第34話縄張り争い

 すぅっと。一筋だけ頬を伝った涙に光太は静かに目を閉じていた。その涙に、何を思ったか聖女とか言う身分の少女は心配そうにハンカチを差し出してきたが、光太はやんわりとその好意を断った。

 このやり方は色々と心臓に悪い。いかに大妖怪と言えど、『自分が死ぬ』感覚だけはどうにも慣れないのだ。これからこの方法は封印だな、等と考えながら光太はゆっくりと息を吐き出して体をソファに深く預ける。いかに四肢が断裂しようと心臓が潰されようと光太が『死ぬ』事は無い。ヤマタノオロチという概念が死なないかぎり光太は生き続けるだろう。それがたとえ頭部のみになったとしてもだ。事実、あの忌々しい鼻垂れ小僧に首を全て切り落とされて尚、ヤマタノオロチという存在は消えていない。

 だが、それも――――

 ふと、金髪の少女が心配そうに隣に座ってきた。

「大丈夫、ですか?」

「………………」

 少女の問いかけに光太は会釈だけで答えた。歪に笑みだけ象って少女に心配無いことを証明するもその笑みがあまりにも下手くそだったせいか少女は更に心配したようだった。

「大丈夫ですか? 本当に?」

「あ、すみません……ちょっとその……悲しく、なってきてしまいまして」

 乾いた笑いを浮かべていた。少女の瞳に影が落ちる。何も少女が気に病む事等無かったはずだが、光太は内心面倒だと思いつつも少女を見る。若干自分が失言したと後悔するも顔には全く出さなかった。

 話題を変えようとして、少女に進言しようと思っていたことを口にした。

「あ……そうだ」

「どうかしましたか!?」

「僕、あの……一つだけ。一つだけ覚えている事があって」

「一つだけ覚えている事、ですか?」

 首を傾げる金髪の少女。記憶喪失の自分が覚えている、たった一つの事。よほど大事な事だと思ったのだろう。少女は真剣な目で光太を見る。

「九光太。多分、誰かの名前だとは思うんですが……」

「イチジク、コータ……誰の名前かは分かりませんが、東洋人ですね……貴方の名前という可能性は?」

「うーん……どうでしょう。何しろ、単語を覚えているだけで自分の名前までは……」

 光太は無理やりそう説明を付けた。少女が何の疑問も持たずにコクリと頷いている。光太の予想通りの反応だ。

「そうですね。では、これからは貴方の事をコータさん、と」

「………………」

 何故か咄嗟に、言葉が出てこなかった。なぜだろうか。恐ろしく懐かしい響きの様な気がする。

『コータ。コータ……コータだな。よし、大丈夫だ』

 つい先日聞いたはずの声で再生される舌足らずな自分の名前。あからさまに黙り込んでしまった光太をいぶかしみ、少女は首を傾げていた。だがすぐに黙っている理由にでも思い当たったのかハッとした様子だった。

「ボクの発音間違えてましたか!?」

「え? いや……別にそんな事は、」

「コータ……こ、た……こう? こ、コータ……こ、う、た……」

 何故か指摘出来なかった。別にそんな事は必要ないと言おうとしたが口から声は出てこなかった。それゆえに、少女はそんな光太に気が付くこと無く発音の練習を続けている。

 妙に心がざわざわした様だった。何故こんな事になっているのかも分からない。だが、発音が訂正されるのならそれでいいと思ってしまった。何故かは分からない。だが、他の者にその『呼び方』を渡すのは何故か嫌だからかもしれない。何故嫌なのか、それがどうしても光太には分からなかった。分からないことだらけで光太自身も混乱する始末だ。

「こう、た……こうた……光太さん! これでいいですか!?」

「……え、ええ! バッチリだと思います!」

 苦し紛れにそう言っていた。少女は嬉しそうに笑っている。その笑顔になぜか苦笑してしまった。とりあえずもやもやするものを飲み込んで、光太は少女を改めて見た。

「それで、あの……聖女様」

「はい、なんでしょうか」

「僕、聖女様の事を知りたいです」

光太の発言に、少女はきょとんとした表情をしたあと顔を赤くしていた。特に深い意味があって言ったわけではないが、少女には衝撃的な発言だったらしい。色恋沙汰に興味はあるが立場上踏み込めない、とかそんな所だろうかと光太はなんとなく思った。

「し、知りたいって……ボクのことを、ですか?」

「はい。だって、なんだか……聖女様って言葉に慣れてなくて。無礼かとは思いますが、聖女様の事教えてください。出来れば、友達になってくれませんか? 僕、その……記憶とか無くて不安ですし。前を向きたいんです。僕の、初めての記憶になってはくれないでしょうか」

