狗神の哭く夜(2)



 美郷が狗神に襲われた夜、怜路は帰宅しなかった。


 眠れぬ夜を過ごした美郷は目の下に隈を作って早々に出勤すると、どうにか昨夜の一件を報告した。正直、仕事を休んで草の根を分けてでも探してやりたい気分だったが、そんなわけにもいかない。


 鬱々とする気持ちと苛立ちを押し殺して、どうにか午前の業務をこなした美郷は昼休憩に入った。普段は予約注文の弁当を自席で食べているが、今日はどうにか休憩中だけでも一人になりたい。弁当を受け取った美郷は落ち着ける場所を探して、ふらりと館内をさまよう。


 屋上へでも行ってみようかと階段を目指していると、廊下で立ち話をしている労働組合専従職員に捕まった。終業後、勉強会に出席しろという。


「お断りします」


 自分でも驚くくらいの、低く冷たい声が出た。声をかけて来た専従職員と、共に立ち話をしていた(というよりは恐らく、職員に捕まえられていた)男性職員が目を丸くして凍り付く。よく見れば、捕まっていたのは広瀬だ。


「いや、キミもウチの組合員じゃけぇね、新入職員の皆には全員参加してもらうようにしとるけえ……」


「お構いなく。今仕事が立て込んでますから出席はできません」


 いつもならば愛想笑いのひとつでも浮かべて、無難な断りの文句を捻り出すところだ。だが生憎現在、そんな余裕は一ミリもない。新人の生意気な態度が癇に障ったのか、表情を引き攣らせた専従職員が多少語気を強める。


「組合活動は職員の権利じゃけえね、係長にでも言って帰らせてもらいんさい。これから働いていくために、皆知っとかんといけん重要な内容ばっかりじゃけぇ。宮澤君も部署に籠ってばっかりおらずに、こういう時くらい皆と話をせんといけんで」


「権利であって義務ではないでしょう。余計なお世話です。権利云々おっしゃる前に、おれの昼食と休憩の時間を浪費させないで下さい」


 体格の良い専従職員に廊下を塞がれて、イライラがつのっていた美郷は完全に舌鋒のブレーキを踏み損ねた。


「宮澤君、僕は君の為を思うて」


「邪魔だと言っているんです」


 言い切った瞬間、専従職員が顔色を変えて固まった。同時に誰かが吹き出したような声もしたが、気にせず美郷は職員の横をすり抜ける。速足で廊下を横切り、階段を上がって屋上へ辿り着いた。幸い、誰もいない。


 屋上の端に座り込み、うろこ雲が浮かぶ秋空を見上げる。正直な話、食欲はなかった。


 何にそんなに傷付いているのかと、自嘲の声が内側から響く。


 美郷は一度、呪詛を喰らって生死を際に立たされた。高校卒業寸前の頃だ。


 美郷を疎んだ、一門の者の仕業だった。内側から身を喰らう蛇と一昼夜格闘し、喰い合いに勝ってまだ息をしている。


 あの日心に焼き付いた、どうしようもない怒りを忘れる日は来ないだろう。その分、呪詛という行為への嫌悪も強い。何とか生き残りはしたものの、家も、高校までの友人も、全て捨てることになったのだ。美郷を襲った禍は、ただ理不尽に美郷の人生を踏み荒らして行った。


「でも……裏切られたと思うのなんて、おれの勝手なんだよな」


 膝を抱えて溜息を吐く。怜路はたまたま路頭に迷っていた美郷を見つけ、蛇憑きと分かっていて家に受け入れた。その事実に変わりはない。蛇を気にせず居てくれるのが嬉しかったのも、狗神使いと知って辛いのも美郷の都合だ。怜路の知ったことではないだろう。たとえ「怜路」が本名でなかったとして、彼から受けた恩が消えてなくなるわけではない。


(だけど、なんで)


 薄いうろこ雲を越して、柔らかな光が差している。風は日に日に冷たくなる季節だが、日差しの下ではまだ凍えることはない。


 しばらくうずくまって固まっていた美郷の傍らで、屋上の扉が控えめに開いた。蝶番の軋む金属音に、のろりと美郷は顔を上げる。


「……宮澤」


 顔を覗かせたのは広瀬だった。予想外の相手に、美郷は心底驚いて目を丸くする。その顔が余程間抜けだったのか、扉から出てきた広瀬がぷっと笑った。さっき、組合の男から逃げた時に笑っていたのも、そういえば広瀬だったのかもしれない。


