狗神の哭く夜(3)
うつら、うつらと浅い眠りの中で、怜路は昔の夢を見た。
覚醒した途端にそれは輪郭を溶かし、代わりに軋む体が存在を主張する。車中泊も二日目になれば、それなりのグレードの普通乗用車でも腰が痛くなってきた。
昔といって、せいぜい二年くらい前まで暮らしていた場所の景色だ。大都会の片隅、清潔さ華やかさとは無縁の、雑多で、路地の片隅にたぐまる陰の濃い場所だった。その陰に半ば身を隠して、すねに傷を持つ者たちが肩を寄せ合う中に、怜路もそれなりに居心地良いねぐらを確保していた。
ぶるりとひとつ身震いする。エンジンを切った車内は、明け方になると存外冷えた。シートを起こしてキーを回す。狗神の活動時間は夜、怜路を探しているはずの狗神を待っていたが、いつの間にか眠り込んだらしい。
場所は山の中を通る国道の脇、とっくの昔に潰れたコテージ型ラブホテルの敷地である。勤め先の居酒屋を早退してから既に丸一日以上、怜路はここで狗神を待っていた。一応、居酒屋の隣にあるコンビニで数食分の食糧は買ってきたが、長期戦の用意はしていない。「とっとと来い」と念じながら、秋の巴特有の、濃霧に押し包まれた車内で過ごした。
奇妙な場所だと、今更ながらに思う。なにせ、市役所に怪異対策係がある。それだけ「物の怪」――山霊の気配が濃い土地柄なのだ。
狗神に追われ、都会のねぐらを出て一年半。
一度は正面から戦い、大きく相手の力を削いだ。狗神は小動物などを襲って徐々に力を回復しながら、怜路を追ってきたはずだ。もう少し早く見つかるかと思っていたが、思いのほか巴を押し包む濃厚な山霊の気配と、美郷の蛇が目隠しをしたのだろう。本来なら一直線に怜路を襲ったであろう狗神は、しばらく怜路を見つけあぐねたようだ。
だが、それも長く続くものではない。いよいよ巴市に現れたのであれば、怜路が相手をしなければならない。
美郷に相談すれば力を貸してくれただろう。へらりとお人好しそうに笑う、柔和な美貌を思い出す。だがわざわざ意味深なメッセージを送って、誤解を招く真似までして出てきたのにも理由があった。
これ以上他人に迷惑をかけては困る。結局狗神が現れなかったのは、美郷に撃退されたのが存外効いたのか、はたまた全く別のところで暴れたのか。前者であってくれと怜路は願う。
念のため美郷に付けた護法を介して、怜路は狗神と美郷の遭遇を知っている。
「けど、アイツを返されたり、調伏されちゃ困るんだよ」
朝霧に沈む、しんと冷えた廃墟を睨む。
「早く俺んトコに来いや。テメェと地獄に落ちるのは俺だ」
広瀬孝之にとっての宮澤美郷は、高校生活の心残りだった。
温和で気の良い奴だと思い込んでいた友人の異変に、戸惑って踏み込めなかった。
その意気地のなさや、何も気付かなかった己の鈍感さに、ずっと引け目と後悔を感じてきた。そして何も言ってくれなかった相手への恨みも、高校生活最後のほろ苦い思い出として心の隅に、小さな棘のように残った。
きっと、そんな相手は誰にだっている。広瀬にとっての宮澤は、出会って、すれ違って、過ぎ去ってゆく相手の一人で、二度と会うことはなく棘のまま残り続けるのだろうと思っていた。
その宮澤が今、カウンターの向こうを前のめりに歩いて来る。作業ズボンと市役所ジャケットの上下で、今から外勤とすぐにわかった。どういう趣味で巴市が採用したのか分からない、真っ赤の生地に黒の襟が大変派手なジャケットである。
側らの時計は、午後四時を指そうかという頃だった。正午ごろまで空を覆っていた霧もすっかり消えて、だいぶ早くなった夕暮れまでの僅かな時間、秋の柔らかい光が大きな窓から差し込んでいる。
宮澤が目指しているのは、管財課に置いてある公用車の鍵らしい。住宅営繕係の前を横切る宮澤に、広瀬はじっと視線を向けた。だが、決死の形相の宮澤が気付く気配もない。
