理不尽な選択肢だったとはいえ、選んだのは自分だ。


 蛇に喰い殺されて終わるのか。蛇を喰ってでも生きるのか。


 生きることを選んだことに、悔いはない。


 それでも、もしあんなことがなければ。


『もし、お前がいなければ……おれはもう少し、楽に生きられたかな』


 詮無いことと分かっていて、つい漏らした言葉は「呪」となったのかもしれない。






「熱ッ!!」


 ばちん、と派手な音が立って、目の前の青年が飛びのいた。


「すみません! 大丈夫ですか!?」


 藤井香菜は慌てて彼を覗き込む。半袖のポロシャツから出た前腕を押さえて蹲った青年が、痛みをこらえた声で「はい、」と頷く。明らかに大丈夫ではないが、何が起きたのか藤井にも分からない。ストッキングの膝を床につき、藤井は青年へぶちまけてしまった和綴じの古書を拾いながら、相手の様子を窺い見た。


 音からして、静電気だろうか。拾う本の中に、固いものや鋭いものは挟まっていそうにない。困惑する藤井の前で、何とか痛みをしのいだらしい青年――宮澤がへにゃりと笑った。


「大丈夫です、すみません。ちょっとびっくりしただけです」


 二十代前半の、端正で温和に整った顔立ちの青年が立ち上がる。彼はここ、巴市歴史民俗資料館に市役所から派遣された手伝い人だった。藤井はここの新米学芸員で、現在新たに寄贈された資料の整理中だ。


 古くは縄文時代から人の住んでいた痕跡がある巴市は、古墳群の宝庫である。なだらかな丘陵一帯を古墳群が埋め尽くす地区は国の史跡に認定されており、公園として整備され資料館が建っている。


「あ、こっちの重い箱運びますね。向こうの棚で良いですか?」


 何事もなかったように作業を再開する宮澤に曖昧に頷き、藤井も宮澤めがけてばら撒いてしまった薄い書籍を拾い終えて立ち上がった。内容は縄文時代から江戸時代まで、様々な民間呪術を集めた研究書だ。熱心な民間研究者だった故人の遺品を、親族から寄贈されたのである。資料館側としても価値を認めたため全て引き取った。


(正直、何を手伝いに来たのかよく分かんないけど……)


 今のところ、重い物を運ぶ以外の仕事はしてもらっていない。


 まあいいか、とひとつ息を吐き、本を拾い終えた藤井は立ち上がった。






 ――あくがれる。理想とする物事や人物に、思い焦がれること。または、心や体があるべき所から離れてさまようこと。






 炎天下の中を歩く。


 ぬるい風が顔を撫でた。


 見渡す限り、夏草が生い茂っている。否、あれは青田か。


 景色全てが白けるような真夏の太陽の下、鮮烈な緑が熱風に揺れていた。


 歩く足元は雑草に食い散らかさられたアスファルト。人影は全くない。


 車も通らない田舎の県道、周囲は一面の緑。低くなだらかな山のふもとで、生活感の滲み出る家々が、灼熱の下で息をひそめている。


 無音だ。そう思って、いやと首を振る。周囲は音に満ちている。


 聴覚を塗り潰すように、幾重にも蝉が夏を謳っている。


 遠く川の流れる音が聞こえる。


 梢のざわめき、遠い上空から響く重低音。


 ぽつんと立ち尽くす己を覆い尽くすように、音が空間に満ち満ちている。


 溢れ切った音はホワイトノイズと化して、何の意味も為さなくなっていた。


 白い、白い、眩しい世界。


 人影はない。ふらりと一歩足を踏み出した。夏の日差しが真上から照り付けている。


 足元に濃い影が落ちる。白いガードレールが青草に埋もれていた。


 街路樹らしき百日紅が、薄紅色の花を揺らしている。


 鮮烈過ぎてモノクロームに見える世界は、空虚な真夏の寂寥感を漂わせている。






 向かう先も分からないまま、歩き始めた。


 今歩いている場所がどこなのかも、はっきりと思い出せない。見覚えのあるような気も、ないような気もする。巴市内のどこにでもありそうな田園風景だった。ただ、歩いていてぼんやりとした違和感に襲われる。何だろう、と周囲に首を巡らせた。


 田も畦も判然としないような青草の海の中、民家が点在している。つい数年前に建てたような二世帯住宅もあれば、茅葺の古い屋根にトタンをかぶせたような家もある。視界の端にはまるっきりの茅葺屋根も見えた。


