兄と弟(一)


 5.



 その晩、怜路はいつも通りアルバイト先の居酒屋にいた。


 否、いつも通りでは語弊がある。元は克樹の件のため休む予定にしていたところを、無理矢理出勤して皿洗いをしているからだ。定位置の鉄板前には、当初の予定通り別の人間が入っている。


 不機嫌全開、とまでは言わないまでも、身から怒りを滲ませ黙々と汚れ物を洗う怜路に周囲は遠巻きだ。怜路自身ももし今不用意な言葉を掛けられれば、八つ当たりを我慢できる気がしない。


 やさぐれ果てた精神状態で仕事をして、皿でも割ったら目も当てられないのは分かっている。にも関わらず無理を言って出勤したのは、美郷と顔を合わせる前に頭を冷やしたかったからだ。予定通りまっすぐ帰宅すれば、キンコンダッシュした美郷がすぐに帰って来るだろう。どこかにばっくれて飲むことも考えたが、小さな街ゆえ周囲の目が気になり落ち着かない。


 結果、美郷当人にも「緊急でヘルプに入る」と連絡を入れて、職場に籠ることを選んだのだ。


「どしたん、ムッチャ荒れとるじゃん」


 そんな怜路の背に、ケラケラと明るい女の声がかかった。見るからに苛付いているチンピラなどという、世の人間の大半が忌避する存在に声を掛ける「猛者」の出現である。


「昼間、クソな客に当たってな」


 怜路は端的に答えた。職場の大半は怜路の「本職」を知っている。格別に隠してもいない。声を掛けてきた若い女、アルバイト仲間の津川も知っている人間の一人だ。怜路より二、三歳年上で二児の母親という彼女は、怜路が店に入ったのとほぼ同時期に巴の実家に帰ってきたという。


「あー。おるよねぇ、どーにもならんのが!」


 ウチも昼の仕事でさあ、と好き勝手に喋り始める津川に適当な相槌を打つ。彼女は基本、適当に聞き流していれば満足して去っていくタイプだ。


「――でさあ、なーんかブキミな奴で、居なくなってくれて良かったってゆーかさァ」


 不意に言葉が突き刺さった。


 ぴたりと動きを止めた怜路の前で、ただ無為に蛇口から水が流れ排水溝に吸い込まれて行く。一拍置いて怜路の異変に気付いた津川が話を止めた。


「どしたん?」


 両手の間で、皿がぴきりと微かな音を立てた。津川に怒りを向けかけて、すんでで止める。津川がしているのは、全く知らない他人の話だ。


「俺ァ友人を、知らねぇ野郎にクソミソに貶されてな。ムカついたセリフ思い出した」


「えー、そうなん!? マジ最悪じゃん!」


 ウチもさあ、と、再び津川の話が始まる。だが怜路の中に聞こえていたのは、昼間の若竹の言葉だった。


(不気味だの、前科があるだの、異物だの……)


 あまつさえ美郷を蝕み苛んだ蠱毒を、必然のこと、鳴神にとっては良かったなどと言い放った。


 ばきん、と、とうとう皿が真っ二つになる。「は? マジで?」と津川の呟きが聞こえた。


 理不尽に踏みにじられた側の感情など、認識すらしていないのだろう。今は苦笑い半ばで蛇精と付き合っている美郷が、どんな苦汁を飲んできたのか。怜路も大した話は聞いていない。ただ、あの白蛇の存在を、当たり前に話題にできたのは怜路が初めてだったと、少し恥ずかしそうに笑っていた。


 何の謂れもない理由で突然殺されかけて、どうにか生き残っても居場所はなく。家族も友人も、それまでの繋がりを全て捨てざるを得なかったような出来事を「良かったこと」と抜かしたのだ、あの男は。


(クソッタレ!!)


