ノーマル・ライフ【美郷大学生篇】
ピカピカの大学一年生、
それは「ごく普通の学生生活」。ちょっと痛々しいが、彼当人は大真面目だ。適度な勉強とアルバイトに、サークル活動。彼女もできれば申し分ない。野望に掲げるのは結局、今までが「普通」と無縁だったということで、女子と楽しくお喋りした記憶も大してない。よって――、
「宮澤君って、なんか可愛いよね。小動物みたい」
と明るい笑顔を見せられると、ついどぎまぎしてしまう。俯いて、伸び過ぎた前髪を触りながら、美郷は己の耐性のなさに溜息を吐いた。髪、切らなきゃなあ。などと現実逃避にしょうもないことを考える。
海辺の強風に、屈託なく笑う彼女の帽子が揺れる。
「そ、そうかな……」
極力顔は上げず、美郷はへらりと笑った。ぼそぼそ喋った言葉はきっと、響き渡る海鳴りにかき消されただろう。
抜けるような快晴の下、太平洋の荒波が岩壁に砕け、横殴りの風が美郷の安っぽい綿シャツの裾をはためかせる。遠く天地を分ける水平線は鮮やかに、深淵の色をした海からは白波が押し寄せていた。
「あたし、先に行くね」
美郷の態度を気にするそぶりもなく、彼女がそう言ってひらりと手を振った。断崖絶壁の上をたなびく青草の向こうに、その小柄な背中が遠のいていく。
意識しても無駄だ。美郷と知り合った時、既に彼女の視線の先は別の男子がいた。美郷とは真逆の相手だ。
(それに……いや。関わらない、近寄らない……)
遠く光る淡色のポロシャツに、不意に黒く翳が揺れる。雲一つない夏空の下、辺りに影を落とすものはない。
美郷は無言で目を細めた。
「この詩碑を集合場所に、三時間ほど自由行動だ。遅刻した奴は置いて帰る! 以上解散!」
和歌の舞台として有名な景勝地に「史跡研究同好会」の部長・池谷の太い号令が響く。男女合わせて七名の部員たちは、三々五々にいらえを返して歩き始めた。
といって、行く先など多くはない。傍らの小さな記念館か、崖下にある洞窟か。男子四人が崖下を目指す後ろで、美郷は一人記念館へと足を向けた。この手の資料館が好きなのと、崖に近寄りたくないからだ。
(あの洞窟、蛭子神社があるんだよなぁ。やっぱ止めた方が――でも何か起きると決まったワケじゃないし、池谷がいるなら大丈夫かな……やっぱり疑われてから、もうこれ以上目立ちたくないし)
足を止めて悩む美郷を、ふいに副部長の相葉が振り返った。隣の池谷に何か告げる。美郷を見遣った池谷が、心底呆れたような、つまらない顔をした。
『なんだ、またあのビビりか』
口の動きがそう言った。それを宥めた様子の相葉が向かって来る。
目が合った。
美郷は逃げるように、慌てて資料館へと足を向ける。記念館に飛び込んだ美郷は、ほっと息を吐いた。「ビビり」を笑い飛ばす池谷よりも、相葉の方が苦手だ。
『――ねえ、恵子。宮澤君となに話してたの?』
気分を切り替え、展示品をじっくり見ていた美郷の耳に、突然己の名が飛び込んできた。展示品を連ねた曲がり角の奥から、先を歩いていた女子三人の話し声が響く。
『何って、別に……』
美郷を可愛いと言った彼女、
『告白された?』
きゃっきゃと他の二人が囃す。美郷はその場に凍り付いた。
『違うって。宮澤君が「危険予知」してたから、ちょっと』
『えー、またかぁ……じゃあ崖の方ヤバくない?』
『でも宮澤君って、絶対恵子のこと好きだよねー。いっつも見てるし』
『けどあんまり顔見て話さないしね。めっちゃ意識してるって』
居たたまれない話題に、思わず顔を覆った。我ながら、間が悪すぎる。
『恵子的には宮澤君、あり?』
もう勘弁してください。心の底から願った。
『あっ、ううん……私は――』
躊躇いがちの返答は、予想済みのものだ。それが嬉しいはずもない。項垂れる美郷のポケットから、無慈悲に携帯の着信音が鳴り響いた。
池谷が見当たらない。相葉からの報せに美郷は唇を噛んだ。着信音で立ち聞きがばれたが、それどころではない。たまらず美郷は記念館を飛び出した。視界の端に、一際蒼褪めた恵子が映る。ただのサークル仲間を案じる表情ではない。
危険予知の正体は、いわゆる霊感だ。その血筋に生まれた美郷は幼い頃から呪術を習い、周囲とは別世界に生きてきた。家のゴタゴタに巻き込まれて酷い目に遭い、大学進学を機に普通に生きると決めた今でも「視える」のは変わらない。
そのことから目を逸らし続けて、ようやっと三か月が経つ。
