第47話聖女
荒い息を吐き出した。随分遠くまで走ってきてしまった。自分は息切れ等起こすのだと初めて知った気がする。
心臓はバクバクと狂った様に動いている。恐らく走った事だけが原因では無い。そんな事は自分が一番良く知っている。知っているのだ。どうして自分の心臓がこんなに早く脈打っているのかなんて。
だって、自覚してしまった。認めてしまった。
唇が触れた瞬間の胸の高鳴りを覚えている。あんな感情を抱いたのは初めてだ。きっとあれが劣情と呼ばれるもので。『聖女』と呼ばれる自分が抱いて良い感情ではない事は嫌でも分かる。
汚らわしい感情だ。穢れている感情だ。そんなもの、一刻も早く捨てなければならない。
でも感情を捨てるってどうやるんだっけ? 自分の気持を切り捨てる方法を一刻も早く思い出さなければならない。
いやだ、いやだ。自分が自分では無くなってしまう気がする。早く、早くこの感情を切り捨てて『聖女』に戻らなければならない。だってそうしなければ、自分の存在意義なんて無くなる。
自分は今まで力の強い『聖女』だから生かされてきたのだ。
父と母はまともに働く事も放棄した。『聖女』である自分を教会に売ってしまえば一生遊んで暮らせる金を手に入れたから。そもそも自分が『聖女』として認識されるまで自分は両親からは疎まれていた。
『産むんじゃなかった』
『産んで後悔した』
『穀潰し』
聖女としての証である聖痕が無ければ恐らく自分が今日まで生き残る事は出来なかっただろう。自分の命は教会に拾われた様なものだ。足に聖痕が出てきてくれなければ恐らくあのまま食事も満足に与えられずに餓死していた筈だ。数日毎に親に内緒で食べるものを持ってきてくれた親友のアリシアが居なければ教会に見つかる事なく死んでいた事だろう。教会には恩がある。見つけて貰えていなければ学校にも満足に通えず、栄養のある食事だって貰えなかった。故に、この身全ては教会に捧げられるべきである。そう思って生きてきた。今だってそう思っている。
だから、これは、駄目だ。
こんな思いを抱く事は教会へ背く事であり最大の裏切り行為だ。自分は神の嫁である。他の何者も神と自分の間に立ち入る事等許されていない。だと言うのに土足で踏みこまれた。そしてそれを、どうして自分は、
「思ってない……嬉しいだなんて、そんな事絶対、絶対、無い、違う、私、わた、ボクは、」
落ち着け、大丈夫。こんな気持ちなんてさっさと捨ててしまえば良いのだ。一時の気の迷いの様なものなのだから。
『好きな女の子が居てさぁ……でも大聖人とか言われちゃったしどうするか悩んでんだよ。聞いてくれるか? レティ』
『レティにそんな話してどうするんだ。自分でなんとかしろ』
『少し位良いだろ……なぁ、レティ?』
どうして、今この会話を思い出したのだろう。
夕焼けの中、一緒に教会から寮まで帰った。あの時自分の手を引いてくれた優しい兄達は居ないのに、どうしてそんな事を思い出したのだろう。聖人とは何か、と。深く理解も出来ていなかった程昔の話だ。この会話の後しばらくして聖女とはどういうものなのかをきちんと理解した。その後、兄が二人で激昂していたのを覚えている。すまないと、ごめんと。謝りながら抱き締められたのだ。それから、恋の話が話題に上がる事は無くなってしまった。等身大の少年だった兄達の目が段々と虚ろになっていった。気がつけば、兄達は自分の前から居なくなってしまっていた。最後に会った時、二人は一緒に居なかった。片方の兄が絞り出すように「ごめんな」と謝ったのを覚えている。兄は他にも何か言っていた気がする。なんと言っていたのだっけ。
『お前が、でかくなって好きな奴が出来ても俺は怒らないからな。大丈夫だから……あぁそうだな。その時は教えてくれよ。嬉しい事だからな、俺も一緒に喜びたい』
あぁ、そうだ。確かそう言っていた。そう言ってくれたのだ。どこか言い聞かせる様にそう言ったのだ。
なら、この状況を兄はどう見てくれるんだろう。彼は許してくれるのだろうか。
「……シルヴァン兄さんは、許して……くれるのですか?」
知らず、口から零れ落ちた。
「聖女様?」
「っ!」
「聖女様では?」
背後から声を掛けられた。誰も居ない裏路地だからと気を緩めてしまった。しかも、自分を聖女と呼ぶということは教会の関係者の可能性が高い。恐る恐る背後を振り返ると案の定、司祭の服を着た背の高い男が立っていた。
「やはり聖女、レティシア様でしたか。この様な場所でお一人ですか?」
「……司祭様。いつから、そこに?」
嫌な汗が背中を伝っている。何故だろうか、この男に気を許してはならない気がする。得体の知れない何かを相手にしている様な気分だった。恐らく人間では無いと断言出来た光太相手にでさえこんな事思わなかったのに。
「いつから? そうですねぇ……聖女様があろう事か人外の魔と思しき男と逢瀬をしていた時からでしょうか」
「……っ、ぁ……え?」
今、この男はなんと言った?
耳を疑った。
まさか、ずっと、見られていた?
「それは……どういう、」
「そのままの意味です。しっかり見ておりましたよ。もちろん、あの口吻も」
「!!」
司祭の男の口が笑みの形を作っていた。何がおかしいのだ。教会の司祭であれば、聖女がどの様な存在かなんて知っているだろうに。
「違う、わたし、は……」
「ご安心下さい。信者達にも上層部にも貴方の事を報告するつもりはありません」
「……それは、どういう、」
知らず、後退りしていた。嫌な汗が背中を伝っている。
怖い。
怖い? 恐怖なんて今までほとんど抱いた事なんて無かったのに。いや、つい今しがたまで神を恐れていた。教会を恐れていたのだ。そう、あれこそ恐怖だったじゃないか。どうして、こんな事を思うんだ?
「是非、『正義』を司る聖女様に正義を執行して頂きたいのです。咎人は既に捕らえております。どうぞ、こちらへ」
正義の執行? 確かに自分が司る属性は『正義』だ。教会が定めたその属性は、大聖人と呼ばれる聖痕を持つ聖人全員に割り振られるのだと言う。『謙譲』『慈悲』『忍耐』『希望』『救恤』『節制』『正義』。現在観測されている大聖人達は以上の属性を保有する。大聖人は現在七人。過去には『純潔』や『勤勉』と言った属性を保有する者が居たそうだが現在はこの七つの属性を持つ大聖人のみだ。レティシアはその中で最年少であり『正義』を司る大聖人である。
だが、正義の執行とは何なのか。確かにレティシアは責任感が強く大真面目な所があり弱者を守る為には後先考えず動く時がある。『正義』と言う属性に該当するだろう。だが、正義の執行と言われると覚えが無い。だって、それは、
「どうか、罪人を断罪して頂きたい。勿論、頼めますよね? 『聖女』様」
喉が引き攣る。
『聖女』と言う言葉が出てきてしまえば自分に決定権等無い。そんな事は知っているのだ。
青ざめた表情でコクリと頷いていた。
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