 本人に向かって、その話を報告する気にはなれない。


 だが、冷静に話を端折れるほど、まだ頭が冷えていない。


 割ってしまった――むしろ「折って」しまった皿を無言で片付けながら、怜路はぎりぎりと奥歯を噛む。手の止まっていた怜路の代わりに洗い物をこなしながら、津川が「ふーん」と呟いた。


「なんか珍しいってゆーか、意外じゃん。そんなアツくなるくらい仲良い相手おったんじゃ怜ちゃん。あっ、ってゆーか、ホンマは恋人ォ?」


 きゃはは、と能天気な笑いが響く。どこかから「オイオイ、もうめぇや」とげんなりした呟きが聞こえた。


 だが、怜路はむしろそれで脱力する。怜路は津川が嫌いではない。物事を深く考えないし、思ったことは即口から出て来るタイプだが、代わりに面倒な勘ぐりもしないし根にも持たない人種だからだ。


「ちげーよ。男だ男」


「へー。あっ、もしかしてあの人? 市役所の髪の長いお兄さん。一緒に住んどるんじゃっけ? ええなー、男同士の親友ってさー」


 親友、などと呼び合う相手をこしらえた記憶などない。


 ごく浅い縁を繋ぎ合い、ただ保険のように互いに助け合って生きるような、その日暮らしの連中に混じって人生の大半を過してきた。特別な繋がりやら約束やら絆やら、そんなものは養父とすらあったのか怪しい。まして、美郷とは知り合ってまだ一年も経っていないのだ。


「オンナの友情なんて、男が絡んだらトイレットペーパーより儚いじゃん。ほんまウチ、今度は男に生まれたいわー。男はいいよねー」


「そんなん、色恋絡んだら友情がチリ紙なんざ男も女もかわんねーだろ。別に男だの女だのじゃねーよ、ただ」


 ただお互い、同じような薄闇の中にいただけだ。黄昏とも暁ともつかぬ薄暗い場所から、遠い空を眺めている。同じ穴の貉の隣は居心地が良い。


「――ただ、自分が気に入ってるモン貶されたらムカつくじゃねーか」


 呟くように言った怜路の背を、店長のだみ声が大きく呼んだ。


「おぉい! 怜路!! ミっちゃん来とるけぇ出ェや! 奥は人足りとんじゃけェ!!」


 店内全てに響き渡る大声で暴かれ、怜路は額を押さえる。ミっちゃんとは美郷のことだ。事情を説明して理解してくれるタイプの上司でないため、特に説明せず潜り込んでいたのが仇となった。くそったれ、と悪態を吐く怜路に、津川が「ウチが行こうか?」と気を回す。


「いや、大丈夫だ。津川サンに聞いてもらって多少落ち着いた」


 まあ三割も聞いてはいなかったのだろうが、口に出せただけでも違うものだ。まんざらでもなさそうな津川にひらりと手を振り、怜路は洗い場専用のエプロンを脱ぐ。ホールに出れば、いつもの鉄板の前で美郷が所在なげに座っていた。怜路に気付いて顔を上げ、気まずそうに目を伏せる。


「怜路……! ごめん、なんか……その、どうしても落ち着かなくて……」


 特別に今夜、話をする約束をしていたわけではない。だが、当然美郷は昼間の報告を心待ちにしていたはずだ。それでも普段ならば、ここまで深追いはしてこない。面倒見の良さを見せることはあっても、我儘や無理強いを好まない男である。


(ホンット、余裕ねェな。今回……)


 バツが悪そうに笑みを浮かべて視線を逸らしながら、美郷は怜路の顔色を窺っている。その目元には隈が浮き、傍目にも憔悴が知れた。


「あー、こっちもまあ、ちょっとな。ちょっと待っててくれ、もう上がるわ」


「えっ、でも――」


「いいんだよ。お前、車はまだ駐車場か?」


 市役所の職員駐車場は本庁から歩いて五分、この居酒屋からもほぼ等距離の場所にある。車は置いたまま、本庁から直接居酒屋に来たらしい美郷が頷いた。


「なら、今日は一台で帰ろうぜ。お前の車は明日回収すりゃあいい」


 対面よりは、ハンドルを握りながらの方がやりやすい。怜路の指示に従うように、美郷がカウンターの椅子から立ち上がる。それにひらりと手を振って、怜路はタイムカードを打ちにバックヤードに向かった。


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