(あの池谷が捕まるなんて。馬鹿なこと気にせずに止めてれば……サークルは辞めればいいんだし)
史跡同好会の行き先には、妙に怪異がつきまとう。美郷はそれを察知するたび、霊感は伏せて警告を出してきた。結果、何とか大事は避けつつも、池谷に付けられたあだ名がビビリ君だ。相葉や恵子をはじめ、他の部員たちにはそろそろ疑われている。
崖下へと遊歩道を駆け下りながら池谷の気配を探る。途中、脇道を見つけた美郷は立入禁止の柵を越え、強風に煽られながら足元の悪い道を進んだ。転べば海まで真っ逆さまな崖の半ば、転落防止柵は古びて心許ない。正気ならば間違っても足を向けない場所だ。
「池谷!」
大きくせり出す岩を回った向こうに、覚束ない足取りの背中が見えた。その両足に、黒いモノがいくつも巻き付いている。人の手にも、長い髪にも、海藻にも見える何かだ。
強烈な磯の臭いが鼻をつく。美郷はひとつ呼吸を整えた。
「神火清明、神水清明、神風清明、急々如律令!」
人差指と中指を立てた刀印で、黒い触手を切り払う。ソレが驚いたように退くのと、池谷が足を滑らせるのはほぼ同時だった。
「池谷!!」
美郷は慌てて走り寄る。遊歩道を踏み外した池谷が正気に戻り、滑落寸前で雑草を掴んだ。しかし、触手は再び腕を伸ばしている。今の美郷に、ソレを祓う力はない。
「宮澤!? ――俺は何を」
混乱している池谷を引き上げようと、美郷は池谷の手首を掴む。
「上がって!」
腰を落として美郷は池谷を引っ張るが、池谷が這い上がって来る気配はない。
「くそっ、足が……」
黒い触手に巻き取られて動かないのだ。
どうしたものか迷って、美郷は意を決した。
「お前、今悪霊に引っ張られてる! 黒い触手が絡みついて、海に引きずり込もうとしてるんだっ」
悪霊だの、今更口にしたくない。特にこの男の前では。ぎちり、と池谷の握力が増す。怒気が膨れ上がり、放散された。たじろぐように黒い触手が散る。
「馬鹿らしい……そんなモノは! 存在、せん!!」
自由を取り戻し、一気に崖を這い上がった池谷が、嫌悪を露わに美郷を振り払う。バランスを崩した美郷は尻餅をついた。
池谷はオカルトが大嫌いだ。そして霊感が全くない。更には、多少の霊障は弾き返してしまう天然バリア人間でもあった。他の部員が勘ぐる美郷の「危険予知」を、池谷だけが「ビビリ」の一言で切り捨てる理由はこれだ。
「帰るぞ!」
何事もなかったように池谷が去って行くのを、美郷は座り込んだまま見送った。相変わらず、気持ちが良いほどの全否定である。
「元気だなぁ」
ひとつ苦笑いをこぼして、美郷はよっこらせと立ち上がった。
一人で道を引き返す美郷の前に、小柄な影が現れた。
「比阪さん」
驚く美郷にばつの悪げな笑みを返し、恵子が俯く。
「ごめん、私が『呼んじゃった』みたい。海はやっぱ怖いね」
「――自覚、あったんだ」
ぽろりと本音を零してしまい、美郷は慌てて口を覆う。恵子が帽子の下で苦笑を深めた。
引き寄せ体質とでも言うのか。恵子は池谷とは逆で、頻繁に視えないモノを呼び込む。因縁のある史跡もだが、海――特に蛭子神社を祀っているような漂着物の多い場所は、いわゆるパワースポットである反面、まずいモノも出やすい。
「うん。私は視えないんだけど……宮澤君は、視えてるよね?」
今更否定する意味もない。素直に頷けば、やっぱりと恵子が呟いた。逡巡するように両手を握り合わせ、更に俯いて恵子が言葉を絞り出す。
「――私ね、宮澤君と池谷君のこと、利用してた。サークルに誘われた時、池谷君が『弾く』人なんだって気が付いて。彼と一緒なら、色んな場所に行けるかもって。それから宮澤君が入って――」
ここなら、私も「普通」に旅行できるかもって。
ゆっくりと蒼穹を見上げた恵子の言葉が、風に攫われてゆく。きっと時代と場所次第では、神女として崇められただろう。だがその体質は、彼女の行動範囲を酷く制限する。
眩しそうに海を見遣り、無理に作った明るい声で恵子が続けた。
「でも、やっぱ駄目だよね! 宮澤君にも凄い気を遣わせて、池谷君もとうとう巻き込んじゃって」
いつか周囲を危険に晒すと知りながら、黙って同好会に入っていたことは褒められた話ではない。だが、彼女は一体、誰に何と言って相談すれば良かったのか。
(おれだって、隠してたわけだし)
自分が霊感持ちなのを隠していなければ、彼女は相談してきてくれたのだろうか。
