かがら山(二)
飴色の木目が美しい北欧風のドアを開けて、三十代半ばの女性が顔を出した。美郷は折り目正しく頭を下げて挨拶し、市役所赤ジャケの首にかけた顔写真入りの名札を見せる。
「こんにちは。先ほどご連絡いたしました、巴市役所特殊自然災害係の宮澤美郷と申します。杉原このみさんでいらっしゃいますか?」
にっこり、と精一杯の笑顔で美郷は尋ねた。ゆるくウェーブのかかった黒髪をバレッタでまとめた、小柄な女性が戸惑い気味に頷く。
「えっ、はい……ええと」
少し気弱そうな撫で肩が、警戒するように丸まっている。
「
タイル貼りの三和土に、素焼きレンガがあしらわれた漆喰風の壁。全体が洒落た欧風で、モダンな玄関は綺麗に片付いている。いかにも今時の、カフェのような内装は美郷には物珍しい。
「は、はい。どうぞ……」
おっかなびっくりといった様子で中に案内された。敵愾心を向けられなかったことに安堵する反面、詐欺被害に遭いやすいタイプではないかと余計なことが心配になる。通されたのはフローリングのリビングダイニングで、テーブルには来客準備がされていた。背の低い棚に並べられたおもちゃが、男児の存在を主張している。
「晴人くんは学校ですよね」
はい、と杉原このみが頷く。改めて状況を確認するため、美郷は抱えてきた聞き取りシートを取り出した。
杉原家は三十代半ばの夫婦と六歳の男児の三人暮らしである。夫は巴市内に勤める会社員、妻のこのみは息子が小学校に上がった今年の春から、パートタイムで近隣の工場に勤めている。息子の晴人は巴小学校の一年生で、近隣の子供たちと共にバス通学をしているという。
今回起きたトラブル――晴人の奇行とは、突然現れた放浪癖だった。下校中、バス停を降りてから家までの道を逸れ、山の方へと一人で行ってしまう。あるいは、一度は見守りの保護者や迎えに出たこのみに連れられて帰宅しても、ふと目を離した隙に出かけてしまう。起こり始めてからまだ三週間程度らしいが、既に放浪回数は両手の指をあふれそうだった。
学校を抜け出すことはないらしいが、とにかく母親の気の休まる時がないという。それはそうだろう、晴人が出たがる時間帯は決まっておらず、油断すれば夜中でも外に出てしまうらしい。
「それで、その話をこのあいだ、家庭訪問された児島さんにお話したんです。そしたら晴人が『誰かに呼ばれてる』みたいなことを言わないか、って尋ねられて。元々あんまり喋る子じゃないから、改めて聞いてみたんです……何か、出かける理由があるの? って」
揃えた膝の上で両手を握り合わせ、俯き加減でこのみが語る。日々神経をすり減らしていた中で、まるでホラーのような話が出てくれば、それは大変なストレスだろう。話を疑っても不気味さは拭えないし、頼れるはずの民生委員がそんな胡散臭い話を持ち出してくるのも不愉快だ。
「それで、晴人くんは何か教えてくれましたか?」
このみはあまり、美郷と視線を合わせようとしない。これが辻本ならばもう少し安心感を与えられると思えば申し訳なくもあるが、本当に話の雲行きが怪しい。このまま今日は一日外勤かもしれないな、と美郷はちらりと考えた。
「はい。その……あまりまだ、しっかり喋ってくれないので良く分からないんですけど。鬼ごっこをするって言うんです」
鬼ごっこ、と美郷は口の中だけで繰り返した。
「それは、誰と?」
美郷の問いかけに、このみが「分からない」と首を振る。薄ら寒さを思い出したように、薄い肩が小さく身震いした。既にぬるんだコーヒーをブラックのまますすり、美郷は目を細める。
加賀良山には、神隠しの伝承が残っている。山頂の一本松には天狗が住んでおり、人をさらうと言われていた。ただ、その話の中に「鬼ごっこ」というキーワードは出てこない。
「それで、晴人くんは自分で帰ってくるんですか? それとも、誰かが探しに行って連れ帰る感じですか?」
民生委員を介して特自災害が聞いていた話は、晴人に突然放浪癖が現れたことと、晴人は必ず加賀良山へ入ろうとするということだけだ。
「いつも探しに行ってます。幸いというか……この辺りは山に入れる道が少ないですし、地域の方がよく気づいて下さるので。でも……」
