食事中の会話も味のうち


 同じ水深ふかさいきている。


 ならば、引け目なく付き合えるのではないか。脳裏を掠めたのは、言葉にすれば随分とあさましい期待だ。


 目の前の茶碗に盛られた素麺と、正面で胡坐をかく大家を見比べる。


 オラ食え、と腕を組んでふんぞり返るチンピラまがいの拝み屋は、一生その特異な眼と付き合ってゆくのだろう。面倒の多いであろう人生を、当たり前に受け入れられる強さが眩しい。


「イタダキマス」


「おう、客から貰った中元の余りだ。有り難く味わえ。料金は取ってやっからよ」


「……饅頭でいい?」


 汁椀に注がれためんつゆの中に、素麺を箸でひと掬いくぐらせる。そういえば饅頭をいくつも押し付けられていた、と美郷は思い出した。潰れていなければ良いが。


「なんでオメーが饅頭? そっちも貰いモンか」


「うん。おれは食べれないから」


 甘いものは全般的に苦手だが、饅頭は特に駄目だった。理由は簡単、あたったことがあるからだ。


「餡子の何にそんな罪があるってんだ」


 極甘党らしい怜路が、理解できないと鼻を鳴らす。勝手に他人の通勤鞄を掴んで目くばせしてきたので、好きにしろと目顔で返した。


「昔、派手に中って死にかけた」


「マジか。饅頭ってそんな派手に中る食いモンか?」


 鞄の中で多少不格好になった饅頭を、喜々として口に放り込みながら怜路が首を傾げる。


「蛇が入ってりゃそりゃ中るだろ」


 ぞぞぞ、と素麺をすすって美郷は軽く肩を揺らした。あー、と怜路が、納得と憐憫の合わさった声を上げる。美郷も昔は、和菓子が好きだった。手酷く中った食べ物は受け付けなくなるというが、例に洩れず美郷も「あの日」以来、餡子の類が酷く苦手になったのだ。


 首振りしている扇風機の風が、定期的に美郷の背中を撫でてゆく。


 和風ペンダントの蛍光灯が殺風景な和室を照らして、網戸をすり抜けたらしい羽虫が視界の端を舞う。間近で鳴くコオロギの声と、中庭の池に注ぎ込む水音だけが響いていた。


 きんと冷やされた麺が心地良く喉を滑ってゆく。薬味も付け合わせもないほんの「素麺」だが、バテ気味の身体には丁度良かった。


 しばらく無言で素麺を食べる。向かいの大家は、饅頭片手に携帯をいじっていた。テレビの置かれていない美郷の部屋には、穏やかな沈黙が満ちている。


「――ご馳走様でした」


 箸を置き、丁寧に両手を合わせる。「へい、ごゆっくり」と、とっくに饅頭を平らげてゴロ寝していた怜路が手を振った。「食器はてめーで片づけろよ」とのたまう大家が、この部屋に居る用事は既にないだろう。随分心配をかけたらしい。そして、見た目よりも数倍人の好い大家である。


「怜路ってさあ」


 ペットボトルからコップへ麦茶を注ぎながら、美郷はぼんやりと口を開いた。


「人情家だよね」


 お人好しといったら多分怒られる。ずいぶん時代遅れな表現になったが、口にすればしっくりきた。ああん、と、それでも多少不満そうな声が返る。


「じゃなきゃ、偶然見かけた宿無しにここまでしないだろ」


 美郷は、自分の命の値打ちを疑ったことはない。自分が生きていることに対して、他人の承認を得る必要などかけらも感じていない。でなくば、送りつけられた蛇を自ら「喰う」選択などしなかった。


 だがそのことと、他人が美郷を必要とするか、美郷との関係を維持しようと、努力する「価値」を認めてくれるかは、全く別だと思っている。正味な話、怜路がここまでする理由が今の関係にあるか疑問だった。


