亡霊屋敷(後)【怜路過去2】

  ***



 休耕田の間に伸びる車幅ぎりぎりの細い坂道を、3ナンバーのセダンが上がる。両脇に繁茂した雑草が、メタリックグレーの車体を叩いて青い汁を散らした。時刻は黄昏時。湿度を増す宵闇の空気に、山々の緑と花の香が満ち満ちている。

 縁を雑草に食い荒らされたアスファルトの終着点には、伸び放題の庭木と雑草に埋もれた空き地があった。定期的な手入れをされている気配もなく、ただただ山に還りつつあるうら寂しい場所である。怜路の背丈を越える茅の茂みの中に、ぽつりぽつりと己生えの幼木が枝を伸ばしていた。

 アスファルトの上に車を停め、運転席を出た怜路は煙草に火を点ける。

 ドアに寄りかかって煙を肺腑に吸い込み一気に吐き出せば、昏い黄金色を山の端に残す空へふわりと紫煙が流れた。

「さてさて。今夜は出てくれるかねェ」

 煙草のフィルタを噛んでニヤリと笑う。薄付きのサングラスが濃い葉陰の闇を映した。

 問題の「屋敷」は、昼間来たのでは何の気配も見せてくれない。ならば夜はどうかとやって来た。可能ならばこういうモノの相手は昼間が良いのだ。わざわざ、陰の気が濃く敵の力が増す不利な時間帯に相手をしたくはない。

 凭れかかっていたドアを開け、フィルタぎりぎりまで喫った煙草を灰皿にねじ込んだ。後部座席から商売道具一式を取り出し、一応車のロックをかける。人の気配などない場所に、寂しく薄暗い防犯灯が瞬いた。

 この道の入り口には、古びて薄汚れた「通学路・飛び出し注意」の標識が傾いていた。まだここに「集落」があった頃に整備された名残だ。

 ポケットの多いヒップバッグを腰に巻き、錫杖を肩に担ぐ。

「一晩でちゃちゃっとカタぁ付けてえもんだな」

 背後の山に抱かれ、雑草と庭木で鬱蒼とした空間から獣道が伸びている。この辺りは鹿や猪に狸や狐、里山の野生動物がいくらでも闊歩する場所だ。周囲の休耕田や忘れられた水路から、ケコケコと蛙の恋歌が聞え始めている。

 太陽が山の向こうに身を隠せば、辺りは瞬く間に暗くなった。いつの間にやら色彩を失った薄闇では、ほんの少し注意を逸らせば景色の輪郭は茫洋とした闇に溶ける。

 時代に忘れ去られた、薄暗い蛍光の防犯灯が瞬く。

 光に吸い寄せられた蛾が、怜路の目元を掠めて乱舞した。反射的に顔を背けて打ち払う。

 ぱしりと確かな手応えと共に、こぶりな蛾が足下に落ちた。やれやれと怜路は視線を戻す。

「出たな」

 ニヤリと口の端を上げた。生い茂る茅の葉の向こうに、茅葺き屋根にトタンを被せた、古い農家のシルエットが浮かび上がる。件の亡霊屋敷だ。さて行くか、と一歩踏み出そうとして道の暗さに顔をしかめる。

「くっそ、さすがに暗すぎんな。ダセェから使いたくねーんだけど」

 ぼやきながら再び車に頭を突っ込み、取り出したのはヘッドライト付きの安全帽である。洞窟探検隊が被っていそうなアレだ。せっかくワックスで決めてある、ツノの立った金髪を安全帽――いわゆるヘルメットの中に押し込んで、ぶつくさ言いながら怜路はヘッドライトのスイッチを入れる。

 元よりアメカジ風に決めてあるファッションに、安全帽など被ればヤンチャな土建屋の兄ちゃんにしか見えない。自覚はあるが、まあどうせ見る「人間」はいない。

 気を取り直して怜路は、亡霊屋敷目指して獣道へと分け入った。



  ***



 戸板の傾いた玄関の先には、六畳ほどの土間が広がっている。

 奥にある茶の間への上がり口には磨り硝子をはめた引き戸がつけられており、怜路のヘッドライトに照らされて磨り硝子の桜模様が浮かび上がった。

 この家は、現世では既に存在しない。

 もう四十年以上前には空き家となり、十数年前に取り壊された後だ。

 傾いて動かない戸板をはずして庭に放り、怜路は土間に足を踏み入れる。

 瞬間、周囲の音が消えた。

 しん、と耳の痛くなるような静寂のなか、みし、みし、と幽かな音だけが奥から届く。錫杖を肩に担いだまま、怜路は気配を忍ばせて歩を進めた。音は磨り硝子の引き戸から漏れ聞こえてくる。