「えっ、どしたの……?」


 驚きに憂鬱な気持ちが吹き飛んで、美郷はまじまじと相手を見上げた。きまり悪げに微苦笑した広瀬が、美郷の近くにしゃがみ込む。美郷ではなく、空に向かって広瀬は言った。


「さっきのアレが痛快だったんで、ちょっとな」


 それだけ広瀬も組合の誘いに辟易としていたのだろうか。はあ、と間の抜けた応えを返す美郷に、向き直った広瀬が目を細めた。


「宮澤の怒ってるところ、初めて見たわ」


「はは、そうだっけ?」


 少し冷静になって思い返せば、随分と随分な口をきいてしまった。今後が思いやられると内心頭を抱える美郷に、ははん、と自嘲気味に笑った広瀬が頷く。


「初めてだよ。宮澤ってさ、いっつもニコニコしてて、真面目すぎず、軽すぎず、勉強もそこそこ運動もそこそこ、目立つところはないけど良いヤツだと思ってたわ」


 過去形なのか、と心の中だけで突っ込む。そうなるように、心がけていた覚えはある。当時もただでさえ「陰陽師の息子、しかも妾腹」などという面倒臭い肩書きがあった。突っ込まれて厄介なことになるのは御免と思っていたのだ。


「――けど、お前卒業式の時変だっただろ。明らかに顔色悪くてさ。なのに……」


 向けられる笑顔も、態度も今までと全く変わらなかったことで気付いたという。


「宮澤の『笑顔』は『無表情』とおんなじモンだったんだな、って。……俺はもうちょっと、お前と親しい友達だと思ってたのにな。挙句、携帯は不通、実家にもいない、進学先も不明。そこまで来れば俺みたいなのでも、実家と何かあったことくらい想像できる。けど、何にも漏らしてこなかったお前はさ、俺のことなんて、書き割りくらいに思ってたんじゃないかって……そんで、再会したと思ったらソレだし」


 美郷の頭を指差して広瀬が意地悪く笑う。反応に困って、括った髪の先をいじり始めた美郷だったが、最も気になったことを尋ねてみることにした。


「それじゃ、なんで今日」


「さっき組合のオッサンを一刀両断したの、めちゃくちゃカッコ良かったから」


 それで追いかけて来たのだと広瀬は言う。予想だにしなかった答えに、更に美郷は困惑した。単に余裕がなくて醜態を晒しただけだ。


「何があってンなに余裕ないのか知らねえけど、マジな顔してると……なんつーか、美人だな宮澤」


「はぁっ!?」


 今度こそ無遠慮に聞き返してしまった。こちらが煮詰まっている時に、広瀬の中で一体何が起きているというのか。美郷の反応がツボにはまったのか、ケタケタ笑い始めた広瀬を呆然と見返す。そういえば、わりとノリの良い奴だったような気がする。それこそ、人畜無害の猫を被って息を潜めていた美郷にも、親しく接してくれるようなクラスの人気者だった。


「ええ……いや、なに、お礼言ったらいいの? 申し訳ないけどおれ今それどころじゃ……」


「だろうな。で、どうそれどころじゃないんだ」


 笑いを収めた広瀬がニヤリと訊いてくる。力いっぱい渋い顔をしてしまった美郷に、再び愉快そうに広瀬が目を細めた。


「そんな面白い話じゃないよ。おれの――」


 友人で、恩人だと思っていた人物が、狗神使役をしていた。狗神をはじめとした、人の手で妖魔をこしらえて使役する「蟲術」は美郷にとって最も嫌いな呪術で、とてもショックを受けている。一方、最近暴れている狗神と己の関連をばらしたその友人は、ロクな説明もしないまま雲隠れしてしまった。このままでは、狗神の始末と同時に友人を捕えなければならなくなる。


「本当の名前も、向こうで何があったのかも、結局何も知らなかったんだなって。狗神使いで、それも他人の狗神を奪った奴かもしれないとか……そういうのを聞いて、それで裏切られたって思うのとは何か違うんだけど。なんだろう、ちょっと優しくされて、おれだけ仲良くなった気になって、でもあいつは――」