「あー。なんか面倒くせェこと思ってるだろ」


 反論はできない。短パン姿の怜路は寝転がったまま裸足の親指で、もう一方のふくらはぎを器用に掻く。


「俺ァ、親元にいた頃の記憶がねェ。養い親もヤクザなオッサンだったし、学校通った記憶もねーよ。けど、一通り漢字も読み書きできるし、計算も社会常識もそれなりだ。その辺は……修験道仲間が教えてくれた。英語は知らねーけど。結構、本業は学校の教師みてーなおっさんが多くてな。親父は十年近く前に失踪しやがったから、まあ同年代が制服着てる間から、俺はなんとかテメェで稼いでたんだが……、それで何とかまだ生きてられんのも、同業仲間が世話してくれたからだ」


 怜路は一昨年まで東京にいたという。


 彼は大都会の場末で「拝み屋」という、ある種のやくざ者のコミュニティで生きてきた。同業仲間は概して、順風満帆な表街道を歩いていない。誰もが、一般人の当たり前に持つセーフティネットからこぼれ落ちていた。


 ゆえに、縁の浅い他人も躊躇わず助け合ったという。


「人情とか言やあ聞こえがいいが、結局お互い様の保険よ。俺もそれになんべんも助けられた。こういうもんは、助けてもらった恩を本人に返すのなんざ大抵不可能なんだ。行き違いに助けてもらってそれっきりとか、もうとっくに相手は彼岸とかな。だから、自分も赤の他人に恩を返す。そういう約束事のなかで生きてきたんでね」


 へーえ、と、美郷は憧憬混じりに感嘆した。美郷からすれば、完全に物語の世界だ。そこまでの都会に出たことがないから、なおさら思うのかもしれない。


「そういえばさ、怜路は向こうの、東京の知り合いとかと連絡とらないの?」


「……来るもの拒まず、去る者追わずが鉄則だからな。連絡先なんざ知らねえよーな、あっさい付き合いがほとんどだったよ。聞いた電話番号がいつまで繋がってんのかも怪しいような連中ばっかだったし」


