【番外2】甘い水

使用お題:

 報われない

 焦がれる

 万華鏡

 たとえ光をうしなっても



『甘い水』




「水を一口、くださいますか?」


 宵に現れた女は、臈長けた声でそう言った。喪服のような墨染めの絽に、夜目に鮮やかな朱の帯を締めている。女が小首を傾げれば、下した黒髪がさらりとうなじを流れた。月の光も届かぬ木蔭に、女は朧な光を纏って立っている。


「どうぞ、幾らでも」


 中庭に面した濡れ縁で涼んでいた、家主の男は頷いた。狭い中庭には鬱蒼と植木の枝が生い茂り、その手前に小さな池が設えてある。池には山から清水が引かれ、ちょろちょろと音を立てて注いでいた。


 男に「ありがとう」と微笑んで、木蔭から出た女は池に注ぐ清水をひと掬い。ほっそりと長い指の隙間から、こぼれた雫がはたはたと袖を濡らす。寝間着姿に団扇を持った男は、満月の光を弾く雫と、女の眩いばかりの白い手を眺める。


「――良いのですか? こんな所に居たら、気付いて貰えないでしょう」


 何に、とは言わず尋ねた男に、振り返った女が微笑んだ。


「良いのです。私の焦がれる方には、きっと何処に居ても、決して気付いて貰えませんから」


 つい、と一つ口元を拭う手の甲。紅を刷いたような紅い唇。美しい女だ。


「報われない恋を、しておいでですか」


 こんなに美しいのに、と男は嘆いた。ふふ、と嬉しそうに女が笑う。


「お上手ですわね。でも……ええ。夜ごとどんなに見詰めても、語り掛けても、決して振り向いては貰えませんの。――もう、私には時間が無い」


 切なげに女が目を伏せると、白い頬に長く睫毛の影が落ちた。頭上には満月。そのすぐそばを、ちかり、ちかり、と光りながら飛行機が飛んでゆく。ごおごおと、遅れて遠く鳴り響く低音に、僅かの間だけ蛙の合唱が止まった。


「それは……あまりにも。もっと貴女に相応しいお相手はいるはずです。私で良ければご案内しますよ」


 男は眉根を寄せて言い募った。それはあまりに哀れで惜しい。こんなにも美しい女なのに。浮世の憂いをひと時忘れさせてくれる万華鏡のような、美しく儚く、移ろいやすい存在。夜ごと女の姿を見詰めていたのは男も同じだった。ようやく話すことが出来たのに、何とも哀しいことを言う。


「いいえ。良いのです。たとえ光をうしなっても、心が天に昇るなら。あの方のもとへ届くなら……私はそれで良いのです」


 つい、と細い顎をそらして天を仰いだ。満月の光を浴びて、女の肌は真珠のように光り輝く。


「そんな……!」


 堪え切れず立ち上がった男から逃れるように、女の姿が掻き消えた。「ああ、」と男は落胆の声を漏らす。それでも諦め切れず、男は池のほとりへ近づいた。


 清水が叩く茅の葉に、彼女はそっと乗っていた。


「やっぱり、今日が最期でしたか」


 男は呟いて、指先で彼女の背を撫ぜた。黒く艶やかで繊細な、漆器のような翅を。その首元は丹を塗ったように朱い。


「だからこそ、話が出来たんでしょうけど……あまりに相手が悪すぎますよ」


 ――恋し、恋しとなく蝉よりも、なかぬ蛍が身を焦がす。


 どれだけ光を尽して呼びかけても、彼女の望んだ相手は決して振り返らない。当然だった。相手は遥か天空を飛ぶ鉄の鳥だ。ちかり、ちかりと光る背は、決して彼女に気付かない。


「こっちのみーずは甘ぁいぞ……って、言って来てくれた男には見向きもしなかったものね、貴女は。趣味悪すぎですよ」


 男が舞って女は待つ。それが彼らの習性だ。彼女はただ、鉄の鳥を待っていた。亡骸から離れた家主の男は、濡れ縁に戻って団扇を手にする。毎晩ここで、光る彼女を見るのがこの半月、彼の楽しみの一つだった。


「天に昇って、逢える相手ならば良かったのにね……」


 だが、彼女の恋した相手はまやかしだ。これはあまりにも哀しいだろう。ひとつ考えて、男は一度寝間に入った。紙の札を一つ携えて再び庭に降りる。蛍の亡骸に近づくと、紙の札――霊符を捧げてひとつ呪いを呟いた。


 ふわり、と亡骸から光が浮いて宙を舞う。鉄の鳥を追って天に昇ろうとするそれに、男はもうひとつ呪いを呟いた。亡骸に被せられていた霊符が一瞬で燃え上がり、灰に消える。必死に天を目指していた光の粒は、ふと目を覚ましたように宙をたゆたい始めた。


「あんな野郎のことは忘れて、良い相手を見つけなさい」


 答えるように一つ瞬き、光の粒は闇に溶ける。それをみとめて安堵の息を吐くと、男はやれやれと寝間に戻った。彼の職は霊能師。この時期は水鎮めの結界のお守りで忙しい。


「明日も早いし、もう寝るか……」


 一つ欠伸をして男は濡れ縁の障子を閉めた。




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美郷視点。言わなきゃわかんないですねw

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