者だが、普段見ていてそうヘビースモーカーとは感じない。だが今日は、居酒屋の前で合流してから車までの間に一本、そして車に乗ってすぐにまた一本だ。だいぶストレスを溜めているらしい。


 美郷の――正しくは、鳴神克樹のことだろう。申し訳なさからくる居心地の悪さと、早く話が聞きたいと焦る心を押し殺して、美郷は手元に視線を落とす。既に帰宅時間を過ぎた平日夜の県道に、走る車はまばらだ。


 普段ならばつけっ放しのラジオも切られている。排気量の大きなセダンの、品の良いエンジン音が体に響く。市街地を抜けた車が、橋を渡って信号を左折した。市街地の脇を走る国道に入れば街並みの明かりはぐんと減って、道路灯の橙色の明かりが一定間隔で過ぎてゆく。


 ――初めて顔を合わせたときの鳴神克樹は、随分と神経質そうな幼児だった。


 幼い顔を曇らせ美郷を警戒する三歳児に、戸惑ったのを覚えている。


『みっちゃん、克樹君の「おにいちゃん」になってあげてね』


 初めてだらけの別世界に連れてこられて数日目、美郷と共に克樹と会った母親は、美郷の頭を撫でてそう言った。周囲には他に何人か大人がいて、彼らが美郷に向ける視線は、柔らかくも温かくもなかったように記憶している。


「……若竹とかいう奴に会ってきたぜ」


 ぽつりと怜路が言った。明らかに、気持ちの良い面会でなかったのが伝わる口調だった。


「うん、何て言ってた?」


「鳴神克樹……お前の弟君が、行方不明だと。家出っぽい言い方だったな、自分でバスに乗って、大社近くの山から縄目なまめに入ったんだろうとさ」


 縄目、と美郷は小さく繰り返す。酷く無茶な家出の仕方だ。鳴神の次期当主として、それだけの才能があればこそ可能な方法かもしれないが。ぐっと胃が硬くなる。昼もほとんど食べていないが、空腹のやって来る気配はなかった。


「いつから」


「もう、五日前つったかな。縄目の中で迷ってるなら、向こうの時間は違うかも知れねぇが」


 神隠しに遭った人間は、浦島太郎のように現実とは全く違う時の流れを過している場合が多い。


「そうならいいけど……」


 十二月だ。もし現世の山中で過ごせば、状況次第では一晩でも危うい。


「鳴神が追えてねェんだから、そういうことだろうよ」


「家出の理由、何か聞いた?」


「――いや。特には」


 そう返す怜路の横顔は苦い。本当に、と確認しかけた美郷を、サングラスの脇から緑銀の眼が見遣った。普段より強く銀を帯びた天狗眼が、うっすらと光って見える。本人から言われたことはないが、この魔眼は怜路の感情の昂りで銀に色味を変えるらしい。