 まさしく、袖振り合うも多生の縁という感じか。


「それに、オメーだってウチの役に立ってんぜ?」


 ずれたサングラスの下から、上目遣いに怜路が笑う。


「えっ? な、何の?」


 予想外の言葉に、美郷は少々狼狽えた。


「オメーが来てから、めんどくせえ物の怪の客が目に見えて減ったからなァ。草刈りも楽だし」


 環境維持要員ということか。ネズミ除けの猫か何かと思われているらしい。


「べつに、特別追い払ったりしてないけど?」


「勘付いて寄ってこねーんだろ。前は酷かったんだぜ、しょっちゅう真夜中に騒ぎに来やがって」


 体の良い虫除けだと笑われて、美郷は多少の不満を漏らした。それから目を伏せ、ふふっとひとつ肩を揺らす。


「まあ、役に立ってるならいいか」


 生き残ると決めた選択を、後悔するつもりはない。


 だが、もしも蛇が居なければと考えた回数は数知れない。異能の同業者が集う中にあってさえ、異端だという事実を思い知らされるたびに恨めしさが募る。


「居なければ、いっそ居なくなれば」と思ったその蛇が、己と深く同化した存在と思い知らされて、改めて「異端」さを突きつけられた気がした。


 彷徨い出ていた蛇を呼び戻し、受け入れたのは自分だ。符を貼って封じながらも、結局自分の一部なのだと再確認した。


 そして、受け入れたつもりで結構滅入った。


「おうよ、有り難いもんだぜ。つかなんでアレ白蛇なんだ? 普通、蟲毒の蛇が白いとかねーだろ。やったらデケェし」


「え、ああ……。さあ、おれもよく分かんないんだけど。最初は黒かった気がするんだけどね。なんか、脱色した?」


「なんじゃそら」


 呆れた怜路が予備動作なしで体を起こす。よくよく体を鍛えている者の動きだ。ちゃぶ台に片肘をつき、その上に顎を乗せて大家はにやりと口の端を上げた。


「しっかし、なんでンな御利益ありそうな立派な白蛇がいて、お前はそう貧乏かねェ」


 白蛇といえば金運。意地悪く笑う怜路に、美郷は眉を跳ね上げる。


「うっるさいよ! むしろ金食い虫なんだって。封じてないとのたのた散歩するし、封じの符に使う紙は高いし!」


 そう、経費がかかるのである。下手に道具や素材をケチると効かなくなる。以前それで逃がした際に、怜路にも蛇を目撃された。


「なんだ、餌やってんじゃねーのか」


 てっきり餌代でもケチったのかと思った。ケラケラ笑う怜路に憤慨し、それからつられて美郷も笑いを零した。こんなに普通に、蛇のことを話せた記憶は今までにない。


「べつに、白太しろたさんは餌は要らないから……」


「――あ?」


 突然珍妙な顔をされて、はにかんでいた美郷は困惑した。


「えっ、何?」


「ソレ、蛇の名前か?」


 怜路が反応したのは「白太さん」という名らしい。


「そう……だけど」


 戸惑いながら頷けば、大変残念そうに怜路が眉をハの字にする。


「なんっっだその、クソセンスのねー名前は!!」


 あちゃー、と頭を抱えられた。予想外のイチャモンである。


「なんだよ、別に変じゃないだろ!」


「イヤ変だろ! もうちょい何かなかったんか! しかも何でサン付けだ!」


 白い大蛇である。なにも変ではないはずだ。美郷は身を乗り出して反論した。


「じゃあ何だったらいいんだよ、銀嶺とか虹白とか中二臭いの付けろって?」


「それでもまーだシロタよりマシだわ。シロタはねーよシロタは」


 乳酸菌か、とまで散々に言われて、美郷は憮然と黙り込んだ。たしかに、特別に望んで手に入れた使役ではない。勢い、ポチとかクロとか、そんなノリで取りあえずの呼び名をつけたのは認める。


 むくれる美郷を眺めた怜路が、やれやれと大きく溜息を吐いて立ち上がった。


「まー何でもいいけどな。んじゃその白太さんによろしく、俺ァ撤収するぜ」


 頭を掻きまわした右手をひらりと振って、猫背のがに股歩きで怜路が去って行く。不満の残る表情でそれを見送った美郷は、空の食器を前にぽつりと零した。


「べつにいいじゃん。なあ、白太さん」


 体内の気配は、同意するようにもぞりと動いた。






 翌日。特自災害係に、市内の人形館から相談が舞い込んだ。


 巴市に二つある旧市街のひとつ「巴町」にある、この町出身の有名人形作家の記念館だ。そこに先日、個人蒐集家から大量の人形が寄贈されたという。東西を問わず価値の高い骨董品が多く、それだけで特別展を開くに十分だった。問題は、中に問題児が混じっていたことだ。


「こ、これだけあると迫力ですね……」


 寄贈された人形が並べられた部屋に入った美郷は、思わず頬を引きつらせて呟いた。一緒に入ってきた辻本がしみじみと同意する。


「そうじゃねぇ……僕はこういうものの供養は普段せんけど、定番言うたら定番じゃもんね」


 節句人形、市松人形にビスクドールやマリオネット。いかにも目が動いたり、髪が伸びたりしそうな人形が所狭しと並べられていた。人形はヒトガタ、ヒトの形をした「容れ物」だ。節句人形のように人間の形代かたしろとして身代わりを担うこともあり、そのものが意識を持ってしまうことも、何かが入ってしまうことも珍しくない。


 二人を案内してきた人形館の職員が、申し訳なさそうに肩を丸めた。


「この中で、どれが悪さをしとるんかまでは分からんのです」


「宮澤君、わかる?」


 ハーフリムの眼鏡の向こうで、ちらりと辻本が目配せした。


 夜に館内を荒らすものがいるという。最初は侵入者かと思ったが、どうにも外部から侵入した形跡がないと警察が匙を投げて、特自災害にお鉢が回ってきた。


「……いえ、気配が多すぎて……」


 辻本の問いかけに美郷は首を振った。木を隠すには森なのと同様、これだけ「中身」のある人形が多く集まっていると、悪いモノの気配も紛れて読み取れない。宮澤君でも分からんかー、と辻本が残念そうに天を仰いだ。


