蛇喰



 定時のチャイムが館内に響くと特自災害の事務室は、職員たちが仕事を仕舞う音と和やかな空気で満たされる。


 ここに勤務し十五年となる男性職員辻本は、束の間の平穏を味わっていた。盂蘭盆が過ぎて夏の祭祀が落ち着き、秋の収穫祭準備が始まるまでの貴重な期間である。ちらほらと鞄を抱えた職員が頭を下げて帰って行く中、一般事務職員の中年女性が声を上げた。


「ねえ誰か、課長のお土産持って帰りんさいや。期限も近いし、いつまでぇもあったら課長が気を悪うしてよ」


 彼女が指差す先には、課長の出張土産の饅頭があった。専門職員がどうしても男性に偏るためか、特自災害には女性職員が少ない。そればかりが原因でもないだろうが、置かれて一週間は経とうかという箱の中身は、半分も減っていなかった。


 特自災害係の上に立つのは危機管理課長だが、防犯防災係と特殊自然係の一課二係である危機管理課の課長席は、この部屋にはない。特殊自然災害、つまり怪異の類に関してド素人である課長は、係長の芳田に判断を全て丸投げして滅多にここを訪れない人物だった。


「宮澤くん! 持って帰りんさい!!」


 頭を下げて帰ろうとしていた新人君が、女性職員に捕まる。鋭い命令に肩を揺らした青年がそろりと振り返った。


「えっ、いやあの、僕は……」


 いかにも断るのが苦手そうな気弱な口調で、新人君が辞退を試みる。まあ、それで逃してもらえるはずもないよなあ、と辻本はのんびり様子を見ていた。案の定、問答無用とばかりに女性職員は新人君――宮澤美郷の手のひらに饅頭を積み上げる。


「いやもうほんとに……おれ、甘い物あんまり…………」


 心底困っている様子の宮澤を気にも留めず、女性職員は大きな声で笑った。


「なにを言いよるんね、アンタぁそがな細い体ァして、一人暮らしでちゃんと食べよーるん!? ちぃと痩せたじゃろう。甘いもんでも食うて、もちぃと太りんちゃい!」


 実際、宮澤は夏バテでもしたのか、もとより細身の身体が更に痩せたように見える。しかし、彼の配属以来ずっと直に仕事を教えてきた辻本は、宮澤が本当に甘いものを食べられないのも知っていた。さすがに気の毒なので助け舟を出すことにする。


「朝賀さん、半分は僕が持って帰るんで、それくらいにしてあげて下さい」


 宮澤の隣に立って手を差し出す。顔を上げた宮澤が、救世主を拝む表情で辻本を見た。辻本の場合、家に帰れば男児が三人待っている。餡子嫌いはいなかったはずなので、よいおやつになるだろう。


「それなら辻本さんも、子供さんのおやつにしんさい」


 宮澤の手の上に盛られていた小ぶりな饅頭が、半分辻本の手に移動する。ありがとうございます、とひとつ笑って、辻本は饅頭を鞄に放り込んだ。


「辻本さん、ありがとうございます」


 饅頭の嵐が去った後、宮澤が小さく言って頭を下げた。


「いやいや、僕も欲しかっただけじゃけぇ」


 直接指導する辻本にとって、宮澤は可愛い後輩である。辻本自身、すでに三十も半ばを越えているが、部署の中ではようやくこれで下から三番目だ。年下は今まで一般事務職員だけで、専門職員としては長らく「一番下」だった辻本にとって、素直で真面目で飲み込みの早い後輩は目を掛けてやりたい存在だった。


「けど、ほんまに夏バテが酷いようなら無理はしんさんなよ。今はちょっと楽な時期じゃし、年休なり、いけんようなら病休なり取ってしっかり休みんさい」


 田舎の市役所は、決して高給ではないし仕事も楽ではないが、休暇制度だけは法律に則り充実している。まず行政の制度がブラックでは民間を指導出来ない、という理屈と、職員である前に一人の市民として、市民活動に参加することを奨励されているからだ。学校行事や地域行事への参加は暗黙の義務であるため、比較的気軽に年次有給休暇を申請できる雰囲気があった。