 ボロボロに崩れて溶け落ちた廃屋、今にも勝手口を開けて住人が出てきそうな家。傍らでは白い軽自動車が雑草に埋もれていた。


 獣道もないような夏草の波間に、忽然と古びた民家が建っている。ガラス一枚使っていなさそうな古い古い家だ。今時こんな古民家があるのか、と感心しながらその脇を過ぎる。


(どこへ行くんだっけ……)






 肌を焦がす日差しの下、――はのろのろと歩を進めていた。






 じっとりと体中が湿っている。


 布団と自分の間に籠る熱が不快で、美郷はひとつ寝返りを打った。


 こめかみや喉を汗が伝う。


 頭が痛い。身体が重い。ぐらぐらと平衡感覚が定まらない。


 布団の中もいい加減飽きたし不快指数が高いので起きていたいが、身体を起こすと吐き気がする。


 外ではゲコゲコと蛙が鳴いている。


 下宿している部屋にエアコンはない。中庭に面した掃き出し窓には、幸い網戸が付いている。中庭の池の水で冷やされた外気と、安い扇風機の風だけが頼りだ。


 灯りを落とした和室の布団の上で、美郷は薄い夏蒲団を羽交い絞めにした。


(夏風邪……熱中症……何だろう、とりあえずしんどい…………喉乾いた)


 ずるずると身体を引きずり起こして、枕元の二リットルペットボトルを掴む。ケース買いしてあるミネラルウオーターだ。キャップを開けて、直接喉に流し込んだ。残り四分の一程度だったミネラルウオーターのボトルは一瞬で空になる。


 キャップを閉めて布団の傍らに放った。周囲には、他にも五、六本の空ペットボトルが散乱している。我ながら、いつの間にこんなに飲んだのか。


(暑い……夏なんて嫌いだ……)


 食欲はどこかへ消えたので、仕事から帰ると布団の上に直行した。早く気絶してしまいたい。しかし眠気はやって来ない。


 身体と寝間着の隙間を汗が伝う。苛々と溜息を吐いて、美郷は再び身体を横たえた。






「ああ、これは岩笛ですね。これは三鈷杵。櫛は魔除けに使われるんで、こいつはその関係かな」


 藤井の目の前で開けられた段ボールから、いかにも曰くありげな古物が次々と出てくる。白い手袋をはめて、ひとつひとつそれらを確認した宮澤が、手際よく仕分けを進めていた。なるほど、彼がしてくれる手伝いはこれだったのだ。呪具の類ばかりである寄贈物を分類・整理するための専門知識を持っているらしい。


「こっちの仕分けと梱包は僕がやりますんで、藤井さんは目録お願いします」


 てきぱきと指示してくる彼の右腕には、黒いサポーターがあった。何だろう、と視界の端で気にしつつ、藤井はノートパソコンで収蔵品の目録を作っていく。


(昨日、本がぶつかったところかな……)


 ハードカバーの事典ならともかく、たかだか和綴じ本ごときで負傷するはずもない。思いながらも、あの物凄い破裂音が脳裏によみがえる。昨日限りでは怪我もしていない様子だったが、家に帰ってから悪化したのだろうか。


「……どうか、しましたか?」


 あ、休憩でもしましょうか。戸惑い気味の声が藤井にかけられる。はっと我に返ると、仕分けの手を止めた宮澤が藤井の様子を窺っていた。どうやら藤井は、宮澤の腕を凝視していたらしい。


「そう、ですね……ちょうど三時ですし」


 壁掛け時計を見上げて藤井は頷いた。微妙な雰囲気をかき消すように、急いで席を立つ。収蔵品を汚してはいけないので、休憩は別室だ。はい、と、まだ戸惑った風の宮澤が後に続く。


