道端の溝




 工業団地へと緩く上る県道。その歩道脇にある側溝を、美郷みさとは見詰めていた。溝には鉄製のグレーチングが被せてある。冬場の凍結時や雨の日には侮りがたく滑る、アレだ。


 その、一見何の変哲も無い側溝を覗き込み、美郷は道端にしゃがみ込んでいる。平日昼間の二時半。山奥と言って良いその道は、工業団地関係の車両が、わずかばかり通るだけだ。


 職場支給の作業着の上にダウンジャケットを着込み、北風で冷える脚を作業ズボンの上からさする様子はいかにも寒そうだ。冬の弱い日差し以外に身体を温めるものも無い中、小一時間も屋外にいれば当然だろう。


「あー、寒い。帰りたい。寒い」


 鼻声混じりに美郷は唸る。寒さに弱いつもりは無いが、せめて身体を動かしていなければ凍えてしまう。しかしながら、動き回っている訳にもいかない事情があり、美郷はそこで文字通り震えていた。


 何が悲しくてこんなことを、と内心で愚痴りながら、グレーチングの奧を睨め付ける。少し離れた所には、ともえ市と名が入った白の軽自動車が停めてあった。


 何が悲しくて、と言ってみたが、悲しいかなこれは仕事である。


「へっくし!」


 美郷は霊的トラブル、お役所的には特殊自然災害と呼んでいる事件に対応する専門職、つまりは公職の霊能師だ。今回、寒空の下で凍えているのも、その類のトラブル処理の為である。彼はこの春に採用された新職員で、まだ経験は浅い。よって、彼を主担当にと任せられる仕事の程度は知れていた。


 しかし、難易度の低い仕事が、必ずしも楽な仕事とは限らない。単純だが楽ではない案件、今回のものはそれだった。


 約一ヶ月ほど前から、この辺りで何の前触れもなく側溝から道路に水が溢れ、一瞬にして凍結する怪異が起こるという。冬用タイヤの時期とはいえ、昼間に突然スケートリンクが現れれば当然スリップ事故が起こる。美郷が今、この側溝を張り込んでいるのは、その凍結の原因を「捕獲」するためだった。


 かわうそと呼ばれる妖怪がいる。同名の哺乳類も存在するが、今回関わっているのは妖怪の方だ。この獺、要するに水辺に出没する狐狸の類で、人を化かして遊ぶ程度の、まあ可愛い物の怪だ。哺乳類のカワウソの被毛を薄青色にしたようなナリをしている。


 それが何故、こんな水の気配もない山奥の側溝で悪さをしているのかだが、悪さをしている、と言うのは少々気の毒な事情があった。


「要するに、寒すぎて動けないわけだ」


 美郷はこれまでの観察で見つけた出現ポイントにしゃがみ込んだまま苦笑いした。獺は水の気の妖だ。寒さには強いのだが、出現する際周囲に水を呼び寄せる。しかし、今は冬だ。つまり、呼んだ水が凍る。結果として自身も凍って動けなくなり、慌てて更に水を呼ぶ……そして辺り一面が氷漬けになる、という事らしい。この事が判明した時は、阿呆らしいやら何やらで、職場の皆で溜め息を吐いたが、考えてみれば可哀相な話である。


 どうも獺なりに考えて、天気の良い日の気温の高い時間帯に脱出を試みているようなのだ。しかし、一般的に陰の気は温度を下げる。水の気は陰陽五行の気の中でも陰中の陰。最も冷たい、冬を司る気だ。呼べば当然辺りの気温はだだ下がる。この分では、冬の間に獺が自力脱出するのは不可能だろう。


「そもそも、冬場なのに油断してこんな所まで遠出した原因って、異常気象レベルの暖冬だしね。地球温暖化が遠因とか、こっちが謝る立場かな……」


 ともあれ、このままではお互い害しかない。軍手を嵌め、専用の捕獲袋を構えた美郷は苦笑する。出現した瞬間に手で捕まえるのだ。





 待つこと一時間と十数分。果たして周囲の気温が急降下を始めた。いざ、と目を凝らした美郷の足元に、水色の毛玉が滲むように現れる。同時に冷気が逆巻き、周囲の地面を凍らせ始めた。


「確保っ!」と気合を入れて、ひょろ長い毛玉をわし掴む。ピィ! と悲鳴を上げたそれを、問答無用で袋に詰め込んだ。威嚇混じりに冷気を撒き散らし、袋の中で暴れる獺を何とか押さえつけ、美郷は口紐をきつく縛った。


 未だ暴れる捕獲袋を抱き上げ、長居無用と公用車へ踵を返す。その第一歩目がグレーチングにかかった、その時だ。


 つるり、と体の重心がズレた。


 突然の、天地が引っ繰り返る感覚。次いで、背中への鈍い衝撃と共に、冬の薄い空色が見えた。腕の中の獺が喜ぶ気配にイラッとする。


 ばたりと仰向けに倒れたまま、美郷は獺の毛皮と同じ色の空を見上げた。


「…………霊能師って、こんなだっけ?」


 凍った地面がじわじわと背中を冷やす。絶対風邪を引くな。美郷は脱力しながら思った。



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