「おおい、宮澤」
仕方なし、広瀬は声を上げた。驚いた様子で目を真ん丸にして、「わっ、広瀬!」と宮澤が立ち止まる。どうやら今、随分と余裕がない状況らしいが、それを差し引いても結構薄情な男だ。
「ごめん、ちょっと考えごとしてて」
思ったことが顔に出ていたのか、宮澤が眉を下げてへらりと笑う。高校時代から見慣れた、宮澤美郷のトレードマークだ。それが宮澤の、他人に踏み込ませない為の盾と知って以来、向けられると心がざわつく。
「考えごとって、昨日のアレか?」
自席を立ち、カウンターに寄りかかって広瀬は訊いた。カウンターがあるといっても、このフロアに一般市民の来客はほとんどない。他の職員も多く外勤している現在、フロアは閑散としていた。
決まり悪げに視線を逸らせて、宮澤が頷く。何か考えるように、丁寧に括られた長い髪をいじってから、宮澤が広瀬に視線を戻す。
「昨日はありがとう。アイツを探せる目途が立ったんだ。今から、出ようと思って」
柔和で、育ちの良さそうな顔立ちをしている。にこにこヘラヘラしていることが多いが表情も豊かで、裏表があるタイプには見えない。だからこそショックだった。中性的な顔立ちによく似合っていると、見慣れれば思える髪型も、最初は頭が拒否した。
「へえ、良かったな」
対面する宮澤の眼には闘志が燃えている。自分を置いて行った友人を、追いかけて捕まえる気満々の顔だ。それに、心のどこかが羨望と嫉妬を訴える。刺さったままの小さな棘を、逆撫でされるような感覚だ。
誰のことが羨ましいのか妬ましいのか、広瀬自身にも判然としない。自分と違って躊躇いなく追いかけられる宮澤かもしれないし、宮澤にそれだけ心を向けてもらえる、彼の友人にかもしれない。
「――なあ、宮澤」
再会初日、どんな態度を取ったら良いか分からず無視してしまった。
次に顔を合わせた時、宮澤はあからさまに距離を取ってきた。自業自得と分かっていても、広瀬から歩み寄る方法を思い付かなかった。能面の笑みの向こうに全て押し隠してしまった宮澤を相手に、手を伸ばしても無駄な気がして恐ろしかったのだ。
昨日、勢いで宮澤を追いかけてしまったのは、その仮面が綺麗サッパリ剥がれ落ちていたからだ。広瀬の知っている宮澤ならばへらりと笑って躱しそうな場面で、真っ向から相手を斬って捨てた。その鮮やかさは見惚れるほどで、宮澤への興味が恐怖を上回った。
「あの時さ、もし俺が卒業する前に声かけてたら、何か違ったことが起きてたと思うか?」
一瞬、怪訝そうな顔をした宮澤が、すっと表情を消した。普段の曖昧な笑みとオーバー気味の表情を除くと、冷たい美貌が現れる。黒い双眸は闇夜を映すように深く、自分とは全く別世界の人間のようだ。
「そうだな……申し訳ないけど、分からない。あの時おれは全然周りが見えてなくて、悪いけど、広瀬のことも頭になかったよ」
そうか、だろうな。と広瀬は頷く。結局、当時何が起きていたのかは分からない。ただ宮澤は、どうしようもないくらい追い詰められていた。事情が分からずとも、広瀬に向けられる笑みが誤魔化しと拒絶なのだと伝わるほどに。一歩踏み込んで、事情を訊けば良かったのか。広瀬はずっと、自問自答を繰り返してきた。
あの時手を伸ばしていたら、自分は宮澤を救えたのか。
再会して知ったのは、その問いすら傲慢だったということだ。宮澤は、広瀬が知らない能力を持っていて、広瀬とは別世界で当たり前に生きている。自分の取るに足らなさを改めて見せつけられた気がした。
(『救えたか』じゃない。俺が、宮澤の心に残れたかどうか……コイツの為じゃなく、自分の為に俺は、あの時動けなかったのを悔いてたんだ)