 誘ってやがるな、と怜路は引き戸を睨んだ。

 座敷より一段低い板の上がり口に土足のまま足を乗せると、埃を被る板が軋んだ。引き手に指を引っかけ、力を込める。ガタリと大きく音をたてて戸が開いた。

 埃が積もって色褪せた闇の中を、怜路のライトが照らす。

 床は板張りで、正面には囲炉裏が見えた。吊された自在鉤を追って視線を上げると、太い梁が闇に浮かび上がる。幽かな軋みを追って視線を滑らせると、梁に荒縄が括られていた。

 みし、みし、と荒縄が揺れて軋んでいる。

 それに合わせて、青白いモノが揺れていた。

 顔だ。

 ぐしゃぐしゃに乱れた耳隠しの前髪が頬に貼り付いている。

 見開いたままどろりと濁った白目が怜路を見ていた。

 だらしなく開いた口から、液体が滴っている。

 ウールの着物姿の女だった。

 弛緩しきった四肢がだらりと垂れ下がって床を離れ、ゆらり、ゆらりと左右に振れる。

 ぎょろり。音を立てるように濁った目が反転した。

 一対の、底なしの深淵が怜路を睨む。

『あ゛ぁー……う゛ー……』

 白い、白い唇がぎくしゃくと動いて、潰れた喉が奇怪な声を紡いだ。

 呼ばれるように、怜路の背後でカリカリ、カリカリ、とかそけき音がいくつも重なり、にじりよってくる。深淵から目を逸らさず、怜路は丹田に力を込めた。

「オン キリキリバザラバジリ ホラマンダマンダ ウンハッタ」

 じゃりん! と金環を鳴らして錫杖の石突が床を打った。尖った石突が床板の隙間に突き刺さる。

 背後の音が止まった。だが、群がる蟲のような気配は消えていない。

「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」

 不動明王根本印を組み、小呪を唱える。

 瞬間、不動明王の白い炎が怜路を中心に床を舐めた。広がる炎に怯んだように、背後を囲んでいた小さな気配が遠ざかる。

 床を這う白焔に足を焦がされながらも、首吊り女は怜路を睨みつけていた。ちろちろと足袋に燃え移った炎が、着物の裾を這い上ってゆく。だらりと垂れ下がる手足は動かない。動かなくなった口元からは、ぽつりぽつりと黒い滴が糸を引いて落ちる。とうとう黒髪に炎が燃え移った。何の抵抗も見せぬまま、女は炎に包まれる。

 ぐしゃり。

 燃えた荒縄が切れ、重く湿った音をたてて女が床に落ちた。

 突き立てた錫杖の前で印を組んだまま、怜路は微動だにせず様子を窺う。これで終いという雰囲気ではない。

 髪と肉の焦げる臭いがぷんと鼻を突く。

 炎の中で、黒いわだかまりがもぞりと動いた。

 ガタガタガタガタガタ。

 戸と言わず床と言わず柱と言わず、家全体が身を捩るように揺れ始めた。ばぁん! ばぁん! と巨大な手のひらが床や壁を打つような、大きな音が四方八方から鳴り響く。

「……つまり、テメェが本体じゃねーってことな」

 ちっ、と鋭く舌打ちし、怜路は印を解いてサングラスをはずした。ぐにゃりと大きく世界が歪む。壁も床も全てが消えた。代わりに、真っ黒い空間が怜路を取り囲む。

 怜路の持つ緑銀の双眸は、『天狗眼』と呼ばれる。

 妖魔の類が操る幻術を見破り、隠れたモノを見抜く眼だ。しかし、怜路が生まれ持ったこの異能の眼は正直な話、日常生活には結構邪魔である。肌身離さぬサングラスには、それを封じて「普通の視界」を手に入れるための術が施してあった。

 怜路を包む黒い空間は、虚空の闇ではなかった。よくよく注意すれば、ざわりざわりと気配が満ちている。盛大に顔をしかめ、怜路はポケットで潰れた煙草をくわえた。カチン、とライターが火花を散らし、朱い灯が点る。