更に表情を陰らせて、このみが言いよどんだ。美郷は黙って続きを待つ。膝の上の両手にぐっと力が籠もり、このみの細い指先が白くなる。
「みんな、何か知ってるみたいで……凄く気味悪くて……」
恐らく実際、代々長曽に住んでいる者たちは知っている「何か」があるのだろう。特自災害も長年情報収集はしているし、資料を掘り返せば何か出てくるはずだ。ただ、資料の整理や電子化が追いついていないため、探し当てるのには時間がかかる。
「そうですか、それはお辛いですよね」
心底の同情を込めて美郷は頷いた。このみや広瀬ら一般の人々にとって、怪異は「視えないもの」だ。自分で確かめることができない事柄への恐怖に、振り回されるのは辛い。顔を上げたこのみに、美郷は精一杯ほほえんで見せる。
「大丈夫です。僕たちがきちんと情報を整理して、晴人くんの放浪癖が止まるように対策を打ちます。僕たちが対処する事柄は目にも見えませんし普通の理屈も通じないですから、巻き込まれた方はとてもお辛いと思います。不安に思われることがあれば、何でも遠慮せずにおっしゃって下さい」
ほんの少し、このみの肩のこわばりが解ける。それを確認して、美郷は更にいくつか質問を重ねた。最後に一枚、プリントをクリアファイルから取り出してこのみに手渡す。
「あの、これ。ちょっと間抜けで申し訳ないんですけど、簡単なおまじないです。まあ、気休め程度かもしれませんけど……こういうトラブルは、わりと気持ちの部分が大きいので」
いかにも素人がワープロソフトでこしらえた風情のプリントに視線を落とし、このみが困惑した表情を浮かべる。書いてあるのは、家出人や行方不明者を家に帰すまじないだ。
「本当にトラブルが起こってしまう以上、それは『気のせい』とか『気持ちが弱いから』とかじゃないんです。そういう視えないモノに対処するのは、僕たちプロの仕事です。でも、当事者なのに自分じゃ何も分からない、何も出来ることがないのも辛かったりするじゃないですか。そういう時に、ちょっと気休めのつもりで読んでみてください。ウチの連絡先も下に書いてありますから、気になることとか相談があればこちらに電話もお願いします」
物理法則に依らず、人の認知の中でのみ起こる怪異現象は、巻き込まれた人間のメンタルに大きく左右される。その意味で、対怪異はまさに気力精神力の勝負だが、精神的に追い込まれている相談者にそれを強要するのは悪手中の悪手だ。いかに相談者の心理的負担を軽くして、プラスを向いてもらうか。それが事態を決定づける場合もある。
また、こういうトラブルは「人間による二次被害」――つまり、霊感詐欺系の問題を呼びやすい。本物の怪異に弱っている人のところへ、ありもしない祟りや因縁や功徳を売りつけにやって来る輩がいるのだ。
闇の中で迷子になった者は、強く明るい道しるべに惹かれやすい。相手が怪異であれ人間であれ、悪意を持って強引に引っ張ろうとする「敵」から相談者を守るためには、「小さくても常に手元にある明かり」を渡しておくことが大切だった。他人にコントロールされない、自分の手で灯せる明かりのある者は強い。
全てとは言わないが、ほとんど特自災害の先輩方からの受け売り――もとい、教えである。長年、小さな組織で多くの怪異と対峙してきた特自災害係は、しっかりとした相談者ケアのマニュアルを持っていた。
「……ありがとうございます」
初めてこのみが、対面している美郷の目を見た。ひとまず信用してもらえた合図だろうと、心の中で安堵の息を吐く。改めて「大丈夫ですよ」と笑顔で頷いて、美郷は立ち上がった。
「それでは、これから児島さんの方にもお話を聞くことになってますので、これで一旦失礼します。晴人くんが帰られる頃にまた、こちらからご連絡させて頂きますが、もしそれまでに何かあったら、プリントの下にある携帯番号の方へお電話ください」
そう言って一礼する。分かりました、とプリントを抱いて頭を下げるこのみの前を辞して、美郷は公用車に乗り込んだ。
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