 本当に美郷のことを、虫除け程度にしか思っていなかったのか。


 相手を殺して他人のものを奪うような男ではない。信じたいけれど、どちらにせよ自分に何も明かしてくれなかったことは変わらない。怜路への恨み言と自分の不甲斐なさを取り留めもなく語りながら美郷は、今自分が感じている怒りや苛立ちと、高校卒業時に広瀬が感じたものは大差ないような気がし始めた。


 最初は荒かった語気が、気付くにつれ次第に大人しくなる。


 広瀬も同じことを思ったのだろう。ふーん、と軽い口調の相槌で聞いていた広瀬は、美郷が口を噤んでからぽつりと言った。


「――親しいと思ってたヤツに、突き放されるのは辛いよな。信じてたのに裏切られたっつーより、『信じてもらえると思ってたのに、そうじゃなかった』って感じが……意外とこたえる」


 そんなに自分は無価値だったのか。信用がなかったのか、それとも、心を開くに値しない、その程度の存在だったのか。自分の中で、相手が重要な位置を占めていた時ほど怒りや悲しみは募る。頼って貰えることは、必要とされること。人は誰かに「必要とされたい」と思う分だけ、その相手を「必要としている」ものだ。


「狗神なんて、いつまでも制御できるような代物じゃない。使えば使うだけ邪気を溜め込んで大きくなって、いつかは術者を喰い殺す。そうじゃなくても、使役に失敗して返されれば、自分を襲って来るんだ。あんなもの……」


 美郷の苛立ちは義憤ではない。怜路が本当にやったのかも分からないような、遠い場所の話に怒っているわけではない。ただ、何も言って貰えなかったこと、何もできないこと、美郷の手が届かない場所で、怜路が己の身を蔑ろにすることが悔しいのだ。


 いつの間にか膝を抱え込んで、美郷は広瀬を相手に不満や不安をぶちまけていた。へぇ、とこんな現実離れした話にも特別拒絶反応を見せず、広瀬は聞いてくれる。


「てことは、宮澤を虫除けだか目くらましだかにしたってのは、裏切った仲間に追われてる、隠れ蓑にしたってことか? えげつねぇな、それ。ホントにアパートのダブルブッキングも偶然か? ソイツ、宮澤が使った不動産屋に出入りしてたんだろ?」


 怜路と面識のない広瀬が、容赦のない推論を展開する。最初から、全て怜路の思惑どおりだったのではないかと。


「分からない。それはないと思いたいけど……確かめるためにも、見つけないと」


 対面して、何を言うのか自分でも良く分からない。救いたいのか罰したいのか、信じられない気持ちもまだまだある。


「ふうん……まあ、とりあえず飯食って頑張れよ。そろそろ休憩終わるぞ」


 言って、昼休憩をほぼ丸々邪魔してくれた男が立ち上がった。確かにもうあと五分ほどしか休憩時間が残っていない。冷えた弁当を食欲のない腹に押し込むには、あまりに短い猶予だ。しかし、美郷は立ち上がった広瀬を見上げて微笑んだ。広瀬のおかげで、だいぶ心が軽くなった。


「ありがとう、色々聞いてくれて。頑張ってみるよ」


 目を合わせた広瀬が軽く目を見開く。明後日の方向を見て溜息を吐き、「おう」と小さく返した。


「じゃあな」


 それだけ言い残し、屋上の金属ドアはバタリと閉まった。






 主を失った狩野家は、しんと静まりかえっていた。


 否、そう思うのは単なる美郷の感傷で、実際には昨日までと何の変わりもない。美郷が帰宅した時間には怜路は出勤していることが多いゆえ、夕闇に沈む屋敷と、小さなもののけの気配で満たされた中庭ばかりが美郷を迎えるのはいつものことだ。


 いつもどおり、まずは離れの自室に帰る。


 怜路のいない居酒屋に寄る気にはなれず、さりとて家の冷蔵庫にも夕食はない。結局コンビニで買って帰った弁当をレンジに放り込んで温めボタンを押す。ピロリン、と歌うレンジから離れ、美郷は冷蔵庫から麦茶を取り出した。