心は簡単に、自分を騙そうとする。怖れに、後悔に、もっともらしい理屈を付けて言い訳し、他人に原因をなすり付ける。
「――でも、今こうやって、もう一回普通に話せるのは嬉しいよ。昨日も愚痴を聞いてもらって、頭の中の整理もできたし」
普段の誤魔化し笑いとは違う、本物の笑みと共に柔らかく宮澤が言う。
「うそつけ。お前は頭っからもう、追いかけるって決めてただろ」
広瀬はそれに、照れ隠しの苦笑いを返した。必要とされたいと手を伸ばして、必要ないと拒絶されることを恐れた広瀬と、最初から問答無用で追いかける気でいた宮澤は違う。広瀬は本当に、単に愚痴を「聞いた」だけだ。元々宮澤は、自分を騙し利用して置いて行ったのかもしれない相手を、捕まえに行く気満々だった。
「俺も、またお前と話せて良かったよ。悪かったな、引き留めて」
そう言って軽く手を挙げると、頷いた宮澤もひらりと手を振る。広瀬の元を離れた宮澤は、壁に並べてぶら下げてある公用車の鍵を手に取って、管理簿とホワイトボードに記名する。
「じゃ、いってきます」
やってやる、と決意の滲む強気の顔で、振り返った宮澤が口の端を上げる。綺麗に纏められた長い黒髪が、その背で揺れた。
「おう」
短く答えて送り出す。しばらくそのまま、広瀬は宮澤の消えた方を眺めていた。
狗神使役は蠱術である。
惨い方法で餓鬼と化させた犬霊を使役し、古くは他人から財産を集めさせたという。使役系の呪法は様々にあるが、神仏の力を借りるでも狐狸鬼類を操るでもなく「自ら魔を作る」という点で、最も邪悪な外法のひとつだ。
サングラスをミリタリージャケットの胸ポケットに仕舞い、荒れ放題の駐車場で怜路は錫杖を構えた。宵闇の中、獣臭い空気がふわりと漂ってくる。風上へと目を凝らせば、一筋の煙がたなびくように、狗神の妖気が漏れ出していた。
「ようやくお出ましか。待ちくたびれたぜ」
怜路に特別な「霊視」は必要ない。サングラスさえ外してしまえば、否応なく現世と魔境の景色が何の区別もなく視える。畏怖と若干の侮蔑を以って「天狗眼」と呼ばれるそれは、狩野怜路という人間を定義づけるアイデンティティでもあった。
記憶を持たない孤児。天狗の養い子。
自らを「天狗」と名乗る外法僧に育てられた怜路は、記憶の始まるその瞬間からアウトサイダーだった。今の自分に負けず劣らず胡散臭い格好をしていた養父は不在がちだったが、怜路が推定十五、六の頃にとうとう帰って来なくなった。どこかで野垂れ死んだのだろうと周囲は言ったし、怜路もそう思っている。
保護者を失った怜路を援助してくれたのは、似たり寄ったりの境遇で日銭を稼ぐ漂泊呪術者の類だ。その中に、狗神使いの男がいた。
狗神は、使役主が死ぬとその子供に憑くという。
生涯未婚だったその男は死後の心配などしていなかったが、ある時事情が一変した。遠い過去に関わった女性が男の認知外で、一子を産み育てていたのだ。知った男は血相を変える。男には、既に死の影がちらついていた。
ぐるるるる、と低い唸り声が廃屋の影から響く。狗神は怜路を警戒していた。一度消滅寸前まで追い詰めてやったことは覚えているらしい。
狗神は、それを作った術者に使役される。だが決して、術者を慕い恭順しているわけではない。呪法からしてもそれは当然だろう。己を埋めて餓えさせ、首を刎ねた相手だ。使役されながらも術者の命を狙い、徐々に寿命を削ってゆく。
狗神使いの男は、いまわの際に怜路に縋った。それまで物事に執着せず、飄々と生きてきた男の豹変だった。
父親のことなど何も知らない我が子に狗神が憑けば、その子供はすぐにでも喰われてしまう。どうか、その前に狗神を封じて欲しいと懇願された。
狗神を封じるのは簡単ではない。一度憑いた狗神を宿主の血筋から引き剥がすのは恐ろしく困難で、方法もほとんど伝わっていないのだ。元の宿主が死ねばすぐに子供の所へ行ってしまう上、狗神を調伏しようと痛めつけると、狗神の憑く使役主の身命まで傷つける。