「取りあえず、他の人形には申し訳ないんじゃけど、この部屋全体を封じる結界を作ろうか。それから、一体一体見ていくしかないじゃろうね。ちょっとしんどそうじゃけど、宮澤君大丈夫?」


 話が来た当初、美郷を連れて来ることを辻本は躊躇っていた。体調が芳しくない状態で現場は危険だと、係長の芳田に相談したのだ。芳田は同行を望む美郷の顔色と脈を確認し、幾つか質問をしてGOサインを出した。


『まあ、本人が大丈夫じゃ言うとってじゃしお願いしましょう。私はこれから会議ですからな』


 係の職員の半数は、他部署から異動してきた一般事務職である。美郷や辻本のような専門職は十名に満たない。そしてその中で、芳田に次いで「オールマイティ」な術者は、実は美郷であった。一方辻本は専門員ではあるものの、所属宗派の関係もあり使える「呪術」はほとんどない。


 辻本と組んで現場に出る人間は芳田や美郷のような、雑多な呪術に長けた人間の方が良いのだ。それもあって、美郷はずっと辻本と組んでいる。辻本の深い知識や洞察力、経験値と、美郷の呪術レパートリーを両方活かす形だ。芳田が係長に昇任するまでは、芳田と辻本が組んでいたらしい。


「大丈夫です、ありがとうございます」


 何か不審に思われたのではないかと不安がよぎる。恐縮しきりに頷いて、美郷はちらりと辻本の表情を窺った。いつもと変わらぬ、穏やかな笑みの辻本と視線が合う。


「それなら、とりあえず手分けしてチェックしていこうか。……これだけあると、昼までには終わらんじゃろうねぇ……」






 結局、辻本の予想通り到底午前中では作業が終わらず、昼は記念館近くの定食屋に入った。実は元々今日は、辻本に「外で昼を食べよう」と誘われていたので、昼の用意はしていない。朝に誘われた時から緊張していた美郷は、おっかなびっくり暖簾をくぐる。


 十中八九、昼食代は全て辻本持ちだ。その状況で欲望のまま、食べたいものを頼む度胸のない美郷は、メニュー表を大して見ずに「日替わり定食」を選んだ。対照的にのんびりメニューをめくった辻本が、カツ丼を選んで店員を呼ぶ。


 お冷やを片手に料理を待つ間、美郷はそわそわと定食屋のテレビや傍らのメニュー表に目を移していた。市役所に就職してもう少しで半年だが、大勢の飲み会はともかく、こうして個人的に食事に誘われたのは初めてだ。怜路の言ではないが最近多少いじけていた自覚はあるので、何の話をされるのだろうと気が気ではない。


「カツ丼なんか頼んどいて言うのもアレじゃけど、早よもうちょっと涼しくなるといいねえ」


 軽くお冷やをすすりながらのほほんと辻本が喋る。


「ですね……僕も、暑いのあんまり得意じゃないです」


 飼っている白蛇が陰の気を好むためか、美郷はここ数年めっきり夏が駄目になった。まさか丸々そんな話をするわけにも行かず、慎重に言葉を選ぶ。おかげで広がらない話題に内心冷や汗をかいた。