 愛の言葉か何かと勘違いしてないだろうか。少女の顔が真っ赤に染まっていることに光太は胸のうちで苦笑していた。だが、勘違いするなら勘違いさせるのも面白いかもしれない。

「あ、えと……その、」

 耳まで顔を赤くした少女がしどろもどろにコクリと頷いていた。光太は良かった、と胸を撫で下ろす。

「ぼ、ボクの名前は……先ほども名乗りましたがレティシア=アダムス。あの、ボク友達というのにどう対応していいのか分らなくて……唯一友と言えような存在とは今冷戦状態だし、その」

 冷戦とかいう物騒な単語が飛び出してきた。胸中で色々と突っ込みたくなるも光太は表情や声には出さなかった。真意を聞いたところでどうリアクションしていいか困る。ここは穏便に。自分は年上の男性としてスルーするのがスマートなのかもしれない。

 頬を染めた少女は恐る恐るといった様子で自己紹介を始めていた。光太は表面上は笑みを絶やさないようにして少女の話に耳を傾ける。

「その……友人関係というのをどのようにして構築すればいいのかボクには分りません。こんなボクで、良ければ……」

「十分ですよ。僕も……たぶんそんなに得意じゃない」

「…?」

「記憶が無いから友人との記憶もありませんが、おそらく僕もそんなに友人は多くなかったんだと思います」

 正直に言った。学生時代ならば人並みに友人は居たが学校を卒業してしまえば最早誰と連絡を取ることもない。結局学生時代限定の友人だったとは思っている。そんな彼等を責めるつもりは全く無いし自分も踏み込む気も無かったのでどうでもいいことではあるのだが。

「……そう、ですか」

 小さく頬が緩んでいるようだった。少女は仲間を見つけられて嬉しいのか年相応に可愛らしい笑みを浮かべている。

「……可愛いですね」

「え?」

「いえ、何でもないです」

 小さく呟いた言葉に唖然としているのか、少女は顔を赤らめたまま呆然としている。確かに、少女らしく可愛らしい表情だったのでそう評したのだが少女にとっては意外だったらしい。少女は恥ずかしそうに光太から目を逸らした。

「あ、あの……光太さん。その、ボクは貴方を守りながらフランスへ戻ります。ここには凶悪な犯罪者がいる。貴方を守りながらではボクにも少し荷が重い」

「あ……すみません。僕お荷物ですよね」

「いいえ。それでも背負うと決めたボクの責任です。ボクと一緒に、フランスへ来てください」

 まっすぐに向けられる真摯な瞳に、光太は少し気圧されるようだった。気高い気品のようなものに、光太は小さく笑みを浮かべる。少女でありながら騎士を思い起こさせる。なんとなく、『これなら面白そうだ』と思っていた。

「僕に行く当てはどこにもありません。連れて行ってくれるというのなら、どこへでも」

 そう返答を返せば、少女は満足げに微笑んだ。光太は胸中でガッツポーズする。闇の中の蛇が鎌首を擡げたようだった。

 金髪ちゃん、ゲットだぜ。

 そんなことを胸中で呟いていることはおくびにも出さなかった。

 少女改めレティシア=アダムスは光太の隣に座り、自分のことを話してくれた。

 聖女として崇められている事に誇りを持っている事。それ故に自分はしっかりしなければならないこと。そして光太としては重要なことになんとこの少女まだ現役の女子高生らしい。しかも16歳。若い。