前回、狗神を虫の息まで追い詰めた時は、まだ使い手の男が生きている間だった。
そして、使い手だった男は既に亡い。
「ほらよ、お前さんの本体はココだぜ」
ポケットから犬のしゃれこうべを取り出して、片手で玩びながら怜路は笑う。一際、狗神の唸りが大きくなった。狗神使いの術者は、刎ねた犬の首を呪具として狗神を使役する。怜路の持つしゃれこうべは狗神にとって、己の本体であると同時に、己を縛る鎖だ。これを手に入れ蟲術を「やり直す」ことで、怜路は狗神の宿主を自分に換える決断をした。
本体を取り戻しに、狗神が廃コテージの影から飛び出してくる。闇の中の攻防が始まった。
犬の首を再びポケットに突っ込み、怜路は錫杖で狗神を払う。じゃん! じゃりん! と幾重に打ち鳴らされる金環の音が辺りに響いた。といって、迂闊に強くは叩けない。今の狗神の宿主は、呪術の世界を全く知らぬ一般人だ。
術者は刎ねた犬の首を呪符に包んで土に埋め、一千万回頭の上を踏ませることで狗神を己の物とする。死んだ狗神使いからしゃれこうべを預かった怜路は、再び呪符を用意してしゃれこうべを土に埋めた。
一千万回。大都会の改札口の下にでも置けば、アッサリと達成される数だろう。だが、巴市のような田舎の、それも土の露出した場所に限定すればそうはいかない。できるだけ人の多く来る公園にこっそりと埋めさせてもらったのだが、結局一年以上かかった。つい先日ようやっと準備が整ったところだ。正直、狗神に嗅ぎつけられるまでに間に合うとは思わなかった。「白太さん」様様である。
あとは、この飛び回っている狗神に呪をかけるだけだ。飛び掛かってくる狗神の鼻っ面に護法を飛ばして距離を取る。割れたアスファルトの隙間に錫杖を突き立て、怜路は再び犬の首を眼前に掲げた。
――
浅い縁のなかで恩の貸し借りをして、川を流れる木っ端のようにふらりふらりと生きてきた。赤の他人に拾われた命ならば、赤の他人の為に捨てるはめになっても恨みっこなしだ。それで惜しみ惜しまれるほど、深い仲の相手もいない。
ただ、と思う。
脳裏を掠めるのは、いつも丁寧に括られた艶やかな黒髪。そして背中にのぞく真珠色の鱗。
心残りがあるとすれば、もう少しあの下宿人と話をしてみたかった。
背負った業や、抱えた孤独。知らぬ自分と捨てた美郷で見える景色は違っても、見上げる空の遠さは同じだったかもしれない。
「……しっかし、あの名前は酷いと思うがね」
思い出して、笑いが漏れた。白蛇精を身に纏う、美貌の青年陰陽師。絵面があれだけ妖艶なのに、名前が「白太さん」はあんまりだ。折角、美郷本人の名前と容姿は耽美なのだから、もう少し真面目にネーミングしてやれと思う。
楽しかった日々との惜別に動きを止めた怜路を、唸る狗神が窺っている。凄まじい臭気と涎をこぼす口から牙を剥き出しに、長く汚れた前肢の爪がアスファルトを削る。
「来いよ。俺の命をくれてやる」
狗神を怜路に移し換え、己の体に封じ込めて出ようともがく狗神と命数の削り合いをする。狗神が勝ったとしても宿主の怜路が死に、怜路の先に憑く血縁などないため狗神も行場を失って果てる。万一、奇跡的に怜路が勝てば儲けものだ。到底、そんな自信などないが。
「なァ、美郷ォ。いっぺん聞いてみたかったんだけどよ……
面と向かって聞けなかった問いが、白い呼気と共に夜闇に消える。似たような喰い合いに勝ったあの下宿人は、どんな景色を見たのだろう。
「美味いわけないだろ。バッカじゃないのか」
知ることは出来ないはずの答えが、怜路の真後ろから朗と響いた。
気圧されたように狗神が一歩退く。緑銀の眼に映るその様は、しかし頭に入って来ない。