 かちんこちんの美郷を気にする風もなく、辻本はテレビの流す呑気な昼番組を見ている。


「僕も嫌なんよ、市役所も暑いけど寺の方の仕事だと、法衣がかなわんのよね。いくら夏用言うても袈裟まで着たらねえ。講堂にクーラーはないし」


 ああ、でしょうね、と美郷はうなずく。夏用の法衣もあるが、袈裟まで着れば結構な厚さになる。


「そういえば、辻本さんのお寺ってこの近くなんですっけ」


 辻本の家は、巴町にある真宗派の寺だ。


「そうそう、もう一本道を奥に入ってすぐの場所にあるよ。ここもたまに夜飲みに来たりもするし」


 辻本は酒も結構好きだ。妻帯、肉食、飲酒と、日常生活において戒律による制約は、ほとんどないのが辻本の宗派だった。


 弾まない会話をぼんやりしている間に、料理が運ばれてきた。辻本は美郷にとって、とても指導が丁寧で有り難い先輩だ。昨日のように、美郷が困っている時にさりげなく助け船を渡してくれることも多い。そして、仕事への真摯な姿勢を尊敬していた。


 いただきます、と手を合わせて、それぞれ料理を口に運ぶ。


(尊敬してるぶんだけ、失望されるのも怖い。そんな人じゃないって思うけど……)


 実家住まいで妻子があり、公務員という安定職に就いている。係長の芳田から直接仕事を教わっている辻本は、幹部候補とも目されていた。休日は仕事のほかに楽しむ趣味もあり、しっかり育メンをしているエピソードにも事欠かない。美郷から見た辻本は「完璧」だ。


 だがどれだけ憧れたところで、美郷が同じ人生を歩めるとは思えない。「すごいよなぁ、羨ましいなあ」と思いながら定食の唐揚げを口に運ぶ。


 昨日、怜路に多少鬱屈を聞いてもらったおかげか、ありがたいことに食欲は戻っていた。想像よりボリュームのあった定食を、なんとか全て腹に収める。沈黙を気にした様子のない辻本に、内心ほっと息を吐いた。


 カツ丼を食べ終わった辻本が、全く変わらぬのほほんとした様子で口を開いた。


「…………そういえば、宮澤君は出雲出身なんじゃってね」


 ぐっ、と思わず噎せかける。お新香の最後の欠片が喉をひっかいた。


「けほっ、な、どうして……」


「うん、昨日係長から聞いたんよ」


 ああ、やはり係長は知っていたのか。疑われたな、と思った場面を思い出し、美郷は諦めの溜息を吐く。もともと隠そうというのが虫の良すぎる話なのは、頭では分かっていた。


「それは、ええと……全部ですか?」


「多分全部じゃろうね」


 恐る恐る確認する美郷に、あっさりと辻本はうなずいた。今更、何をどう、どこまでと聞けるような雰囲気でもない。


「で、まあ、係長とも話したんじゃけどね」


 少しだけ姿勢を改めて、辻本が真っ直ぐ美郷を見た。どきり、とひとつ心臓が跳ねる。


「体質に特別事情があるなら、それは先に教えといて欲しいと思って。知っとったら配慮出来ることもあるし、把握不足で事故に繋がったらそれが一番まずいけえね」


 仕事を教える先輩の顔で、辻本が静かに言った。


「すみません……」


 文字通り身を縮めて美郷は頭を下げた。事故を起こさないための情報共有。それは美郷の私情とは無関係に、業務上必要なことだ。むしろこんな場所で食事のついでにされる話ではなく、係長席に呼ばれて叱られて然るべき事柄である。


 思い至って青くなる美郷に苦笑して、辻本がひとつお冷やをすする。


 出て行く客が開けた自動ドアから、夏を惜しむミンミンゼミの合唱が入り込んできた。


「うん、分かってくれるならええんよ。昨日も言うたけど、体調管理も責務じゃけえね。僕らの仕事は危ないことも多いし」


 はい、と美郷は下を向く。辻本の言葉は柔らかで、係長の芳田ともども美郷の事情を汲んでくれているのが伝わる。それだけに、恥ずかしくて言葉も出なかった。


 定食屋に流れるテレビ番組がニュースに変わり、休憩時間があと十分程度だと知らせていた。周囲の客は三々五々に会計を済ませて出て行く。自動ドアが開閉するたび、チリンチリンと鉄風鈴が鳴る。