「ピチピチ……」

「なんですか?」

「あぁ、いやなんでもありません。それで、聖女って結局なんなんですか? いや、純粋に分らなくて」

 光太の質問に、レティシアは特に不快な様子もなく顎に指を添えて考え始めた。

「そうですね……神に認められた存在、ですかね」

「神に認められるって具体的にはどんな感じなんですか?」

「そうですね……教会に大きく貢献したとか、人格的に徳の高い人とかですかね。ボクの場合は、体に聖痕が刻まれました」

「聖痕……?」

 光太は首を傾げた。レティシアは真剣な眼差しで頷いた。

「そうです。聖痕です。聖痕が刻まれた聖人は特に位が高く、大聖人とも呼ばれます」

「大聖人……?」

 聞きなれない単語に光太は思わず首を傾げていた。レティシアはそれでも快く教えてくれる。

「七つの美徳に分類される聖なる紋章です。その紋章が体の一部に浮き出るのです。見た目としては、焼き印が押されたような感じでしょうか」

「痛くないんですか?」

 光太の質問に、レティシアは苦笑していた。

「僕の場合は、眠っている間に浮き出たのですが……さすがに幼少期の頃で泣いてしまいました」

 恥ずかし気にレティシアはそう言った。気恥ずかしそうなレティシアに、光太はふと気づいた。体のどこかに紋様が出るのだ。それならば体のどこかにあるはずなのだ。

「聖女様の聖痕は……どこに浮き出たんですか?」

「……え?」

 光太の純粋な質問に、レティシアは一瞬呆然とした。そして、また顔を真っ赤にしてしどろもどろになる。光太は不思議そうにレティシアを見据えていた。

「聖痕って……手とかに出るんでしょう?」

「あ、いやその……ボクの場合は……」

「右の内太ももという大変際どい場所にあるのですよね?」

 唐突に。全く知らない男の声が乱入してきた。下卑た笑みがよく似合う気味の悪い声だった。背後から発せられたその声の主に警戒して光太は声の方向へと目を向けた。レティシアも驚いたように声のした方へと目を向けている。やってきた人物が意外だったらしい。

「アーノルド殿……いつの間に」

「驚きましたよ、聖女殿。突然約束を反故にして帰ると言われてしまったら」

 約束を反故にした? 光太は一瞬レティシアへと目を向けるがレティシアは動揺した様子もない。至極当然のことをした様な様子だ。堂々とした様子で謝罪を述べる。明らかに謝罪をする姿勢ではない。が、彼女の様子が何故か無理に虚勢を張って自分を大きく見せようとしているように思えて光太は何も言えなかった。どこか、恐怖を抱いている相手に恐怖を悟られないようにしているような、そんな感じにも思える。

「申し訳ありません。ですが、こちらも緊急だったもので」

「そんなにもレギンレイヴに会うのが恐ろしいので?」

 恰幅の良い男だった。光太の印象通り、下卑た笑みが大変似合う男だ。光太はその男を視界に収めて尚、警戒を解けずに居た。得体のしれない何かを相手にしている。

 そもそもこれは――――人間ではないと本能が警告している。

 男の発した言葉に、レティシアは言葉に詰まったようだった。唇を噛み締め、男を睨み付ける。

「貴方には関係ないでしょう。そもそもレギンレイヴとは誰でしょうか」

「確証は得られていませんが、おそらくレギンレイヴという男の本名はシルヴァン。シルヴァン=ブランシャール。双星の聖人の片割れですよ」

「シルヴァンは我が敬愛すべき兄様です。確証の無い発言は慎んでいただきたい」

「ですが、九割九分シルヴァンであると言われています。それに、シルヴァン氏、並びに兄のアルヴァン氏が行方を晦ましているのは貴方も知っているでしょう。あの二人の聖人は神に背を向けるように姿を眩ませたと聞いていますよ。特に弟のシルヴァン氏に至ってはブランシャール家の、」

「やめてください! 兄さん達が犯罪者なわけがない!」

 レティシアが否定するように声を張り上げた。男は彼女の反応を楽しんでいるかのようだ。光太は趣味が悪いと思いつつも、その行為に楽しさを見出す心境をなんとなく分ってしまうのが悲しかった。その楽しさは理解できるが傍から見るとやはり趣味が悪いと思えるものだ。今度から気をつけよう。

「まぁいいでしょう。イリスもここへ来たのはほぼ私情です。とはいえ、貴方が帰るなら吾輩も同行せねばなりませぬ。よろしいですか?」

「好きにして下さい」

 ふん、と顔を背けるレティシア。慇懃無礼な男は笑っているだけだ。ふと、そんな男と光太の目が合った。男は目が合った瞬間に目を見開き、そして嫌な笑みを改めて浮かべていた。光太は警戒心を解かずに男を睨みつける。

「……ふむ。男が出来たから帰る、と。聖女様。貴方の純潔は守られるべきもの。そう易々と男に渡すものではありませんよ」

「変なこと言わないでください! 光太さんはそんな人じゃありません! それに、ボクは保護するだけです。そんな関係じゃない!」

「そう怒らずとも。神は少しばかり嫉妬するかもしれませんが、貴方も年頃の乙女。一時の気の迷い位は許容してくれましょう」

「っ!」

 ギリッと。奥歯を噛み締めたようだった。傍観する光太と未だ慇懃無礼な態度を取る男の目線は合致したままだ。まるで、視線を外した方が負けとでもいうかのように睨み合っている。だが、視線を外したのは男の方からだった。

「まぁとはいえ。聖女様に同行するのでしたら吾輩とも行動を共にすることになります。申し遅れました。吾輩はアーノルド。お見知りおきを」

 慇懃に頭を下げるアーノルド。光太はアーノルドを睨み付けたまま答えるように名乗った。

「僕は、光太です。九光太。そう呼んでください」

 感情の乗らない声に、驚いたのはレティシアの方だった。光太は顔から完全に表情を消している。

 まるで、縄張り争いでもするかのように二人は睨み合っていた。

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