 ちなみに普通の年次有給休暇と特別休暇である病気休暇は別物で、病気休暇を取った場合いわゆる「有給日数」は減らない。仮病が許されるわけはないが、本当に体調が悪いなら、適切に休んで整えるのも仕事のうちだ。


「ありがとうございます。そんな大したことじゃないんで……それじゃ、お疲れ様でした」


 ぺこりと頭を下げて宮澤が事務室を出る。言葉とは裏腹の、重い足取りに辻本は眉根を寄せた。振り向けば事務室に残るのは辻本と係長の芳田だけで、こちらを見ていた芳田とばっちり目が合った。


「――どうもいけませんなァ」


 係長席から様子を見ていたらしい芳田が、背もたれに体を預けて嘆いた。


「なんか、無理をしとってですよね」


 辻本もそれに同意する。宮澤は、辻本以来久々に入った「専門職員」だ。それも、浄土真宗系の僧侶で限られた術しか使えない辻本と違い、様々な系統の呪術を既に習得しているエリートだった。潰れてもらっては困る人材なのだ。


「係長は、何か原因を知っとってですか?」


「いや……単なる夏バテにしちゃあ、ちぃとしんどげなですが。辻本君はなんぞ聞いとってんなァですか」


「いえ……。けど、ちょっと前に、民俗資料館の手伝いに行ってもらった時に熱中症になったとかで、思えばそれからあんまり元気がないですねぇ」


 先日巴市内にある県立の民俗資料館が、大量の呪具・呪術文献を寄贈された。それらの分類や封じの処置のために、数日間宮澤に出向してもらったのだ。


「ははあ。あん時ですか……言われてみりゃあそうかもしれませんなァ」


 思い当たる節があったのだろう。芳田は何度か頷きながら顎をさすった。


「――ありゃァ、単なる熱中症じゃあなかったんかもしれませんな」


 思案げに腕を組んだ芳田に、辻本は首を傾げる。


「というと?」


「辻本君は、宮澤君の出身地を知っとってですか」


「広島市内の、安佐北の方と聞いたことがありますが……高校は北広島で、寮に入っとっちゃったんでしょう? 大学はたしか三重の――」


 断片的に聞いてきた情報を、手繰り寄せながら連ねる辻本に、顔を上げた芳田が苦笑した。


「ははあ、なるほど。上手いことを言うとってですな」


「……どういう意味です?」


 更に困惑を深めた辻本に、芳田が「ちょっと時間をええですか」と自分の隣の椅子を引いた。頷いた辻本は勧められた椅子に座る。事務机に両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せた芳田が、遠く視線を投げて話を始めた。


「私もはじめは知らんかったんですが……辻本君には、これからも宮澤君を指導してもらうことになりましょうし、多少知っとっちゃった方がエエでしょう」


 芳田の視線を追って窓の外を見遣る。まだ定時に日が暮れているような時期ではないが、秋の彼岸に向けて日ごとに夕暮れは早くなっている。外に出れば夏の終わりの蝉たちが、最後の歌を響かせているだろう。


 芳田の改まった口ぶりに、辻本は居住まいを正した。椅子のきしむ音で身じろぎに気付いたらしい芳田が、ふう、と苦笑気味に息を吐いて辻本を見遣る。


「辻本君は出雲の鳴神家の、ご長男の話を聞いたことがあってですか」


「――ああ、何年か前の……『蛇喰い』でしたっけ……」


 身内から蠱毒――呪術で作られた妖魔の蛇を食わされた少年の噂だ。彼は蛇を手懐けて送り返し、逆に相手を生死の境まで追い込んだという。


 数年前、この業界を駆け巡ったスキャンダルだ。中国地方を代表する名門であり、全国的にも大きな力を持つ神道系の一門、鳴神家。その派手なお家騒動には、野次馬根性丸出しの派手な名前がついた。業界ゴシップなど興味のない辻本の耳にすら入ってきたくだんの話題は、名前共々思い出して愉快なものではない。


『鳴神の蛇喰い』


 被害者のはずの彼に付いた、センセーショナルな呼び名を口にするのは憚られる。知らず渋い口調になった辻本に、芳田がゆっくり頷いた。


「こう言うちゃあ失礼なんですが、まさか外で暮らしとってとは思いませんでしたけえ、私もびっくりしたんですがな、」


 芳田の言わんとすることは、辻本にも分かった。


 その後流れた彼の消息は「不明」だった。だが鳴神は地元で絶大な権力を誇り、代議士が頭を下げるような家柄である。簡単に家出息子を取り逃がしたりはしない。「消息不明」とはつまり、「二度と世間の表舞台に顔を出せない状態」という意味だと思っていた。――その体が、息をしているにしろ、していないにしろ。