 眼光とは裏腹の素っ気ない口調で、怜路が続けた。


「とりあえず依頼は受けた。詳細はまたメールで送って来るだろ。……しっかし、あの、若竹って野郎。鳴神家ってなァ、随分とまあご立派なお家として家人を躾けてやがるな」


 言葉が含むあからさまな棘に、思わず苦笑が漏れる。


「ああ、あの人は……ね」


 まだそう歳の人物でもないのに、やたらと頭が固くてやり辛い相手だ。


「最初に会った頃から……あの人もまだ十代だった頃からそんな感じだよ、多分」


 けっ、と面白くなさそうに吐き捨てる怜路に、小さくゴメンと謝った。


「オメーの謝る話じゃねーだろ」


「そうだけど」


 なんというか、やはり「ウチの者がすみません」という気持ちが抜けない。面白くなさそうに目を眇めた怜路が、皮肉っぽく口元を歪める。


「オメーにとっても、散々ご迷惑をかけられた『他人』じゃねェか」


 あんな連中。声音は僅かに、本物の怒気を孕む。余程反りが合わなかったのだろう。「そうなんだけど、」と繰り返しそうになって、飲み込んだ。だけど、克樹は。弟は。


 ――克樹と初めて会ったその当時、美郷は八歳。まだ子供で詳しい事情を理解できはしなかったが、漂う異様な空気くらいは察知できた。


 自分の隣には母親がいて、一人小さくなってこちらを窺う幼子の背後にも、美しい和装の女性がいた。美郷と幼児は「兄弟」で、母親はそれぞれいて、だが、父親は一人だ。


 ――ああ、自分はこの幼児から、「父親」を奪ったのだ。


 広くて薄暗い和室の真ん中。周囲を大人に囲まれて、孤独に我が身を守る幼児を前にして、美郷は感じる居心地の悪さが腑に落ちた。自分はこの場所と幼児にとって、余計で邪魔な存在なのだと。


 無邪気に顔も知らない父親を信じ、去年初めて届いた誕生日プレゼントにはしゃいだ自分と、両親と一緒に暮らしているのに野良猫のような幼児が「兄弟」として向かい合う。それは酷く歪な構図に思えた。


 そして、この幼子の『兄』という役割が己にとって唯一、鳴神家で許される居場所だと、賢しい子供だった美郷はすぐに気付いてしまった。


「……でも、克樹はやっぱ、弟だし。まだ見つかってないなら探してやりたい。若竹さんは何て言ってた? 巴の辺りに居るのか、克樹は」


「もしかしたら、な。場所は大雑把に、県北一帯を探してるらしい。縄目のありそうな場所のピックアップからだな」


「うん、おれも――」


「オメーは仕事しろ公務員」


 ぴしゃりと遮られて肩を竦める。職権濫用禁止、公僕の自覚を持て、誰の払った税金で飯を食っているんだ。等々、だいぶ酷い言葉が続けて投げられたが、結局美郷への配慮だろう。


「明日明後日は我慢しろ。土日は付き合ってもらうからよ」


 渋々といった様子で付け加えられた言葉に、ふっと笑いが漏れる。短くなった煙草を、怜路が車の灰皿に捻じ込んだ。なんだ、と顔を傾ける左耳にはピアスが光る。


「いや、お人好しだよねぇって」


 ナリは完璧なチンピラのくせに。声にしなかった言葉が届いたように、ちっ、と舌打ちした怜路が金髪頭をわしわしと掻く。パワーウインドウが上がり、車内が静かになった。エアコンは温風を足元に吹き付けている。一旦ステアリングに戻った右手が、もう一度紙箱を求めて胸ポケットに伸びた。


「お前、今日随分喫うね。そんな若竹さん苦手な感じだった?」


 いつもと銘柄が違う。灰皿の中には、見慣れた銘柄の吸い殻が詰まっていた。一箱空にして、本日二箱目を出先で買った、といったところか。


「ありゃ無理だ。言葉が通じる気がしねェ」


 胸元で止まった右手が、美郷の言葉に追い返されて渋々ステアリングに戻る。トントントン、と苛付きを表すように、人差し指が革張りのリングを叩いた。


「見てないからね、相手を」


 怜路は嫌いなタイプだろう。するりと漏れた言葉は存外ひんやりと冷気を帯びて、怜路の指が動きを止めた。遠方で、歩行者信号の青が点滅を始める。まもなく赤に変わり、道路信号も黄色へ。怜路の足がアクセルから離れ、車がゆっくりと減速を始める。


「へェ、どういうこった」


「まんまだよ。目の前の相手を、そのものの形で認識することができない人だ。克樹なら『鳴神家の次期当主』として、お前なら多分、『地元の個人営業の拝み屋』として、字面だけの情報でしか相手を認識できないんだろうと思う」


「酷評だな」


 けっけっけ、とやけに嬉しそうな笑いが響く。慣性だけで進んでいた車にやんわりとブレーキがかかり、赤信号前の停止線にぴたりと止まった。怜路の運転する車は、滑るように走り出して静かに止まる。