 中庭からは、騒がしく虫の音が響いている。いつの間にか、蛙の歌は遠くなっていた。中庭に面した掃き出し窓を全開にする日も減り、朝は冷え込んで深い霧に包まれることも多い。


「一人ぼっちなのかあ……」


 なんとなく、声に出してみた。


 狩野家は田畑を見下ろす高台に、里山に抱かれるように建っている。最も近い「お隣」すら数十メートルは離れており、その家も土日にだけ車がとまっていた。普段は空き家なのだ。


 隣人の生活音が聞こえるような、集合住宅の「一人暮らし」ではない。本当に、誰もいない。自分以外にこの家に帰ってくる者はいない夜は、あまりにも静かだ。

 一年間。怜路はここで独り暮らしていた。


 息を潜めての逃亡生活だったのだろうか。


 縁もゆかりもない片田舎の空き家に入り込んで、誰が暮らしたとも知れない家で、独りの夜を越えたのだろうか。


 怒りや悔しさが通り過ぎた胸を、疲労感と虚しさが占拠する。


 ぴーっ、ぴーっ、と、とっくに弁当を温め終えたレンジが不平を漏らす。早く取りに来い冷めるぞ。小さなちゃぶ台にコップと麦茶を置いて、ぼんやり窓の外を眺めていた美郷は「はいはい」と小さく返事した。


 少し冷めた弁当をかっこんで、風呂支度を始める。朝のうちは仕事が終わってからでも一人で、怜路を探しに出かけようかと思っていた。しかしそれは芳田と辻本にあっさりと見抜かれて釘を刺された。組織の一員である以上、業務時間外とはいえ身勝手な行動で事態を混乱させるわけにはいかない。それにとにかく、今日は疲れ果てていた。


 突然傍らの携帯からメロディが鳴って、数日前アラーム設定したテレビ番組の開始時刻を告げた。


 美郷はまだテレビを買っていない。普段熱心に見る方ではないし、どうしても見たい番組があれば怜路の部屋に上がり込んでいたからだ。ブルーレイレコーダ付きの大型テレビが、雑多に物の散らかった母屋の居間に鎮座している。


 少しでも気が紛れるか、それとも主不在の部屋に空しくなるか。分からないまま、ふらりと美郷は母屋へ足を向けた。そういえばあの男は、多少なりとも荷物をまとめたのだろうか。残っているものを好きに使えということは、もう二度と帰って来ないつもりなのだろう。


 裸電球が照らす暗い縁側廊下を歩いて、怜路が使っていた茶の間を目指す。途中、閉め切られたままの客間や納戸、便所へ繋がるT字路を横切った。


 ざわり、と内側からはらわたを撫でられる。


 飼っている白蛇が、何か主張した時の感覚だ。T字路の真ん中で美郷は足を止めた。


「……向こうに何かあるの?」


 蛇は納戸の方へ行きたがる。蛇の意思に従って、美郷は進路を変えた。どうせ今の気分では、番組に集中することもできないだろう。


 以前よりも随分と、蛇に寛容になったなあと他人事のように思う。巴に来た頃、誰にも知られたくないと思っていた白蛇は、いつの間にやら「美郷のペット」になっていた。辻本や芳田が何でもないことのように扱ってくれたのもある。だが一番は、怜路が受け入れてくれたからだ。


 敷地の広いここは学生時代の寮生活と違い、うっかり蛇が抜け出してもそう人目には触れない。唯一、目撃機会のある大家が気にせずいてくれれば、美郷は蛇の脱走にあまり神経を尖らせず眠ることができた。何より当たり前の存在として、白蛇の存在を話題にできる初めての相手だった。


 納戸の前で立ち止まる。中に入りたがるので、滑りの悪い襖を開けた。片面が押し入れ、向こうには奥納戸、隣は客間と四方を襖で囲まれた四畳半ほどの空間が闇に沈んでいる。


「――あれ、ここって」


 美郷は一度も開けたことのない部屋のはずだが、見覚えがある。なぜだろう、としばらく考えて、思い至った答えに頭を抱えた。


「そうか、白太さんが……」


 以前、美郷の寝ている間に逃げ出した蛇が入り込んだ部屋だ。美郷は白蛇の視界を完全に追えるわけではない。夢の中の記憶のように曖昧だが、確かに見覚えがあった。あの時、怜路に蛇を目撃されたのだ。