「僕みたいな地元枠と違って、宮澤君は凄い期待されて市役所にはいっとるんじゃけえ。しっかりしんさい」


 地元枠という単語の自虐的な響きに、美郷は顔を上げた。何でもないことのように笑って辻本が続ける。


「僕は係長や宮澤君みたいに『呪術』は使えんし、専門員として出来ることなんてほとんどないじゃろ? ただでさえ専門員の数は少ないのに、僕みたいな使い勝手の悪いのがおったら、そう言われてもしょうがないんよ」


 辻本は浄土真宗の僧侶だが、浄土真宗という宗派は基本的に現世利益を求めない。それゆえ、僧侶の辻本も「呪術」を修得していないのだ。


「でも、辻本さんは……」


 代わりに、並外れた「浄化」能力を持つ。美郷ら同様「視える」し、専門知識の深さや状況を読む洞察力で、係内でも一目置かれている。


「うん、僕には僕の出来ることがあるし、必要とされとるからまだ市役所におる。けど、宮澤君のような能力はないよ。僕らには宮澤君の力が必要じゃし、じゃけえこそ、しんどいことはしんどい、拙いことは拙いと教えてくれんと、僕らも必要な戦力を失うことになりかねん」


 辻本は、独特の柔らかい声質をしている。ゆっくり諭すように紡ぐ言葉は、不思議なくらい抵抗なく心に沁みわたってきた。彼の並外れた浄化能力のゆえんだ。


「僕らは、市役所に就職する前の宮澤君のことはよう知らんし、宮澤君が話したくないことを聞こうとも思わん。応募したんじゃけえ宮澤君も知っとるよね、市役所に就職するのに戸籍やら何やらは要らない。君は、君の学歴と実力と熱意で、巴市に採用されたんよ。君は訊かれたことに対して何の嘘もついとらんし、僕らは君が採用試験で見せてくれたもので、巴市に君が必要じゃと判断した。それ以外のことに、引け目を持つ必要はないけえ」


 他者から大切にしてもらうには、大なり小なり相手にとって「必要な存在」「大切にするメリットのある相手」でなければならない。必要とされる種類は色々あるだろう。怜路のように相互扶助だったり、精神的なものだったり、経済的なものだったり様々だ。その中で辻本は、宮澤美郷の「能力」が必要なのだと語る。


 言い方、捉え方次第では冷たい物言いだ。美郷自身や、その来歴に興味がないと言われるのは、場面によれば傷付くことかもしれない。だが、今、辻本の言葉は美郷にとって「救い」だった。


 ただ、今ここに居る「宮澤美郷」として、全力を出せればそれでよい。


 再び俯いて、こみ上げる物を堪える美郷の肩を、ぽんと優しく辻本が叩く。


「それじゃあ、僕はお会計してくるけえ。先に出とってもええよ」


 そう言って立ち上がる辻本に、小さく美郷は頷いた。






 手前と奥、ずらりと並べられた人形を両端からひとつずつチェックしていた美郷と辻本は、丁度真ん中どころで顔を合わせた。お互いに、困った顔を見合わせる。


「宮澤君、何かおった?」


「いえ。辻本さんはどうでした?」


 こっちも駄目じゃね、と辻本が首を振る。


「逃げられた……わけじゃないじゃろうし。元からこの中にはおらんかったんか……」


「けど、目録の人形は全部ありましたよね」


 チェックを入れてきた手元の目録を睨み、美郷も口を曲げた。人形たちの受け入れ時に、きっちり確認された目録だ。これ以上のものが紛れ込んでいるとも思えない。


「このまま、ダブルチェックしようか」


 困ったねえと眉を下げた辻本が提案する。


「僕の方が感度が低いし、見落としとるかもしれんしね」


 しかし、ひとつひとつ人形をチェックして行く作業は思った以上に時間がかかるし消耗する。美郷は安物の腕時計に視線を落とした。


「うーん、結構時間かかっちゃいますよね」


 そうなんよねえ、と辻本が天を仰いだ。


「僕がまとめて浄化する……いうんは、最後の手段にしたいし。見つけ出せんなら、なんとか誘い出したりできんかねえ。夜張り込むのは流石にしんどいじゃろうけど」


 辻本の力ならば、ここにある人形全てを一気に浄化してしまうことも可能だ。しかし「中身」の空っぽになった人形は、途端に劣化が早くなる。そしてまた、別の厄介なモノが入り込まないように個別に処置が必要になるだろう。