 ヘッドライトに照らされ、真っ黒い床や柱、天井がざわざわと蠢く。あまたの黒光りする髪の束が、細かくうねりながら「家」を形成していた。この家は誰かの、おそらくは女の情念ひとつで形成された呪いそのものなのだ。

「ンなもん、見たかねーんだがなァ」

 一言でいって、気持ち悪い。「呪いそのもの」など見て楽しいわけもないのだ。だが、この家、この呪いの核を見つけだすには一番手っ取り早い。

 背筋を這い上る嫌悪感に耐えながら、怜路は周囲の気配を探った。正面の首吊り女だったモノは、ただの黒いわだかまりである。

「タニャタ カテイビカテイ ニカテイ ハラチッチケイ ハラチミチレイ――」

 錫杖を担ぎ直した怜路は除難除災の陀羅尼を唱えながら、一面ざわめく黒髪の床を踏みつけ部屋を移動する。蠢く気配の活発な方を目指せば、いくつも黒髪の束が怜路を阻みに襲ってきた。

「臨兵闘者皆陣烈在前ッ!」

 刀印で髪を切り払う。髪のくせに、毛束がどろりと赤黒く血を散らす。ふざけんな、切って血の出る髪があるかと悪態を吐いた。罵ったところで相手が遠慮するはずもなく、次々襲ってくる髪の束をかわし、錫杖で打ち払い、刀印で切り裂く。

「見つけたぜ」

 ニヤリとくわえ煙草の口の端を上げる。ひときわ大きく蠢く、醜悪な瘤があった。

 脈打つように、うねる黒髪がわき出している。あれが「核」だ。

「天魔外道皆仏性 四魔三障成道来 魔界仏界同如理 一相平等無差別!」

 右肩に担いでいた錫杖を、槍投げの要領で振りかぶる。瘤めがけて狙いを定め、怜路は全身のバネで錫杖を投げた。豆腐でも突き刺すかのように、深々と錫杖が瘤に沈む。わき出す髪の束が、末期の痙攣にのたうった。

 やがて蠢動が止まる。ゆっくり歩み寄った怜路は、錫杖を引き抜いて、ぽい、とだいぶ短くなった煙草を床に放った。

「燃えな」

 あっさり火の燃え移った一面の髪が、黒煙を上げて炎に飲まれる。炎の環の中心、怜路の足下には割れた丸鏡が落ちていた。

 鏡台用の鏡だろう。人の頭ほどの大きさで、褪せてひび割れた漆の枠に飾られている。

「呪詛か」

 ぐしゃり、と怜路は鏡を踏みつぶした。砂ででも出来ていたかのように、鏡があっさり粉々になる。と、同時に視界がわずかに明るくなった。ふわりと一陣、草木の夜の吐息を纏った風が吹き抜ける。

 怜路は、雑草に埋もれるように空き地のただ中に立っていた。

「……終わった、わけじゃなさそうだな」

 やれやれ面倒くさい。サングラスをかけなおし、怜路は雑草を漕いで愛車を目指した。



  ***



 数日後。今度は日の高い時間に、怜路は再び屋敷跡を訪れていた。先に依頼主の不動産屋に寄って来たので、そろそろ昼も近い時間である。亡霊屋敷の主である女について、詳しく調べてもらっていたのだ。

『――死因は首吊り。子供の方が先に死んで、何年か一人で暮らしとったみたいじゃのォ。自殺の原因は分からんが、難しい人だったらしゅうて近所に仲のええ相手も居らんかったようじゃし。まあ、だいぶんその家自体がアレよ、底意地が悪ぃいうて嫌われとったようじゃのぉ』

 社長が語った内容は、概ね怜路の予想どおりだ。女は最期、何かの呪詛を仕掛けて首を吊ったのだろう。

 まだ若々しい柔らかさを残す青草を踏み分け、記憶を頼りに目的の場所を探す。怜路がその肩に担いでいるのは、いつもの錫杖ではなく、シャベルだ。

 古来、家の中には霊的に特別とされる場所がいくつかある。その中で、屋敷を崩しても残る場所がひとつだけあった。井戸だ。

 そして井戸は、幽世の入り口ともされる。

 死者の世界とうつし世を繋ぐ、昏く深く冷たい穴。水神の住まう場所。家を崩す時、井戸を完全に埋めてはいけない。節を抜いた竹を五寸ほど地上に出して、地中に陰の気が溜まらないようにするものだ。今時、忠実に守るのは難しい俗信の類だが、何もかもが嘘なわけではない。――でなくば、怜路の商売も成り立たない。