「たしか、蠱毒の蛇を……」


「まあ、喰うた言うんがやっぱり一番適切なんでしょうなぁ。詳しゅうはそれこそ本人にでも聞いてみんと分かりませんが、どうも降魔調伏の術が身に応えるらしゅうて」


 以前、宮澤の背後に向けて打ったはずの破魔系の術に、彼が反応したことがあるらしい。味方にダメージを与える類の術ではなかったため、芳田も驚いて宮澤のことを少々調べたのだそうだ。


「やっぱりじゃあ、体の中の蛇が?」


「ゆうことになりましょうが――まあ、別にこの業界に聖も魔もありゃあしませんからな。『あちら側』と『こちら側』の境に立つんが私らのような呪術者です。より『あちら側』に近い方が、術者としては上とも言える。業務に支障さえ無けらにゃァ、どうちゅうことは無ァんですが……」


 この国の神と魔に、明確な区別はない。当時の風潮も、忌避よりは好奇が勝っていた。


 弱冠十八歳で鳴神一門の手練れの呪詛を返し、妖魔の蛇を喰って飼い慣らせるのはどんな人物なのか。呪詛を返された相手は、死んだという話こそ聞かないが以降ぱたりと人の噂に上らなくなった。相当苛烈な報復を受けたのだろう。当主が外で作った子だ、相手はこの世界に縁のない女性らしい。石見の名門から嫁いだ正妻の子と、どちらが優秀なのか――みな興味津々だったように思う。消息不明の顛末に、惜しむ声も多かったはずだ。


「しかし……なんていうか、人は見かけによりませんねぇ」


 温和で、育ちが良さそうな雰囲気の青年である。


「そういう風にゃあ見えませんからなァ」


 自ら進んで誰かを呪殺したという話ではない。その過去を今更本人に問いただす必要性も感じないが、問題は業務中にトラブルが起きないかである。何かのはずみで彼本人が「祓われて」しまうと拙いのがひとつ、彼の蛇が害を為さないかがひとつ。


「今のところ見とって、何か暴走するような気配も無ァですし、まあちょっと本人に聞くタイミングは取れとらんかったんですが。なんぞ具合を悪うしとってなら、そっち方面のことも万が一あろうか思いましてな」


 芳田の言葉に辻本も頷く。


「けど……どう切り出せば一番ええですかねぇ……」


 業務時間中に呼び出せば、相当身構えられてしまうだろう。


「まあ、宮澤君も車ですし『飲ミュニケ―ション』いうワケにゃあいかんでしょうが、終業後に食べながらがええかもしれませんな」


「しかし何と言いますか、採用の時には誰も気付かんかったんですよね?」


「宮澤君が戸籍上『鳴神』だったことは無ァようですけえな。課長より上のもんは誰も、この業界のこたァ知りゃあしませんし。私も実技試験の時は見さしてもらいましたが、出雲の特徴が出るような術は見んかったですしなあ」


 宮澤は三重にある神職養成課程のある大学を出て、その学歴を主にアピールして巴市役所に入っている。本当に、『鳴神美郷』としての過去は全て捨てて巴市にやって来たのだろう。


「まあ何にしても今は、ウチの係の次期エースですけえな。明日にでもちょっと声をかけてみましょう」


 言って芳田が立ち上がる頃には、窓の外は夕闇に沈んでいた。






「おーい、美郷ォ」


 薄暮の縁側にて、怜路はたそがれる背中に声を掛けた。


「んー……?」


 気のないいらえが返る。暮れなずむ空にツクツクボウシの音が響く晩夏、部屋の明かりもつけず中庭を眺める下宿人に、怜路は軽く溜息を吐いた。


「飯食ったんか」


「まだ」


「まーたバテるぞ。何かねーのかよ」


「もうだいぶヤバい」


 ごろり、と浴衣姿の背中が板の間に転がった。一つに括られた長い黒髪が、さらりと床に広がる。


「…………夏、苦手」


 ぼそりといじけた声が呟いた。先日のアレがまだ響いているのか。そろそろひと月近く経とうかというのに面倒な男である。


 ぐしゃぐしゃと金髪頭を掻きまわした怜路の視線の先で、美郷がつい、と宙に手を伸ばした。気配を感じて薄色のサングラスをずらすと、美郷の指先へ何かが止まって見える。普通、人の目には視えない小鳥だった。夜雀だ。