 闇に慣れた目を細めて、和風ペンダント型蛍光灯のスイッチ紐をつかまえる。カチン、と引っ張ると視界が明るくなった。黄ばんだ光が狭い部屋を照らす。


 腹の内側で、蛇が主張する。


「なに、この押入れ? うわっ」


 指示されるままに押入を半分も開けないうちに、蛇が美郷の首元から逃げ出して押入れ上段の奥へ入り込んだ。


「ちょ、ちょ、白太さん! 何やってんだお前!!」


 慌てて美郷は、かび臭い押入れに頭を突っ込む。何か美味そうなモノの気配でも感じたのか。


 この蛇は、人間を襲ったりはしない。普段は美郷の中で大人しくしているし、美郷から抜け出して散歩した時も「おやつ」にするのは辺りにいる物の怪のたぐいだ。


 いくつも積まれた段ボール箱の奥、押入れの突き当たりに置かれた金属製の行李の上に、一抱えほどの風呂敷包みが二つ並べられていた。手前の段ボール箱を床にどかすと、白蛇が二つの風呂敷包みに巻き付いて美郷を見ている。


「これを開けろってことか。……かなり大切にくるまれてるな」


 持ち上げると、存外重たい。ひとつずつ丁寧に取り出して、美郷は包みを解き始めた。白蛇は包みと共に大人しく引き返し、美郷の肩にたくなっている。


(意図的な封じ、じゃないな。何だろう。「忘れたい」って気持ちがそのまま呪になったのか)


 結び目に触れる指先から、悲痛な想いが伝わってくる。


 忘れてしまいたい。なかったことにしたい。だが、捨てられない。


 ただただ、視界から消して忘れることしか出来ず、だが粗末にも出来ない大切な、大切なもの。愛おしさと悲しみをありったけ込めて「包み」「結ぶ」行為が、意図せず強力な封印を作ったのだろう。ひとつ結び目を解くたびに、中から強い霊力がにじみ出てくる。


「…………巴人形。そうか、お祖父さんお祖母さんが」


 艶やかで、彩色も褪せぬ陶器の人形に美郷は触れる。狩野家の若夫婦と二人の子供は、レジャーに出かけた先で水難事故に遭い消息を断った。そしてこの家には、子供たちの祖父母である老夫婦が残されたそうだ。彼らも数年後には亡くなりこの家は空き家となったが、きっと老夫婦は帰らぬ子と孫の遺品整理を、身を削がれる思いでしたのだろう。


 ふたつの包みは、天神人形と娘人形、それぞれ男児と女児に与えられる巴市の節句人形だった。間違いなく「狩野怜路」とその姉のものだろう。節句人形の原型はヒトガタと呼ばれる呪具であり、人々は上巳の節句――今でいう桃の節句に、このヒトガタに己の穢れを移し、ヒトガタを川に流して穢れを祓った。この風習は「流し雛」という形で現代でも各地に残っている。


 流し雛から陶器などでできた本格的な節句「人形」となり、家々で毎年大切に飾られるようになっても、その基本は変わらない。つまり彼らは、子供の身代わりとなって、降りかかる災厄から子供を守護する存在なのである。


「この天神人形――」


 この家の住人だった「怜路」少年の天神人形は、肩口から大きくひび割れていた。真っ二つになる寸前のものを、大切に布でくるんで保定してある。既に一度、ヒトガタとして少年の災厄を引き受けたのであろう。割れた天神人形から伝わる霊力は弱々しい。一方で、姉の娘人形はひび一つない完品だ。これは多分、娘人形の守護する相手が健在だからではない。触れる人形から伝わる哀哭が、そう美郷に教える。


 もぞもぞと体内に帰ってきた蛇が囁く。


 ――よんでたよ。


 美郷は「うん」とうなずき、艶やかな人形たちを撫でた。封じを解かれた人形たちは、美郷に訴えかける。割れてしまった天神人形は儚く祈るように、綺麗なままの娘人形は縋るように、強く。


『あの子を、怜路を救ってやってくれ』


 誰のため、何のためのものかも分からないまま、涙が一筋、美郷の頬を伝った。


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