「何年間か観察した結論だよ。その場でその人間に割り振られた『役割』を上手くこなしているかどうか、それにしか興味というか……着眼点がない人なんだなって思ってた。だから――克樹もあの人の中じゃ『困った方』でしかなくて、それが『どうして』なのか、考えたこともないんだろうと思う」


 もしかしたら彼自身、そういう物差しでしか測られたことがない人生なのかもしれない。そんな風に思うようになったのは、大学や市役所で色々な人間を見てからだ。それにしたところで、本来克樹の一番身近な存在として、克樹に寄り添うべき立場の若竹が、克樹を一人の人間として認識できていないのは問題である。


(その方が都合が良い、と思ってた時期もあったなんて……今思い返せばホント……)


 後悔と自己嫌悪に、じくりとみぞおちが疼く。「黒歴史だ」と呟けば、隣の見た目だけチンピラな大家が「は?」と聞き返した。


 幼い克樹は、すぐに美郷に懐いた。それはもう、一時も離れたがらず癇癪を起こすような、尋常でない依存を見せた。きっと、それだけ孤独だったのだ。


 当時の美郷は、文句ひとつ言わず克樹の相手をした。鳴神に来て始まった修行と学校の間のわずかな時間を、全て克樹の相手に割いた。


 美郷に盲目的に懐き、甘えてくる克樹は可愛かった。「お兄ちゃん」として、守ってやりたいという気持ちも芽生えた。


 だが、何よりもまず美郷は「克樹の兄という役割」にしがみつく道を選んだのだ。美郷はそれを、強く自覚していた。克樹の「あにうえ」でいられれば、克樹が美郷を必要とすれば、鳴神の中で美郷の居場所は確保される。


 時々、振り返って自分で思う。美郷は察しの良すぎる、狡猾な子供だった。兄としての献身は打算の上にあった。周囲の大人に向けたパフォーマンスでもあったし、数年が経って大人の事情を理解し始めた頃には気付いていた。


 ――克樹を自分に依存させ続けることが、美郷が鳴神で生き残る道だということに。


「なんでもないよ」


 まるで別世界か、前世の出来事のようだ。だが美郷にとっては過去でも、克樹はまだ、あの息苦しい場所で重荷に耐えている。美郷のくだらない保身が、克樹の人生に余計な影を残していないようにと祈る。


(捨てて、逃げてきたんだ……。もう、おれのことなんて忘れててくれればいい。新しい人間と出会って、親しくなって――)


 遠い場所からの身勝手な願いは、恐らく叶わなかったのだろう。たった独り、無謀な家出をしたのならば。


 罪悪感など今更無駄だと、目を背け続けてきた。自分はもう、鳴神には戻れないと。


 信号が青に変わる。静かに車が滑り出す。隣の大家は何故か機嫌を直したらしい。しばらく続いた沈黙の後、カーステレオからFM放送が流れ始めた。中高生のお悩み相談に、ハイテンションなDJが無責任な答えを放つ。恋に部活に友達に、挟まる曲はクリスマスソングだ。


「あー、チクショウ。やっぱこの時期はダメだな、クリスマスやらバレンタインやら、ノれねェ年中行事はおもんねー」


 リア充イベント爆発しろ、仏教徒にクリスマスもへちまもあるか、と怜路が周波数を変える。修験者である怜路は、曲がりなりにも仏教の僧侶だ。一応、教派神道系となる鳴神家ももちろんクリスマスはなかった。辻本や大久保をはじめ、職場の専門員たちも皆何がしか寺社関係の家出身なので、特に小さな子供のいる家はクリスマス対処に苦慮するらしい。そういえば昨日の昼までは、そんな苦労話を茶請けに笑っていたな、と遠い昔のように思い出す。


 代わってラジオから流れ始めたのは、この時期必ず一度は聞くピアノ曲だ。作曲者はバッハ、正確な題名は知らない。単調な旋律が眠気を誘う。


「これは……眠たくなるだろ……」


 昨晩はほとんど眠れなかった。車の振動と重低音が、更にゆりかごのように睡魔を誘う。


「家まで寝てろ」


 大家の声が、優しく響いた。

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