 重さのない雀は、ゆらゆらと輪郭を溶かして大きな蛾に変わる。指先を離れ、美郷の袂に潜り込もうとするそれを、怜路は刀印で打ち払った。


「おい、何やってんだ」


 多少の怒気を込めて低く言った。役所勤務の陰陽師ともあろう者が、身体に妖の侵入を許してどうするのか。


 んー、と曖昧に答える美郷はまるで抜け殻だ。


(……だいぶいじけてやがんなァ)


 知らずきつく眉根を寄せて、怜路は美郷へ近づいた。


 先日美郷は、体内で飼っている妖魔の蛇に逃げられた。正確に言えばどうやら、蛇が美郷から弾き飛ばされたらしい。仕事の関係で、降魔調伏の術式に触れてしまったのが原因だという。


 以来この公務員どのは、夏バテを引きずるようにグダグダと夜をすごしている。本人が大して語ろうともしないため、何がそんなにショックだったのかは分からない。だが事件の時、ペットボトルが散乱し惨憺たる有様の部屋に驚いた怜路は、その後毎日とはいかないが美郷の生存確認をしに来ていた。


 あの時美郷は、毎日一ケース近く二リットルのボトルを空にしていたらしい。熱さにやられて干からびかけていたのは美郷ではなく、美郷から弾き出されて炎天下を彷徨っていた蛇の方だ。普段怜路は美郷が蛇を「飼っている」と表現するが、実際にはもっと深い繋がり――半ば同化したような存在なのだろう。


 ぐったりと横たわる美郷の首筋が、夕闇に白く浮いて見える。寝転んだ拍子に着崩れた寝間着は合わせが割れて、おくれ毛の絡む項から肩、背中まで露出していた。その肩甲骨の上に、淡く硬質な光が浮いている。白蛇の鱗だ。


「別に、多分コイツの餌になるだけだよ」


 思い出したように、気だるげな声が答えた。コイツとは、美郷の身中を這う妖蛇のことだ。怜路も以前、眠る美郷から抜け出した白蛇と遭遇したことがある。その時のことを思い出した怜路の背筋に、ぞっと何かが走った。恐怖ばかりではない感覚に、怜路はしばし身を固める。


(闇が似合う、ねェ……そういう評価をお望みじゃあねェんだろうが……)


 白い、美しい蛇だった。


 足元を凍らすような冷気を纏い、悠然と怜路の前を通り過ぎた大蛇。


 噂に聞いた『鳴神の蛇喰い』が取り込んだのは、せいぜい術者の怨念を込めたチンケな蠱だったはずだが、怜路が見たそれはもっと強く美しい「妖魔」だ。


 一瞬詰めた息をゆっくり吐き出し、怜路は美郷の傍らにしゃがみ込んだ。


「お前よォ、なーにそんなに拗ねてんのか知らねーけど。投げやりになってんじゃねーよ」


 剥き出しの肩を掴んでぐいと引くと、仰向けに転がされた美郷が怜路を見上げた。直接触れる肌は体温を失くしたように冷たい。怜路とは対照的に色の濃い、漆黒に見える双眸がぼんやりと視線を彷徨わせている。


 この眼は、闇を視る眼だ。人の世には無いものを視、それらと心を交すことに長けている。


 ぼやけた焦点を怜路に合わせ、少し眉根を寄せた美郷はしかし何も答えなかった。昼間はカラ元気で乗り切っている。以前と全く変わらないアルカイックスマイルで愛想良く周囲と言葉を交し、新米らしくバタバタと仕事に励んでいるようだ。


(俺はわりあい、気を許してもらってる方だわな。多分)


 これも巡り合わせだろうか。お互い家族もなく、付き合いの長い知人もいない場所で生活している同年代の同業者。下宿に誘った時、そう親しくなることを期待したつもりもなかったが、隣に暮らしてみれば居心地の良い相手だ。