「対処法とか、知ってる人は?」
美郷の問いに恵子が弱く首を振る。周囲に理解者がいなかったのなら、相当苦しい思いもしたはずだ。「普通」という単語が、なおさら重く響いた。
「血筋とかよく知らないんだけど、家族にも私みたいな体質はいなくて……ネットで調べたおまじない程度じゃ全然だめだったし」
いまどき、「本物の能力者」を一般人が見つけ出すのは至難だ。身近に知識のある人間がいなければ、相当運が良くなければ適切な対処法には巡り合わない。
その点、美郷は違った。知識と対処法と、訓練。持って生まれた力を制御し役立てるための術を、叩き込まれて育った。お家騒動のゴタゴタに嫌気が差して逃げ出してきたが、思えば鍛錬自体が嫌いだったわけではない。
(おれ、なにやってるんだろ……)
今更思う。望んで、選んだ「普通」だ。だが培ったものを捨てて手に入れた、お望み通りの「凡人」では恵子に何もしてやれない。
「大丈夫、変に出歩かなければ迷惑もかけないから」
寂しそうに微笑んで、恵子が踵を返す。
何か他人にないものを持っていることと、他人が持っているものを持たないことは、全く逆のようで実は近い。突出したものを持つことで犠牲になる「普通」と、折り合いを付けられなかったのは美郷も同じだ。
普通でないことの値打ちを受け入れろ。他人が言うのは簡単で、当事者には難しいことだ。恵子のように、それに苦しめられているなら尚のこと。
崖下に、再びざわめく気配を感じる。連中は必ずしも、恵子に悪意を持っているわけではない。――だからといって、恵子の人生にプラスになるわけでもない。
(じゃあ、おれは……?)
本当の本当に、「普通」を望んだのだろうか。
心底この世界に関わりたくなければ、さっさとサークルを辞めてしまえば良かったのだ。大学も小さくはない。似たようなサークルを探す選択肢もあった。
(使命感なんて、ご大層なもんじゃない)
しばらく迷い、美郷は意を決して彼女の背中に呼びかけた。
「待って! ええと……すぐには無理なんだけど、その――」
こりごりだ、と思って捨てた世界だ。再び手を伸ばすのは怖い。だが、何かを捨てて「普通」になった自分は、無力だった。無力なままで良いのか。本当は、何かができるかもしれないのに。
足を止めた恵子が、不思議そうに振り返る。
「おれが、何とかするよ」
きょとんとした様子の恵子を真っ直ぐ見つめ、決意を持って言い切る。
「比阪さんが海でも山でも自由に行けるように、方法を考えるから」
緊張でこわばる拳を握る。退路は断った。
「宮澤君?」
恵子が目を丸くする。半信半疑の表情に、美郷はぎこちなく、それでも強く頷いた。
「おれ、視えるだけじゃないんだ。高校まではずっと、ああいう連中に対処する術を習ってた」
「……でも、宮澤君ももう、関わりたくなかったんでしょ?」
美郷が力を隠したがっていたのは、同じような立場の恵子も察していたようだ。
「うん。だけど――比阪さんの、役に立ちたいんだ」
オクテな美郷にとって、結構緊張する台詞だった。
一瞬間を置いて、くすっと恵子が笑う。
「ごめん、訂正するね。宮澤君、かっこいい」
(あっ、これ本気にされてないな)
一気に脱力して、美郷は苦笑いを返す。くるりと向けられた背中が続けた。
「――ありがと。待ってるから」
少し恥ずかしそうな言葉を置いて、恵子が小走りに消える。その背を美郷は眩しく見送った。
その月末、美郷はサークルを辞めた。
鈍った勘や落ちた力を取り戻して解決策を探し出すには、部活や恋活に割く時間はない。たった三か月の「普通の学生生活」を美郷は思い返す。
それなりに充実した、楽しい日々だった。
同じくらい、何か物足りない日々でもあった。
結局また帰ってきてしまった。漏れる溜息にはなぜか笑みが混じる。
宮澤美郷の『普通』は、この能力と共にあるのだ。
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初出・テキレボ第七回WEBアンソロ「海」
(http://text-revolutions.com/event/archives/category/webanthology/anthology07)
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