 女の想念だけで出来た亡霊屋敷の本体は、鏡だった。相続権者たちの魂を呼び寄せているのがあの鏡だとすれば、うつし世のどこかに「本体」がある。世間では気軽に幽霊亡霊と、さも亡者の霊魂がこの世に残って悪さをしているような言い方をするが、それは正確ではない。

 亡者とは、「もう亡い者」だ。拠る実体が存在しないのに、何か意識体だけが残るということはありえない。何か残っているとすれば、それを依り憑かせているモノがある。先日であれば日本刀、今回は鏡、人間の想念を吸い取って溜めやすい器物はいくつかあって、それらは御神体にも、呪具にもなりやすい。

 この敷地のどこかに、呪詛を込めた鏡があるはずだ。とすれば、一番可能性が高いのは井戸の中と怜路は踏んだのである。

「さあて、見事に埋められちまって跡形もねーワケだが。どの辺りかねェ」

 この間はヘッドライト付の安全帽に今日はシャベルと、怜路も正直そろそろ自分の仕事は何だったかと忘れそうになる。巴に来てからというもの、仕事内容の野趣はぐっと増した。

 不動産屋の社長に、経験上この辺りだろうと教えてもらった場所を検分していく。びっしりとはびこった雑草と茅の地下茎で、土の色は見えない。この、地表を覆う緑の生命力も、大きな目隠しになっていた。呪詛に使うならば逆に、綺麗に埋めてしまった方が都合が良かっただろう。竹の先が出ている様子もない。

 五月も半ばの、力強さを増した日差しが怜路を焼く。まさか肌を剥き出しにして茅の中に突っ込むことはできないので、長袖軍手の完全防備だ。暑い。

「……あんまやりたかねーんだが。まあ、形代だからな」

 ぼやいて、シャベルを傍らに突き立てた怜路は、ハイネックパーカーのポケットから紙片を取り出した。人の形に切った和紙に、今田利香の名前と年齢が書いてある。郵送して利香本人に書いてもらい、息を三回吹きかけてもらった。普段は本人の厄落としに使われる形式の、いわば「身代わり人形」である。

 怜路は手のひらの上に、縦半分に折り目をつけた人形を立てる。反応してくれ、と祈る怜路の頬を、冷たい風が掠めた。

 ふわり、と人形が風に舞う。怜路の手からこぼれ落ちた人形の行く先に、怜路は意識を集中させる。人形は、こんもりと高い茅の株と株の隙間に滑り込んだ。サングラスをずらし、怜路は目を細める。紙人形に何かあっても、利香に害は及ばない。それでも多少緊張した。

 かさり、と葉陰の闇から白骨の手が這い出して人形を掴んだ。

 握りつぶされた人形が一瞬で燃えて灰になる。本人に害が及ばないための仕掛けだ。

「オン カラカラビシバク ソワカ」

 軍手のまま転法輪印を組んで、怜路は不動金縛りの呪を唱えた。白骨の手に、不動明王の縄が絡んで動きを止める。素早く怜路はシャベルを掴み、白骨の上を覆う茅を薙ぎ払った。――様になっていないのは、本人が百も承知である。

「どこが本体だ、おらァッ!!」

 斬った株のすぐ根元から、白骨の二の腕だけが土を押し上げ生えている。怜路が印を解いたため解放された骨の手は、今度は怜路を引きずり込もうと更に腕を伸ばしてきた。ぼこり、と網の目の地下茎を押し上げて、白昼に骸骨が現れる。

「臨兵闘者皆陣烈在前、鬼!」

 五横四縦の九字に、邪霊退散の一字を加えて斜めに切り裂く。ぱん、と弾き飛ばされた白骨がばらばらに宙を舞った。本体ではないはずなので一時しのぎだ。その隙に、と骨の出てきた辺りを掘ろうとする怜路の足元で、ぼこり、ぼこり、と無数に雑草の緑が波打つ。

