宮澤美郷(上)


  1.



「まだあと三日は寝といた方がいいよ。深夜勤務できるような脈じゃない」


 狩野怜路かりのりょうじの両手首で脈を取りながら、若き陰陽師殿が眉根を寄せる。マジかー、と怜路は落胆の声を上げた。秋も深まり、周囲の山々も茶色く変わる頃、布団の中は日ごとに居心地よくなる季節だが、それにしてもいい加減寝ているのには飽きた。


 まだコタツは出されていない、狩野家の茶の間の端に延べられた万年床。その上に胡坐をかいて、怜路は下宿人に「診察」されていた。


「つかお前、中医学の心得もあんのな」


 己の手首を押さえる、丁寧に揃えられた長い指を眺める。視線をあげれば、端正に整って柔和な顔が真正面にあった。滑らかな輪郭を描く白い頬に、伏せられたまつげの影が落ちる。


 淡く、昼間でも仄かに朱い晩秋の陽光の中、長い黒髪を丁寧に括った中性的な青年が端座している。彼の名は宮澤美郷みやざわみさと、龍神の血を受け継ぐという家柄に生まれた、美貌の青年陰陽師だ。現在は狩野家の離れに下宿し、ここ巴市の市役所に勤務している。


「陰陽道も中医学も同じ陰陽五行説を使うだろ。専門家ほどじゃないにしろ、基礎は教わってるからね」


 白く整った見た目に反して、体温の高い指先がそっと脈を探る。ぬくい手をしてるな、と何となく言うと、お前の手が冷たすぎるだけだと呆れた声で返された。


「なるほど、流石に鳴神くらいの家になると、叩き込まれる基礎のレベルが違ェなあ」


「そうそう。だから、依頼主に降りかかった祟りを、力業で払いのけるなんて野蛮な真似はしないんだよ」


 出自の話になると、美郷は多少機嫌を悪くする。脈をとっていたはずの指がぐっと強く怜路の手首を掴み、美郷の眉間のしわが深くなった。


「――あのね怜路。おれはお前の蛮行について、とても怒ってるんですよ」


 怜路の内心を見透かしたように、伏せられていた双眸がきっ、と怜路を見据える。


「やー、面倒な手順踏むの苦手なんだよなァ……」


 怒りを宿した黒曜石の眼から逃げるように、怜路は天井の梁を眺めた。狩野怜路、二十四歳。本職は拝み屋、副業は居酒屋アルバイト。金色に脱色したツンツン頭と薄く色の入ったサングラスがトレードマークのチンピラ山伏、人呼んで『天狗眼の怜路』――というアイデンティティを枕元に取り去られ、ただ今絶賛布団の住人である。


 怜路は先日、拝み屋として受けた仕事で、多少の無茶をした。しち面倒くさい手順を踏んで祟り除けをするのが嫌で、体当たりで相手を祓ったのだ。結果依頼は無事解決したが、翌日から寝込む羽目になって本日四日目、そろそろ寝ているのに飽きて起き上がったところを、お目付け役の下宿人に発見されて現在に至る。


「……とにかく。まだまだ脈が弱すぎる。こういう無茶は腎の気……寿命を削るんだ。今しっかり養生しとかないと、あっという間に老け込むぞ。ほら横になって」


 怜路の手首を解放し、美郷がつい、とこめかみにかかるほつれ髪を整えて腰を浮かせた。丁寧に梳りひとつに括られた、さらりと艶やかな黒髪が揺れる。正面でそれを見るともなしに眺めていると、気付いた美郷が目を細めた。


「おれはあんまり料理が上手くないから、良い食養生はさせてやれないけどね。霊符湯と薬湯は用意するから、早く起きたけりゃそれをきちんと飲みなさい」


「その霊符湯が、寿命削りそうなレベルで拷問なんだがそこはどうよ」


 霊符湯とは読んで字の如く、霊符を焼いた灰を湯に溶かしたものだ。正真正銘、陰陽師様が呪力を込めた霊薬なのはわかるのだが、いかんせん不味い。それはそれは不味い。


「嫌なら、二度とこんな真似はするな」


 膝立ちの美郷が、一層真剣味を帯びた声音でぴしりと言った。確か怜路が年上のはずだが、まるっきり親に叱られている気分だ。こいつ叱り慣れてるな、と妙なことに感心していると、片眉を上げた美郷が小首を傾げた。よほど怜路が珍妙な顔をしていたのか、どうした? と尋ねてくる。


