第46話識天使

 落ちた。

 真っ逆さまに。

 幻想遣いは幻想と契約する事で特異な能力を得ると同時に驚異的な身体能力と頑強さを得る。とは言え上空5千メートルから水面に叩きつけられれば流石に全身に激痛が走る。無防備に叩きつけられていればいくら身体が頑強な幻想遣いと言えど命は無いだろう。幾重にも自分達の周りに結界を張りなんとか空中に居る間に相棒の腕を掴んだ。落ちていく最中、相棒は苦しそうな表情を浮かべて懐から何かを取り出しレギンレイヴの胸ぐらを掴みその服の中に入れてきた。小さな巾着袋に入った様なそれに思わず眉間に皺が寄る。考える暇等無く海面に落ちたが、なんとか五体満足で海面に浮かぶ事が出来た。水面に叩き付けられたおかげで全身が痛い。どこかの骨は折れたかもしれない。海面で仰向けにぷかぷかと浮かびながら荒い息を吐き出した。無我夢中で掴んだ相棒の腕は相棒の身体に繋がっている。それを確認しひとまずレギンレイヴは安堵の息を漏らした。

「おい、おいゲル、お前なんて物渡してきて、」

 掴んでいた腕を引き寄せ男の息を確認しようと顔を見る。見た瞬間、レギンレイヴは声を失ってしまった。

 ゲルは目を見開いている。だがその目はレギンレイヴを映して等居なかった。

 そもそもレギンレイヴが上空5千メートルから海に叩き付けられる事になったのはゲルが展開していた雲が突如として霧散したせいである。突然足場を失った身体は当然の如く空中に投げ出され、海に叩き落された。どうしてこうなったか等、レギンレイヴに分かる筈も無い。

「ゲル……ゲル、なぁゲル!」

 その肩を揺するもゲルの目は見開かれたままどこを見ているのか分からない。ゲルに異常が起きたと言う事だけは分かる。だが何が起きているのか。嫌な汗が背中を伝っている。

「ゲル!」

「ぁ、うぁ……」

 ようやく、うめき声を上げた。レギンレイヴはうめき声であろうと反応を示したゲルに再度声を掛け続ける。頭痛でもするのか、ゲルは両手で自分の頭を抱えていた。

「ゲル、ゲル!」

「ぁ、ああ……あああああああああ!!!、あ、あぁ……!」

 俯いたゲルの顔から何かがポタポタと水面に落ちている。レギンレイヴはそれを見てまた言葉を失ってしまっていた。

 赤い、紅い液体がゲルの頬を伝っていた。目尻から顎にかけての頬のラインを赤い線が走っている。

 知っている。

 『これ』を、レギンレイヴは知っている。

 いやだ、と緩慢に首を横に振った。

 やめてくれ。

「ゲル……嘘だろ? なぁ……ゲル、ゲル!! お前どうすんだよ! ようやく惚れた女に手が届いたんだろ!? なぁ! なぁ!? なんでこんなもん俺に渡すんだよ!?」

 レギンレイヴの声は震えていた。それこそ泣いてしまいそうな程だ。だが、ゲルはそんな声も聞こえていないかの様に頭痛にうめき声を上げている。

「こんなの……スクルドの時と同じじゃないか……! ゲル、俺の声聞こえるか!? なぁ!!」

 レギンレイヴはゲルの肩を揺する。ゲルの耳からも血が流れ始めた。ゲルの背中側にも血が広がっている。恐らく背中からも血が流れ始めているのだろう。

「ゲル!!」

 血の匂いに惹かれて鮫が集まって来ている。二人の周囲をぐるぐるとどこか見覚えのある背びれが徘徊し始めていた。

 レギンレイヴは鮫には目もくれずゲルの肩を揺らす。それしか出来ない木偶の坊の様だった。いや、実際何をするのが正しいのかなんて知らない。彼が意識を手放してしまわない様に必死に肩を揺する事しか出来なかった。

 血塗れのゲルの身体が痙攣を始めている。

「止めろ、止めてくれ……」

 レギンレイヴの懇願する声が虚しく響いた。ゲルの身体が胸を抱える様にくの字に曲がった。ゲルの着物の背中部分が盛り上がる。

「ぁ、」

 耐えきれなかった様に着物の背中部分が裂ける。レギンレイヴの視界に広がるのは純白の白鳥を思わせる鳥の羽根だった。根本部分は無理やり生えて来た代償なのかとめどなく血が溢れている。ゲルの背中から、三対六枚の翼が生えていた。

「ぁ、がっ!」

「ゲル……ゲル!? ゲ、ぁ、うあ……」

 ゲルが口から血を吐いた。咄嗟に差し出されたレギンレイヴの手のひらにその血は吐き出されていた。その手に吐き出された血の色を見てレギンレイヴは顔を大きく歪ませる。

 ゲルの背中から生えた翼がはためき、ゲルの身体がゆっくりと海面から持ち上げられた。レギンレイヴはただただその姿を見上げる事しか出来ない。目からも耳からも、口からも血を垂れ流しているがその姿はまさしく『天使』と呼ぶにふさわしい姿をしている。

「ぁ、待って……待ってくれ! 頼むよ! お前まで俺を置いて行くなよ!! ゲル!!!」

 我に返った様に手を伸ばす。だが、その手がもう一度ゲルの身体を掴む事は無い。血塗れの『天使』は虚ろな瞳でようやくレギンレイヴをその目で捕らえた。

「聖なるかな」

 それだけ言って『天使』は空高くへ舞い上がっていった。レギンレイヴはそれを見送り、自分の手のひらへと目を落とした。

 紫色の血がレギンレイヴの手のひらにぶちまけられている。『天使』の異様さに警戒してか中々手を出してこなかった鮫達がレギンレイヴへの包囲網を徐々に狭めていた。

「……くそ、」

 レギンレイヴは悪態と共に海面を叩いていた。鮫の事など気にする事無くレギンレイヴは海の真ん中で叫び声を上げる。その声はひたすらに怒りの声だった。

 また一人、大切な仲間が消えた。

 その事に自分はどうする事もできない。助けてやることも、せめて人のまま殺してやる事も出来なかった。一縷の望みを持ってしまう。そんな甘ったるいものは捨てるべきだと知っていた筈なのに。

 食い頃だと認識した鮫が大口を開けてレギンレイヴに襲い掛かる。レギンレイヴはそれに目もくれずに一言呟いた。

「アンヴァル」

 途端、レギンレイヴを襲おうとした鮫の身体が遠くに吹き飛んでいった。レギンレイヴを中心に衝撃波の様なものが発生した様だ。いや、正確には台風の如く強風が発生したと言うのが正しいだろうか。レギンレイヴの傍らに、水面の上だと言うのに平然と立つ白馬がいつの間にか姿を現した。

「……一度帰ろう。リヨンに。エルルーンに話しておかないとな」

 そう言って当然の如く水面を足場にするかの様に立ち上がりレギンレイヴは白馬の背に乗り込んだ。一度紫色の血に塗れた自らの掌を眺め大きく息を吐き出しながらその手を握りしめる。そして渡された物が入った自分の胸を叩いた。忌々しげに奥歯を噛み締め、レギンレイヴは水面の上を白馬で駆け出した。

「……幻想遣いって、何なんだろうな」

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