「――清く陽なるものは、かりそめにも穢るること無し。祓い賜い、清め賜え。神火清明、神水清明、神風清明、急々如律令!」
凛と鈴を鳴らすように、美郷の呪が空気を変える。
ぱんっ、と高く柏手が鳴った。冴え冴えと凍てつく白刃の衝撃波が、同心円状に辺りを薙払う。打ち払われた狗神が弾き飛ばされた。駐車場を囲む植え込みに汚れた体がぶつかり、激しい音を立てる。
「な、ん……で」
呆然とする怜路の背後から、月光のように冷たく澄んだ風が、怜路の髪を揺らして臭気を吹き払っていく。
「待て美郷! そいつを痛めつけるな!!」
慌てて怜路は制止に入った。
「理由は」
ゆっくりと怜路の隣に並んだ美郷が、低く問う。纏う空気同様、氷のように冷たく秀麗な横顔がちらりと怜路に視線を流した。普段と全く違う雰囲気に息を飲む。
「宿主にダメージが行く。相手は何も知らねえ一般人だ」
「それで、お前に憑けなおして始末するって?」
言いながら、美郷が不動明王
「他にねェんだよ。俺が頼まれた仕事だ。邪魔すんな」
怜路は美郷の手首を引っ掴み、印を解かせて低く唸った。ちらりと視線を流した美郷が、鋭く怜路の手を振り払う。
「仲間を呪殺した嫌疑を被って、狗神まで肩代わりして、その依頼主は随分怜路の大切な相手なんだな……。それともソレも、赤の他人に返す恩か?」
冷たい言い方にむっとする。てめぇに馬鹿にされる謂われはねぇ、と怜路は吐き捨てた。
「恩人の最期の頼みだ。守る相手の顔なんざ知らなくても、それで十分だろうが」
かみつく怜路を制して、美郷が一歩前に出る。「べつに、」と平坦な声が呟いた。
「お前の生き方を否定する気はないよ。そういうやり方で縁を繋いで生きてきたんだろ。でも、おれはその狗神の、本当の主の顔も名前も知らない。おれに宿を貸してくれたのも、そうめん茹でてくれたのも、お前だ。怜路」
美郷が怜路を振り返る。漆黒の双眸が月光の霊気を宿して怜路を射抜いた。怜路の身体が硬直する。冷たくも苛烈な「鳴神の蛇喰」が、怜路を見ている。
「おれが一緒にいたいのも、助けたいのも必要とされたいのも、顔も知らない相手や他の誰かじゃない。赤の他人ならどうなっても良いなんて言わないよ。でも『怜路』を、お前を必要として、お前の幸せを望む奴だっている。おれや、お前の家族みたいに」
美郷が抱えて出勤した巴人形は、事態を大きく動かした。
美郷の大家のチンピラ山伏が本当の「狩野怜路」ならば、彼の名前、生年月日、出生地は全て特自災害でわかる。それらを使った占術で怜路の居場所を推測できたなら、餌を用意して待ち伏せをするより早い進展が期待できた。これで、職務として怜路を追える大義名分もできる。
それでも占術と作戦会議、事務手続きが終わって市役所を出られたのは夕方も近くなってからだ。
占術で分かったのは大まかな方角と、居る場所の抽象的な情報だ。携帯の位置情報確認のようにはいかない。候補地をいくつか絞り、三名ずつの班で二手にわかれて、市役所本庁に近い場所から虱潰しに当ろうと決まった。片方は芳田、もう一方は美郷がメインで狗神対処に当たる。美郷にとっては大抜擢だった。
自分のルートが当たってくれ。祈るような思いで、美郷は捜索ルートを選んだ。様々なことを美郷に任せてくれた芳田は、最後にこう言った。
『宮澤君にこれだけお願いするんは、君の友情を汲んでの話じゃあありません。まだ、狩野怜路が「何をやったんか」は分からんまんまですからな。君の能力を信頼してのことですから、現場の作戦判断は君に任せます。ですが、狗神や狩野怜路の処分は、辻本君と大久保君の指示に従うてください。ええですな?』
はい、と美郷は硬くうなずいた。信頼され、任される責任感と、私情を挟むなという忠告が重く肩にのしかかる。それでも、これを誰かに譲るつもりはなかった。