「イヤ、こう、お前ってなに……こういうお世話慣れンな」


 表情を和らげた美郷が更に首をひねる。


「そう? まあ、弟が風邪引いたりしたら、よく看病してたからね」


 そういえば歳の離れた、腹違いの弟がいたのだったか。


「あー、弟君な。なるほど」


 美郷は良い家柄の生まれといっても、嫡子ではない。お家の跡取りはその弟君のほうで、いわゆる隠し子だった美郷とは、決して単純な兄弟仲ではなかっただろう。だが折りに触れて聞くエピソードの中で、美郷はまるでその弟君の養育係だった。


 まあ、本人が話そうとしない時に、深入りするような話題ではない。そう怜路は思考を切り替える。


「いやいや、にしてもスイマセンね、俺なんかのためにここまでして頂いてよ」


 状況のむずがゆさに抗い切れず、つい茶化したような言葉が口をつく。実際、ダウンしている怜路を発見した美郷はこの四日、熱心に看病してくれていた。


 ひとつの家に住んでいると言っても、関係は大家と下宿人であり、決して「一緒に暮らしている」わけではない。そんな相手が怜路を本気で心配し、看病してくれるのはなんともこそばゆいことだ。


「……お前のためじゃないよ」


 一拍、逡巡するような間をおいて、美郷がぽつりと答えた。


「んあ? まあ、俺が居なくなりゃお前もまた宿無しかもしれねえもんなあ」


 光熱水通信費合わせて三万ポッキリの家賃を滞納するような貧乏人である。ここを追われれば次の宿には苦労するだろう。言いつけ通り大人しく布団に入り直し、天井を見上げてけたけた笑う怜路の視界の端で、立ち上がった美郷が軽く目を細めた。


「それも含めて、ね。おれがお前には元気でいて欲しいから、おれのためにやってることだ。お前のためなんて言うつもりはないよ」


 静かな言葉に笑いも引っ込む。


「美郷君さあ……お前、よくサラッとそんな台詞決めれるね?」


「んー、母さんの教えだからね。人に何かをしてあげたいと思った時は、相手のためと思うな、やりたいと望む自分のためにやってることを常に自覚しろって。『あなたのために』と『あなたのせいで』は同じ意味だよって……結局、自分の行動の責任は全部自分で背負えって意味だったんだろうけど、大人になると身に沁みる金言だなって思ってる」


「おお、格好いいなァお前のかーちゃん。そういやあ、そのお袋さんは……」


 勢いで尋ねかけて、怜路は口をつぐんだ。美郷の話に出てくる「実家の家族」に、実母は登場してこない。やばい、と気まずく見上げる怜路と視線を合わせ、少し困ったようにへらりと笑った美郷が答えた。


「あー、一緒に出雲に越したんだけど、おれが中学の頃に蒸発してそのまま、かな」


 美郷の見せるアルカイックスマイルは、「これ以上は立ち入ってくれるな」という合図だ。へえ、そうかい。と適当に返して、怜路はもぞりと布団に潜った。


「じゃあ、昼の準備してくるから」


 言い置いた美郷が、静かに畳を踏んで部屋を去る。身体の軸をぶらさない、静かで滑るような足運びもまた、全国屈指と言われる名家で叩き込まれたものだろう。


 台所へと繋がるガラスの引き戸が、開いて閉じる。その音を確認した怜路は再び布団から顔を出して天井を見上げた。


 宮澤美郷は一風変わった髪型で、女顔がへらりと頼りない風情の貧乏公務員だ。だがその過去には、あまりにも地雷が多い。彼のもう一つの姿である『鳴神美郷』――蛇喰い、と呼ばれた外腹の長男坊は、鳴神家の深い、深い闇の底に沈められた人物だった。


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