「――腕、どうかされたんですか?」


 気になるものは気になる、と覚悟を決め、藤井は後ろを歩く宮澤に問いかけた。


「えっ、ああ、これは……ちょっと火傷しちゃいまして」


 へらりと誤魔化すように笑って、宮澤がサポーターをはめた右手前腕をさする。火傷ですか、と藤井は復唱した。


「ええ、夕飯作ってたら油が散っちゃって。大したことないんですけど、範囲が広くて……絆創膏じゃカバーしきれないけど、包帯って目立つじゃないですか」


 確かにあの白は目に痛い。そうですね、と頷いて、藤井は給湯室兼休憩室のドアを開けた。






 腕にはめていたサポーターを外すと、不器用に巻かれた包帯が汗で湿っていた。


 仕方がない。片手で包帯を操れるほど怪我に慣れていないのだ。溜息と共に包帯を外し、美郷は洗濯カゴに放り入れた。軽く軟膏を塗っただけの患部が露わになる。


「何が書いてあるんだか」


 薄暗い脱衣場で、美郷は蚯蚓腫れの這う己の右腕を見下ろした。


 昨日、何かの呪術書と接触した右腕の外側に、赤く呪字が浮き出ている。角が潰れて不明瞭な文字は、呪術の心得がある美郷でも読めない。接触したその時は派手な静電気がたっただけに思えたが、今朝起きてみるとこの状態になっていた。昨晩、やたら寝苦しかったのもコレのせいかもしれない。


 蚯蚓腫れが引き攣って痛い以外、身体に異常も出ていない。火傷のような状態なので、二、三日で腫れが退けばそれで良しにするつもりだった。


 大家である怜路と共用している風呂桶は空だ。湯につかるのも億劫なので、手早くシャワーを浴びようと美郷は服を脱ぐ。時刻はまだ六時台で、日の入らない脱衣場は薄暗いが、外と浴室は十分に明るい。


 仕事着であるグレーのポロシャツと、アンダーのタンクトップを脱ぎ捨てる。ズボンも脱いで浴室へ向かおうとして、洗面台の鏡に映る己に違和感を覚えた。


「あれっ……?」


 鏡には、少し上体を捻った美郷の背中が映っている。


 何の代わり映えもしない、自分の背中だ。特別貧相でもなければ、逞しくもない。特徴のない己の背中に、原因不明の強烈な違和感を感じる。


(……誰だ、これ)


 真っ先に浮かんだ疑問は、意味不明のものだった。


 鏡に向き直り、美郷は左右逆さまの世界を覗き込む。


 映るのは、見慣れた自分の顔だ。いつも鏡越しに見ている「宮澤美郷」がいる。


(何だろ……この感じ)


 鏡の中から、知らない人間がこちらを見ている。


 自分と同じ顔をした、だが、美郷の知る「美郷」ではない「誰か」が。


 どくり、と大きく鼓動が跳ねた。


 自分はここに居る。心臓が存在を主張しているようだ。


 腕を突いていた、洗面台の縁を掴む。背筋を冷たいものが駆け上った。


「とりあえず、さっぱりしてこようか……」


 裸で突っ立っていても不毛だ。言いようのない不安を誤魔化すため、美郷はそそくさと風呂場に入った。






 胴にぽっかりと穴をあけた、奇怪な姿の巨石が立っている。


 角のとれた曲線的なシルエットは、何かの石碑を思わせる。その中ほどが、歪な形に抉り取られていた。


(なんだ、あれ……)


 相変わらず、真夏の炎天下を彷徨っている。


 県道は、交差点も信号もない一本道がぐねぐねと続いている。両脇に広がるのは青草の海と民家、それから遠く、低い山が世界を囲んでいた。


 日差しを遮るものが何一つない、真っ青な空が頭上に蓋をしている。鳥の一羽も飛んでない。相変わらず、辺りには音が充満して沈黙を醸し出していた。


 ここがどこなのか。なぜここにいるのか。どこへ行こうとしているのか。


 なにひとつ思い出せないまま、歩く。


 どれくらい歩いているのか分からない。


 ほんの数分のような気もするし、もう何時間も歩いている気もする。もう丸一日以上、彷徨っているような気すらしてきた。


 肌を焦がす日差しは相変わらずで、足元の陰は濃く小さくわだかまっている。


(暑い。のど乾いた……)


 時折、車が追い越していく。それより他に、動き回るモノはいない。


(帰りたい。ここは嫌だ)


 苦しいし、さびしい。えも言われぬ悲しさと共に、ノロノロと身体を引きずって歩く。知らず俯いて、アスファルトばかり睨んでいた視線を上げると、前方にこんもりとした小山が見えた。ひたすらに平坦な草の海の中。お椀を伏せたような丸い小山の脇から、ぽつりと一本、柿の木が生えている。


 雑草ひしめく緑の小山は、大きくカーブする県道の脇に「鎮座」していた。


(あれ、知ってる……古墳、だっけ)


 ようやく見覚えのあるモノを目にし、少し心が浮上した。「帰れる」と一瞬喜び、しかし次の瞬間立ち止まる。


(どこに帰るんだっけ)


 あの小山より向こう側だった気がする。


(ちがう。あっちじゃない)


 なぜか確信した。あちらに――はいない。


(どこ。どこに帰ればいいんだっけ)


 確かに、あの小山の向こう側にいたはずだ。どうしてこんな場所を歩いているのかは忘れてしまった。こんな場所は嫌いだ。夏なんて嫌いなのだ。帰りたい。


「帰れない……。待っててくれなかったから……」


 どこに帰れば良いのか分からなくなった。否、そもそも――。


「おれ、誰だっけ」


 両の手を見下ろす。自分はこんな形をしていただろうか。この形は知っている。この両手も、身体も、声も知っている。毎朝丁寧に梳られている、長い髪も。


 だが、果たしてそれは「自分のもの」だっただろうか?