「げっ、マジかよ」

 弾き飛ばされた骸骨に続くように、いくつもの白骨死体が地中から這い出して怜路に腕を伸ばした。男と思しき大柄なものも、幼子らしき小さなものもある。総勢、六体もの白骨が、土にまみれた骨だけの手で怜路を掴もうと群がってくる。

 ぷん、と湿った土の黴臭さが鼻を突く。

 この白骨はおそらく、女に呼び寄せられた相続人たちだ。怜路が調べた犠牲者も七名、全員、遺体は一片も出てきていない。

 怜路は縋り付いてきた子供らしきしゃれこうべを蹴飛ばした。頭だけが明後日の方向へ飛んでいく。続けて成人女性らしきものをシャベルで打ち払った。わざわざ一体ずつ浄めてやる余裕はない。全ては大元を断ってからだ。

 晴れた初夏の日中、周囲には杜鵑や雉の呑気な啼き声が響く。ただ、人の気配はない。荒れた休耕田と、雑草まみれの道と、山へ還ろうかという民家跡だけが残されている。

 ここは、うつし世にありながら既に、「人の世界」の外だ。

 足首を狙う手を踏み潰す。

 伝わってくるのは「お前も、」という、妬みを孕んだあさってな恨みの念だ。

 怨嗟は己に苦しみを強いる者ではなく、その苦しみを免れた者へと。

 お前もこちらへ来い。自分だけなど納得できない。お前ばかり自由なのは許せない。自分は不幸なのに、縛られているのに。

「知ったことかい」

 舌打ちして、白骨どもの湧きだしてきた古井戸の前に立つ。大きく地面がめくれ上がり、抉れた土の中に井戸の石組が覗いていた。

「オン キリキリ バザラ ウン ハッタ」

 白骨どもを寄せ付けないよう、井戸の周りを結界する。

「……掘るしかねェよなァ…………」

 井戸の底に呪詛の本体があるならば、相当掘り返さなければならない。数メートル程度の浅井戸なことを祈って、怜路はシャベルを振りかぶった。

  ***



 何を、誰を恨んでの呪詛だったのか。

 こんな有様になるまでの経緯や、加害者・被害者の心情に深く首を突っ込む気にはなれない。怜路の仕事は「この呪詛を始末すること」であって、施した女を供養することではないのだ。

 だが、この稼業を何年も続けていると分かることがある。

 理不尽の中に束縛された人間はある時点から、自分を苦しめた環境に執着を始めるらしい。

『これだけ耐えたのだから、私は当然報われるべきだ』

 押し込められた苦しい環境に耐え、順応していくなかで起こる、心の防衛反応だろう。「辛い現状を耐える」ことに、なにがしかの価値と報酬を信じ始めるのだ。

 田舎という世間の狭い環境、古い時代の窮屈な価値観、様々なものに押し込められた「嫁」という立場で、女は多分「自分の時代」を心待ちにしていた。舅姑が死んでしまえば、小姑を追い出してしまえば。子供が大きくなって、結婚して、自分の面倒を見てくれる。誰も自分をこき使ったり悪し様に罵ったりしない。今度は自分が若夫婦を使いながら、のんびりと暮らせるはずだと。

 だが、そんな日は結局来なかった。

 女の子供は結婚せぬ間に早逝した。そのことに、遠大な因果や運命など存在しない。一定確率で起こることだ。家筋の絶えるを因果だの祟りだの言う同業者モドキの詐欺師がいるが、余程のこと――それこそ、今回のようにあからさまな呪詛でもない限り、ただの偶然の積み重なりである。

 女はその、理不尽な現実に耐えられなかったのだろう。

 土を掘り返していたシャベルの先が、何か硬い物に当たった。

 瞬間、怒涛のように怨嗟が流れ込んで来る。

 ――何故。あれだけ耐えたのに。何故、私ばかり。私は何も悪いことはしていないのに。

 女は嫁入り道具だった鏡台の鏡を外し、裏側から呪字を刻み始める。

 彫った溝に、己の血を刷り込んでゆく。

 ――誰にも渡さない。この家は私のものだ。他人のものになることは許さない。私が、耐えて、耐えて手に入れたのだ。

 女は鏡を家の井戸に投げ入れ、井戸を埋め始めた。

 ――誰も、この家で幸せになることは許さない。私が幸せになれなかったのだから。あれほど耐えて尽くして、何も報われなかったことが、他人に許されてよいはずがない。

 未来永劫。誰もこの場所で「幸せ」にならないように。それが女の呪いだった。人を呪わば穴二つという。それは人を呪えば報いや返しを受けるという意味か。怜路は、違うと思っている。