「おいこら、生きてっか? なんか言え」


 美郷のすぐ両脇に腕を突き、怜路は真上から端正な顔を覗き込んだ。


 中性的な白いおもてと細い身体。額にかかる真っ直ぐな黒髪は闇を思わせ、整った容姿は人間味を遠ざける。宮澤美郷は闇の匂いがとても似合う男だ。そして実際、闇に愛されやすい人種でもある。本人が「こちら側」にしがみつく意志を失えば、いとも簡単に闇に呑まれてしまうだろう。


「――怜路はさぁ、イヤになったことないの?」


 のろりと伸ばされた白い指が、怜路のサングラスのブリッジをつまんだ。そのままサングラスを奪われ、ほんの少しだけ視界が明るくなる。どういう意味だ、と眇めた視線の先で、美郷の肌蹴た胸元を蛇が這った。


 白い肌にいくつも浮かぶ朱い筋が、蛇身を描いて流れる。筆で描かれた画のように、あるいは線描された白粉彫のように。朱い線だけで描かれた蛇が皮膚の中を滑ってゆく。以前はもう少し隠れていたはずだ。美郷の心境の変化だろうか。


「何が」


「その眼の色とか、視えるものとか」


 緑に銀の混じる特異な虹彩に、望みもしないのに常時「視え」過ぎる視界。一見して分かるほど他人と違い、能力者としてすら異端に近いそれを疎んじたことはないのか。


「あんだろうな、きっと」


 他人事のように答えれば、整い過ぎて人形のようだった顔が少し歪む。目顔で意味を問われ、怜路は口元だけで笑った。


「覚えてねーからな。コイツが『異端』なくらい、『普通』の中で暮らしてた頃のことなんてよ」


 怜路には幼い頃の記憶がない。家族構成も住んでいた場所の景色も、もちろん学校生活も何も覚えていない。怜路の知る「狩野怜路」の人生は、「天狗」を名乗る養い親に拾われたところから始まっていた。その後の生活で、学校というものに通った経験は一度もない。


「それでも人間、生きてられるもんだぜ?」


 含みを込めて笑ってやると、美郷が物言いたげに眉根を寄せた。りりりりり、と一際大きく、間近でコオロギが鳴く。蛇が帰ってきたため、中庭にたむろする物の怪は減っていた。


 美郷自身は格別物の怪を追い払うことはせず部屋に結界を張っているだけという。しかしこの男が来て以来、狩野家の敷地に集まる物の怪は格段に減った。美郷の飼っている蛇の気配を、同じ闇の住人たちはより敏感に感じるのだろう。特に大きく対処が面倒そうなものほど、近寄らなくなったように思う。


 初めて会った時に、美郷が何か「飼っている」ことは分かった。


 サングラスをずらして初めて視えたソレは昼間は巧妙に隠れている上、どうやら美郷自身も封じの符で隠しているらしい。天狗眼を持たなければ、怜路も気づきはしなかっただろう。


 気付けたこと――宮澤美郷という人物との出会いは、怜路にとって幸運だった。同業者や気安い友人として貴重というのもある。だがそれ以上に。


(大げさに言やァ、命の恩人だからな)


 美郷はそれを知らないが、当人に黙って恩を受けた身としては、美郷には巴で居心地よい場所を見つけて欲しいと勝手に思う。


「俺みてーなのでもそれなりに、気楽に過ごせる居場所くれェあった。お前だってそう、悲観的になるもんじゃねーよ」


 なまじっか、公務員などという安定職を選んだゆえに悩む部分もあるだろう。だが己の腕一本で稼ぐヤクザな道よりも、美郷らしい場所でもある。


 宥める言葉に、美郷は答えない。


「まあ取りあえず、なんか食えよ。人生に悩むのは腹が膨れてからでも遅かねーぜ?」


 いつの間にかとっぷりと暮れた宵闇の中、美郷からサングラスを奪い返して装着すれば、世界はより暗く輪郭をぼかす。


「作ってやるから大人しく食え。代金は家賃に上乗せな」


 部屋に戻って明かりを点け、洋間の冷蔵庫を勝手に漁りながら言えば、背後で不満そうな声が返事をした。



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