静かな廊下


 人気の無い、どこかうら寂しく薄暗い廊下。土曜日の市役所に、かすかに幼い子どもの笑い声がこだまする。独り廊下を歩いていた美郷は、立ち止まって目を細めた。手にはコーヒーカップ。休日出勤で事務仕事を片付ける合間、一息入れようと淹れてきたものだ。


 曲がり角の先、階段から響くはしゃぎ声の主は、恐らく土日開庁で市民課にやって来た人の子だろう。鬼ごっこでもしているのか、ぱたぱたと軽い足音が複数、それに重なった。


 幼い子どもは、一体何がそんなに、と思うほど、ただの追いかけっこで大はしゃぎする。昔実家の廊下で聞いた、小さな弟の高い声を、響くそれに重ね、美郷は懐かしく目を細めた。


 美郷の実家は、大層立派で広い、伝統的な造りの邸宅であった。その、悪く言えば重苦しい雰囲気の廊下を舞台に、しょっちゅう繰り広げた鬼ごっこ。美郷より五つ下の弟は、それは喧しい歓声を上げて走り回ったものだ。常に鬼役を強いられた美郷は、当時は煩わしく思うこともあった気がする。しかし今更になって思い出せば、それも随分懐かしい。


「何か、年寄り臭いね……」


 自分の思考に苦笑いしつつ席へ戻っていると、大歓声だった筈の幼い雄叫びが、いつの間にか泣き喚く声に変わっていた。幼い子どもの機嫌というものは、山の天候並に荒れ易くて予測しづらい。大方、追いかけっこの相手を見失ったとか、そんな所だろう。迷子になるほど広くも複雑でもない建物だが、階段に反響する泣き声が次第に近くなってきていた。


 土日開庁しているのは市民課の窓口だけで、上階に上がればますます人気は絶える。心細さをありったけ込めた泣き声が、かつての弟のそれと重なり、美郷は事務机にカップを置くと、階段へと向かった。





 階段に顔を出し、下の階の様子を伺う。子どもはどうやら上にあがるのを諦めたようで、泣き声は少し遠い。そのまま引き返しても良かったのだが、何となく美郷は階段を下りた。


 巴市役所の本館は、築五十七年になる鉄筋コンクリート三階建ての庁舎だ。二階の渡り廊下で、五階建ての新館と繋がっている。美郷のいる特殊自然災害係の事務室は本館三階の端で、市民課の窓口は一階にあった。


 鉄筋コンクリの築六十年弱ともなれば、相当に年季の入った風情になる。時に来庁者に苦笑いされるほど、古めかしくなってしまったこの本館は、今年度末を最後に取り壊しが決まっていた。今は二月、本館住まいの課はどこも引越しの真っ最中である。


 ゆるゆると階段を下りると、遠のいた子どもの声の代わりに、男性の荒い声が聞こえてきた。何やら苦情をまくし立てているらしい。


 隅の曇ったビニルの床、無数の細かなヒビが入った漆喰の壁。至る所が割れ剥がれた滑り止めのゴム。それらに声がこだまする。普段、土日開庁を利用する人はそう多くないのだが、何か忙しい時期だっただろうか。今日はやたらに色々な声が階下から響いている。大人の声、子どもの声、笑い声、泣く声。赤子の声も、老人の声もする。


 市民課には、それこそ巴市の住人であれば、どんな年齢性別職種の人でも来る機会がある。そして、その多くは何らかの人生の節目に立つ人だ。出生、就職、引越し、結婚や離婚、そして家族の死亡。そこには必ず何かのドラマがある。笑う人、泣く人、怒る人、喜ぶ人、どんな人もやって来る。そんな場所だ。


 階段を一つ下りるごとに、新たな声が加わる。一歩近づくごとに、届く感情が増える。こんな大賑わいは、連休明けの月曜日と同レベルだ。そう驚きながら、更に興味をそそられて美郷はとうとう一階まで下りた。途中、誰とも出会わなかったが、出勤している職員は少ないのだろうか。


 内心で首を傾げながら、美郷は薄暗い廊下から窓口フロアに顔を出した。


 しん、と静寂が耳を打つ。


 美郷は目を瞠った。


 眼前には、どこか雑然とした広い事務フロアが、電灯一つともさぬ薄暗がりに沈んでいた。フロア手前を横断するカウンター、その奧のファイルとPCが占拠するデスク。全てが己は無生物であることを思い出したように静まり返っている。正に、人っ子一人いない。


「……そうか、今日は祝日だっけ」


 ぼんやりと美郷は呟いた。そう、今日は土曜祝日だ。土日開庁も祝日は休みである。


 では、あの声は何なのか。


 美郷は目を閉じた。再び、さんざめく人々の声が耳に届く。


 ああ、惜しんでいるのか。


 庁舎そのものが、別れの時を惜しみ、刻まれた思い出を一つ一つなぞっているのだ。五十七年にも渡り、やって来る市民を、働く職員を見守り続けた年月を。


 邪魔をするのは無粋というものだ。美郷はそっと、踵を返した。



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