 呆然と、『美郷』は焼けたアスファルトの上にへたり込んだ。






『ふえをふいておやりよ』


 寝苦しい夜、障子の向こうで何かが囁く。


 そんなもの持っていない。夢うつつで首を振った美郷の脳裏に、仕事中に手にした呪具が思い浮かんだ。


(でも、一体何のために……)


 理由を、知っている気がする。何かが胸につかえているような、もやもやとした不快感があった。ぎゅっと目を瞑って記憶をまさぐっても、正体は掴めない。


 何かを忘れている気がする。何なのかは思い出せない。


 思い出せないのか、思い出したくないのか。


 美郷の意識は闇に沈んだ。






「あれっ? 宮澤さん?」


 昨日まで資料整理の手伝いに来ていた青年が、人気のない展示室に立っていた。


 藤井の呼びかけに、青年は答えない。藤井に気付いていないらしく、じっと何かの展示を見つめていた。


「あのー、大丈夫ですか?」


 昨日よりも幾分顔が白い。近付いて再度声をかけると、派手に驚いて宮澤が飛びのいた。


「うわっ!? ――あ、すみません……。ぼーっとしちゃってて」


「いえ、別にいいですけど……。なに見てたんですか?」


 宮澤が立っているのは、年代別の土器を並べたコーナーだ。縄文時代前期、後期、弥生時代と変遷する土器が、実物や模造品、写真などで展示されている。その中でも一際存在感を示す、縄文土器が宮澤の正面にはあった。燃え上がる炎のようにも見え、とぐろを巻く蛇の象徴とも言われる奇怪な装飾が目を惹く。


「あ、えーと……なんだったっけ……」


 慌てて展示ケースに視線を戻す宮澤は、どうやらただここに突っ立っていただけらしい。大丈夫か、この人。体調不良か、それとも先日整理した「呪具」の類にやられたのか……。益体もない発想に至るのは、相変わらず彼の右腕にサポーターがあるからだ。黒い薄手のサポーターは不自然に凹凸を作り、縁からは白く包帯の端がはみ出している。


「やだ、ほんと大丈夫ですか? 熱とかないですよね?」


 この場で倒れられたらたまらない。


 とりあえず、座らせて水分をとらせよう。藤井は宮澤を、職員用の給湯室へ連れて行った。






 暑い。


 自分の唸り声で、浅い眠りから目覚めた。


 先日から、うとうとと微睡んでは同じ悪夢の続きを見ている気がする。白く寂莫とした、灼熱の悪夢だ。


 二リットルボトルを一本、一気に飲み干して美郷は布団の上にひっくり返った。


 辺りには、同じミネラルウオーターのボトルが十数本散乱している。


 いっそのこと、水風呂にでも浸かってくればよかった。すっかり日が暮れた寝室で後悔する。掃き出し窓に面する中庭では、蛙が忙しなく恋を歌っていた。


 ぶぉん、と母屋の向こうで、車のエンジン音が響いた。カエルの声が一瞬止まる。家の前の坂道を、怜路の車が登る音だ。しばらく経って、車のドアを閉める音、砂利を噛む足音、玄関を開ける音、と徐々に怜路の気配が近づいて来る。


「おおい、もう寝てんの? 最近早くね?」


 無遠慮に引き戸を開けて、怜路が美郷の寝ている和室を覗き込んだ。廊下を照らすの裸電球の明かりが室内に差し込む。


「って、オイなんじゃこりゃ!?」


 床を埋める勢いのペットボトルを見回して、怜路が顔を引き攣らせる。その様子をぐったりと見上げ、美郷は曖昧に返事をした。


「暑くて……」


 元々暑いのは得手ではなかった。特に、大学入学の年からはっきりと「苦手」に変わったが、ここまで酷かったことは記憶にない。湿った布団の上に這いつくばって唸る美郷を、珍妙なものを見る目で怜路が見下ろす。