辻本に後方支援、神道系で呪具の扱いに長けた大久保に補佐を頼んで、美郷は廃ホテルの駐車場へ乗り込んだ。美郷が選んだルートの三つ目で、白蛇が狗神の臭いを感知したのだ。
自分の手札を、出し惜しむつもりはない。
ホテルから離れた場所に車を置いて、狗神に気づかれぬよう全員に隠行を施して敷地に入る。周囲に明かりはないが幸いなことに、西へ傾いた半月が、澄んだ秋の宵空を照らしていた。
全力で狗神を追いつめる。仮にそれで、怜路にダメージが行くとしても止めるつもりはなかった。あらかじめ作戦として決めていたことだ。何よりもまず、狗神の無力化を最優先とする。朝から簡単な潔斎をし、自らの気を研いできた美郷は容赦なくそれを狗神にぶつけた。
結局、狗神は怜路のものではなかったらしく、顔色を変えた怜路に止められた。だが、方針を変えるつもりはない。
馬鹿じゃないのか。真相を察して、最初に出てきた感想だ。
「怜路。その頭をこちらに渡せ」
怜路が手に持つ、犬のしゃれこうべを指して言う。顔を歪めた怜路が「だめだ」と首を振った。
「おめーに渡してどうなるってんだ。狗神支配の呪をやってんのは俺だぞ、今更骨だけそっちに渡して呪がご破算になりゃ、最悪アイツは宿主ん所に返っちまう」
巴から消えてしまえば、それでも一件落着……とは流石に行かない。それは美郷も分かっている。
「大丈夫だよ。アレはこの敷地から出られない。ここは大久保さんの結界の中だ」
幣を使った神式の結界が、ぐるりと廃ホテルを囲んでいる。狗神に逃げられる心配はない。
言い合っている間に、植え込みの向こうで狗神の妖気が膨れ上がった。
「クソっ!」
怜路が舌打ちする。宿主の生気を吸い寄せたのか。
「もうこれ以上は駄目だ。いいから邪魔すんな!」
霊力で銀に光る双眸が美郷を睨み据える。美郷は真っ向からそれを見つめ返した。馬鹿じゃないのか。もう一度思う。命の安売りにも程がある。
生きてきた価値観の違いと言えばそうだ。だからと言って、譲ってはやれない。
「断る。――お前を、あんなモノに渡したりしないよ」
低く言い切った。普段はサングラスに隠れている緑銀の眼が、驚きにまん丸くなる。これが美郷の本心だ。怜路に狗神が憑けば、怜路はいつか狗神に喰われる。そんなことは、許さない。
狗神も、憑いたばかりの宿主をすぐに取り殺したりはしない。次の行き先がなくなるからだ。それでも宿主は既にある程度、「返し」を受けているだろう。だが、勝算がある以上、退くわけにはいかない。視えぬ犠牲を恐れる気持ちを捻じ伏せて、美郷は気合を入れ直す。
美郷に弾き飛ばされ植え込みに隠れていた狗神が、大きく吠えながら突進してくる。今度こそ、と美郷は両手の指を絡めた。
「臨兵闘者皆陣烈在前、緩くともよもやゆるさず縛り縄、不動の心あるに限らん。不動明王正末の御本誓を以ってし、この悪魔を搦めとれとの大誓願なり!」
美郷の放った悪鬼を絡め取る不動明王の
「ナウマク サンマンダボダナン インダラヤ ソワカ!」
ばちん! と目の前で火花が散る。美郷の術を妨害した怜路が飛び出した。
「こンの、頑固者っ!!」
美郷は慌てて追い縋る。美郷の索条から逃れた狗神が、怜路に狙いを定めて地を蹴った。移し替えの呪を唱えようと、怜路が狗神へ首を掲げる。
大きくあぎとを開いた狗神が、涎をまき散らしながら怜路へ飛び掛かる。
対する怜路は、仁王立ちで呪を唱える。
「オン キリカクウン ギャチ ギャカニエイ――」
美郷は怜路へ手を伸ばす。振り払われたとして知ったことか。振り払いたければ、生き残った後で美郷を突き飛ばせばいい。同時に「相棒」に念じた。
(予定は狂ったけど強行しろ! 行けっ!! お前も、おれの「力」のうちだ……!)