 もう、実際に人形が暴れ出す夜を待ってみるしかないか。しかし、時間外の張り込みは美郷もやりたくない。少しためらって、美郷は「あの、」と小さく手を挙げた。辻本を誘導し、人形を閉じこめている部屋から出る。ぱたりと観音開きの扉を閉めて、人形たちの視線を避けて美郷は口を開いた。


「僕たちが見張るのはきついですし、向こうも警戒するかもしれません。それで――一晩ここにおれの式を付けておけば、もう少し楽に捕縛できるんじゃないかなって」


 いつも引っ詰めて括っている、長い髪を掴んで美郷は言った。辻本が目を丸くする。


「式神……? そうか、鳴神の」


「はい。おれも一応使えるんで」


 鳴神家は龍神の裔といわれる。その血と力を、濃く受け継いだ者だけが使える秘術があった。己の髪を様々な形に結んで式神を作り、自由に操る術だ。市役所の採用時には別の理由でこの髪型を許してもらったが、長い髪が最も活躍するのは鳴神の秘術である。


「でも、そしたら一晩、宮澤君はしんどいんじゃないん?」


「いえ、作って置いておけば、勝手に動いてくれるものなので」


 ははあ、凄い。と辻本が感心する。


 呪術者が使う式神術、使役術は様々にある。それらは使役する相手が神仏の遣いにしろ悪鬼妖魔の類にしろ、基本的には呼び寄せたモノを術者が操る。だが鳴神の秘術で作る式神は、術者の小さな「分身」だった。


 鳴神の秘術で作る式神は術者の集中を必要としない、非常に特殊で便利なものだ。血族限定の秘術というだけあって、到底普通の修行では会得できない、どちらかと言えば妖術仙術の類に近いものだ。


 秘術、と言って連想されるような派手派手しいものではないかもしれない。だがとにかく「便利」、この一言に尽きる。


「すみません、その。今までずっと黙ってて……」


 美郷は小さく頭を下げる。これまでも、有効に使える場面はあったかもしれない。特別に名乗り出る必要性を感じる機会もなかったが、使える手札として芳田が把握していれば、的確に運用してくれたはずだ。ただ、今まで「人並み」に紛れることばかり考えていた美郷は、この「自分しか持たない特殊なもの」を人前に出すことができなかった。


 こんな見た目でこんな仕事を選んでおいて、半端でおかしな話だ。


 だが辻本に諭されたように、今の「宮澤美郷」として全力を尽くすことは、そんな自分の特殊性も全てさらけ出すということだ。伏せた手札を持ったままでいるのは不誠実だと思い直した。


「ええんよ、べつに。これからバンバン役に立って貰えればええんじゃけえ。定年は六十……何歳じゃっけ今。まああと四十年くらいはあるんじゃけえ、その間に目いっぱい活躍してもらえれば」


 最初の数か月など誤差の範囲、とにっこり爽やかに笑われて、はははと美郷は間抜けな笑いを返した。四十年とは、今の美郷には実感がわかないくらい長い年月だ。


(……辻本さんが係長になったらおれ、もしかしてかなりこき使われるんじゃ……)


 目の前では「やー、凄いねえ宮澤君。流石じゃね」と辻本が呑気に笑っている。脳裏を掠めた不吉な予感を振り払って、美郷は結わえている黒髪を解いた。






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(辻本さんの若かりし頃の外伝もあるので、よろしければそちらもお願いします)

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