「夏バテにしても限度があるぞお前……つか、その腕どうした」


 蚯蚓腫れは相変わらずどころか、範囲を拡大しつつある。巻き方の下手くそな包帯が、寝返りを打っている間にほどけたらしい。ペットボトルを避けて部屋に入った怜路が美郷の傍らにしゃがみ込み、和風ペンダントライトのスイッチ紐を引いた。


 ぱっと蛍光灯が点り、眩しさに美郷は腕で目元を庇う。その手首を取られて、腕の蚯蚓腫れをじっくり検分された。負傷のなりゆきを説明したところ、怜路はなるほどねェ、と頷く。


「調伏系っぽいがヒデェ火傷だな」


 呆れたように鼻を鳴らした怜路が、美郷を解放して胡坐をかく。調伏系、と美郷は口の中だけで繰り返した。降魔調伏の呪で火傷を負ってしまうとは、まるで人ではないようだ。


「おれ、妖魔の類じゃないんだけど」


 怜路に言っても仕方がないが、つい不服を口にする。「あん?」と片眉を上げた怜路が、微妙な顔をして小さく言いさした。


「そりゃまあそうだが、お前は……」


『ふえをふいておやりよ』


 ――不意に、外からひそひそ声が耳に届いた。


 中庭の奥から、こそこそと囁き合うような会話が聞こえる。


『よんでおやり』


『ふえがいい』


『ふえでよべばかえってくるよ』


 昨夜も同じようなことを言っていたな、と美郷はぼんやり思い返す。


「……相変わらず居やがんな。つーか、三日四日前から増えてねえか……?」


 やれやれ、ちゃんとデカいのは追い払えよ。障子の向こうをひと睨みし、悪態をついた怜路が美郷に視線を戻した。


「一体何を呼べって――ん?」


 少しズレたサングラスの向こうで、緑銀の眼が見開かれる。


「…………おい、美郷。お前、ペットどこに捨てて来た?」


 どおりで変な気配が増えてやがる。呆れ声の呟きに、頭の付いて行かない美郷はのろりと首を傾げた。ペットなんて、飼っていた覚えはない。そう答えると、より一層複雑そうな顔で怜路が口元を曲げる。


「ああ、でもそう言えば……」


 今日、資料館で岩笛を借りてきた。理由は、全く覚えていない。藤井という女性学芸員から借りたのだが、どんな会話をしたかすら既に曖昧だ。ここ数日はずっと白昼夢の中にいるようで、記憶も酷くぼやけていた。


「笛。コレでいいかな」


 のろのろと、通勤鞄から岩笛を取り出す。ちりちりと右腕が痛んだ。


「まあ、もってこいじゃねーの?」


 火の点いていない煙草を口に銜えた怜路が、軽く肩を竦める。何故喫わないのか問えば、「煙草嫌いだろ、帰って来ないかもしんねーじゃん」と言われた。結局まだ、笛で何を呼ぶのか美郷は分かっていない。


 くっく、と笑う怜路が、いいから吹いてみろよとけしかける。酷く面白がっている様子に納得がいかない。躊躇っていると、「多分ソイツで、夏バテも楽になると思うぜ」と更に促された。


「お前が『要らねぇ』つーんなら、このまんま捨てちまってもいいのかもしんねーけどな。ただまあこの様子じゃ、お前の体も心配だ」


 サングラスが蛍光灯の光輪を映し、笑む怜路の目元は見えない。


 迷った挙句、美郷は岩笛に唇を付けた。静かに息を吹き出す。


 ひゅうぅ、と、夏の湿った夜気が震えた。


 寒々しく震える音が、熱帯夜を支配する。


 右腕が熱い。灼ける感覚に岩笛を取り落とし、左手で蚯蚓腫れの上を掴む。


 じくじくと痛む呪字が、近寄って来る何かを拒絶していた。


(おれはだれ)


 問いが心の中で響く。


(ここはどこ)


 自分の立っている場所が室内と屋外、二重にぶれる。


(おれはどこ)


 探す気配に手を伸ばした。


(ここにいるのは、だれ)


 ざわり、と庭木が震えた。


 ――みつけた。呼んでくれた。おれはここだよ。






 喜びと安堵が混じる気配に、美郷は知らず口元を緩める。


「おかえり」


 寝巻の下に指を滑らせ、左の肩甲骨をそっと撫ぜる。


 ざらりと指先に触れる角質があった。


 蛇の鱗の上に、今夜も美郷は封じの符を貼る。



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