どさっ、と狗神の背後で、白いものが梢を鳴らして落ちて来る。普段よりサイズの大きな、捕食モードの白蛇が鎌首をもたげた。
狗神は、封じるのも滅するのも難しい。捕らえたとして、宿主との繋がりを断ち切る方法がないに等しいという。
ならば、喰ってしまえばいい。
元は美郷が狗神を縛し、動きを止めて白蛇に喰わせる予定だった。狗神を調伏しようと痛めつければ宿主の命数を削る。狗神が宿主の命数を喰って、己の回復を図るからだ。ならばそんな間もなく、白蛇の腹の中という異界に取り込んで消滅させてしまえば良い。
巨躯に似合わぬ俊敏さで、白蛇が狗神に襲いかかる。怜路と狗神と白蛇、三つが交錯した。間に合え、と美郷は祈る。
ふわり、と朱い衣が夜闇に淡く浮かび上がった。
怜路の姿の重なるその背は、見事な束帯姿の貴人だ。隣には、同じく朱に華やかな柄の打掛を着た女が寄り添う。
(巴、人形……)
美郷に助けを求めてきた、狩野家の節句人形たちだ。美郷は怜路の腕を掴んで思い切り引き戻す。怜路は大きくたたらを踏んで、美郷の方へ体勢を崩した。
子供の誕生を祝し、健やかな成長を願って送られる節句人形は、その子の身代わりとなって災厄を受ける。既に大きく傷ついている束帯の貴人を支えるように、打掛の女が肩を抱いた。
『こやつは我々が預かる。やれ』
脳裏に男の声が響いた。振り返る美々しい貴人の片手には、犬のしゃれこうべがある。狗神が貴人に吸い込まれた。
「白太さん――!!」
白い大蛇が口を開ける。貴人と女の幻姿が掻き消えた。残る実体――犬の首と、二体の人形に蛇の口が迫る。
ぱっくん。
一瞬宙に浮いた人形と犬の首を口で受け止めた白蛇が、そのまま停止して口を閉じた。ゆっくりと喉が動いて、蛇が人形たちを腹に収める。美郷はそれを、怜路の肩を支えながら見届けた。
しん、と秋の夜の冷えた空気が美郷と怜路を押し包む。思い出したように、どこかでマツムシが鳴いた。
半月はいつのまにか木々の向こうに隠れ、辺りは闇に沈んでいた。霊視をやめて黒く塗りつぶされた視界の正面で、仄白く大蛇が光っている。美郷の腕の中で、逞しいミリタリージャケットの肩が震えた。
「なっ…………」
怜路が小さく声をこぼす。
うん? と眉を上げた美郷の間近で、盛大な悲鳴が上がった。
「なんっじゃそりゃああああああ! アリか、そんなんっっ!!」
きーん、と頭をつんざく大音量に耳を塞ぐと、美郷の腕から解放された怜路がガックリと膝に両手を突いた。その反応は不本意だ、と美郷は細い眉を寄せる。
「何か問題が」
概ね作戦通りである。ただ、巴人形が一緒に来ているとは思わなかった。微妙な沈黙が流れる二人の間を、闇を裂いてLEDライトが照らした。
「宮澤君! どうなったん――って、うわっ! これはデカいねえ……!」
狗神の妖気が消えたと気付いたのだろう。ライトを手にした辻本が二人に駆け寄ってきた。まだ正面でおやつを消化中の白蛇に、感嘆の声を上げる。つくづく動じない人だな、と美郷はこっそり感心した。
「……それで、彼は?」
ずるずるとしゃがみ込んで頭を抱えてしまった怜路を、心配そうに辻本が見遣る。うーん、と美郷は首を傾げた。そうダメージの残る事態は避けたはずなのだが。なんと答えたものか迷う美郷の足元で、世にも情けない声が思い切り嘆いた。
「いやさあ……そのペットは知ってたよ……? 白太さんスッゲェのはさあ…………。けど、流石に反則じゃねーのかよォォォォォ!!」
聞いた辻本が「あはははは」と爆笑する。知らんがな、と美郷は憮然と空を見上げた。狗神を腹に落ち着けたらしい白蛇が、しゅるしゅると縮んで
月の去った曇りない虚空に、数多の星々が輝いている。市街地を離れ光源のない場所で見る夜空は、大小無数の星々に覆い尽くされていた。
空は遠く高く、伸ばす手が星に届くことはない。
(だけど、おれの地面はここにある)
美郷が今、この場所に立っていることには、大した運命も意味もないだろう。
隣で脱力している友人も、笑って眺める先輩も、その出会いに用意された「理由」などきっと存在しない。
(でも、だからこそ)
幾千幾万とあった可能性の中で「偶然」手に入れた関係を、出会いを感謝し守りたいと思う。
星空は遠く、立つ地面は暗い。うつし世と闇のはざまで、それでも夜を過ぎればまた当たり前の朝が来る。仕事に行って、トラブルに遭って、悩んで、笑って、たまに嬉しいこともあって。食べて眠って日々は続く。
永遠に変わらぬものもなく、出来事に壮大な意味もなく。
きっと美郷はその日々を、これからもえっちらおっちら乗り越える。
「帰ろうよ、怜路。おれたちの家に」
アレは俺の家だ、この滞納下宿人。小さく悔しげに呟く大家に、美郷はふふっと笑いをこぼした。
了
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