(他人を、何かを本気で「呪う」時点で、もうソイツは地獄にいる)

 極楽も地獄も、三途の川の向こうにあるわけではない。死んでしまえば皆同じ、魂は問答無用で幽世へ還る。

 世界は平等には出来ていない。因果応報・自業自得は幻想だ。ただひたすら、理不尽を被る者もある。理屈はない。努力も忍耐も、何も報われないこともある。そんな理不尽に踏み荒らされて為す術を持たず、だが納得できぬ者が己をすり潰して更なる理不尽を振り撒く。それが、呪詛だ。

 シャベルで周囲の土をざっと除け、怜路は井戸の底にしゃがみ込んだ。軍手で土を掘って「それ」を取り出す。

 鏡台用の丸鏡に、大きくヒビが入っていた。

 女は鏡に己を映し、何度も何度も怨嗟を唱えたのだろう。肉体を捨てて鏡に乗り移り、永遠にこの地を呪うために。

 曇り果てた鏡面に、緑銀の天狗眼が女の顔を映す。ひび割れた鏡は、もう呪力を失いつつあった。

 女の顔が、おどろな怨嗟の表情を浮かべたまま薄らいでゆく。怜路にこの女を救ってやる術はない。ただ、消滅する様を見守るだけだ。

「消えな。安らかになんて言わねえよ。けど、アンタはもう『存在しない』んだ。消滅した後にまで苦しむ理由もねェだろう」

 その痛みも、苦しみも、憎しみも。もう誰も感じる者のいない幻肢痛だ。

 怜路はそっと、鏡を布に包んだ。



 ***



 狩野怜路は個人営業の事業主である。

 職業は「拝み屋」。服装自由。勤務時間、休日気まま。ただし、雇用保険も厚生年金もない。国保くらいは一応入っている。

 仕事で会った人間に『自由で良いですね』と言われることは珍しくない。軽い冗談の時もあれば、明らかな侮蔑を含むときもある。怜路は『まあ、おかげさまで呑気にやってるさ』と返す。相手の眼にちらつくのは侮蔑や嫉妬羨望と、僅かな憎しみだ。

 人は、自分を呪縛するモノから自由な相手を不思議と憎む。「耐える自分」を嘲笑われているような心もちでもするのだろう。

 布団の上に寝転がり、パソコンからオンラインバンクの残高確認をする。昼間、不動産屋の社長から報酬振り込みの連絡があった。

「おー、入ってる入ってる」

 金額はあらかじめ約束してあったとおりだ。日数、経費等きちんと計算して請求しているため揉める心配もない。さて寝るか、とパソコンの電源を落とした頃合いを見計らったように、裏の戸板を叩く音が響いた。

「クッソ、今日こそは出ねえぞ……」

 なまじっか相手にするから喜ばれるのだ。本来、無視が一番である。

 決意と共に明かりを消し、怜路は布団にくるまった。おおい、おおい、と今度は人の声真似をしている。腹立たしいことこの上ない。我慢、我慢と目を閉じる怜路の耳に、けらけら笑う声が届いた。

『やあい、やあい、天狗の仔。人の世はつれなく寂しかろう。遊んでやるから出てこぉい』

 ばん! と怜路は畳を叩いた。そのまま布団を蹴散らして立ち上がる。錫杖を引っ掴んで、力任せに戸を開ける。夜闇に激しく、戸板のぶつかりあう音が響いた。

「くそったれ! 今日こそは滅してやらァ!! 出て来い!!」

 盛大に啖呵を切りながら心の隅で思う。いっそ、何か深夜勤務のアルバイトでもするか。そうすれば物の怪どもの襲来時間も避けれるし、もう少し他人と接点ができる。物の怪の言葉に逆上したのは、最近会話した相手の少なさに多少滅入っていたからだ。

 怜路の怒鳴り声に喜ぶ物の怪どもは、闇の中から出て来る気配を見せない。

「オイコラ、遊んでくれんじゃねーのかよ?」

 凶悪に笑んで、怜路は緑銀の眼を光らせた。錫杖を構えて気を練る。




 音無き爆発に叩き起こされた寝惚けカラスが、一斉にカァカァと山の上を舞った。


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