第35話愛するひと
「………………」
イリスは大きく息を吸い込むとゆっくりと吐き出していた。知らず知らずの内に行っていた深呼吸に気がつき思わず眉間に皺を寄せる。余り感じたことのない程よい緊張感。気分は高揚している。恐らく人生で一番なのではないだろうか。そんな気さえした。
窓の外を見れば、既に夜の闇が落ちている。街の喧騒も遠い高層のホテルだ。イリスにも心地よい静けさが舞い降りていた。イリスはソファから立ち上がり窓辺へ寄った。窓を開け放てば、熱帯特有のしっとりとした生ぬるい空気があった。ふと、下へと目を向ければ暴風のような勢いの風がイリスを下から襲ってきた。イリスは思わず風にさらわれた髪を抑えていた。暴風が過ぎ去ったことを確認して窓を閉める。そして、
「遅かったわね」
「そういう事言うなよ。頑張ったんだぞ」
軽い口調の声が転がってきた。イリス一人しか居ないはずの部屋に響くのは男の声だ。窓の鍵を締め、小さく口元に笑みを浮かべながら男の方へと振り返る。イリスが先ほどまで座っていたソファに、一人の男が座っていた。柿色の着流しを来た背の高い西洋人。暑いと文句を垂れながら右肩の具合を確かめるようにぐるぐる回していた。イリスは高鳴る鼓動を抑え、冷静を装いながら一歩男の方へ出る。
「まぁいいわ。お咎めは無しにしてあげる。久しぶりね、ゲル」
「あぁ久しぶりイリス。こうやって二人きりで会うのは何年ぶりだ? 数年前にお前が警察官として会った時はレギンが居たからなぁ……あれから十年? 十五年?」
「そうね……十年、という所かしら。私は十年も放置されていたのね。そろそろ放置プレイも飽きてきたのだけれど?」
「それは申し訳ないことをした」
イリスは我慢出来ないように口元に笑みを綻ばせていた。鉄面皮とか氷の女とか呼ばれる普段では考えられない笑みである。着流しの男、ゲルは豪快に笑うとイリスに手を差し伸べてきた。イリスは本当に嬉しそうに微笑むとゲルの元へと歩いて行きその手を取った。ゲルに手を引かれ、ゲルの膝の上に乗せられたイリスは愛おしい物を触れるようにゲルの頬を撫でた。
「貴方が私を捨ててから十年。早いものね」
「お前が勝手に居なくなったんだろうが。気づいたら養子に出されやがって。俺は迎えに行ったんだぞ? なんで孤児院を出た」
「オランダ人が私を引き取りたいって言い出したのよ。それがフェルナンデス伯爵ね。あの孤児院では金を出してくれる人が絶対でしょう? 幼い私じゃ選ぶ権利も無かったわ」
幼少期の頃である。二人の少年少女はとある孤児院で出会った。お互いに親など居ないし顔も覚えていない。少年はいたずらばかりするやんちゃ坊主。少女は寡黙で大人しい少女だった。普段視線すら交わさない幼い二人が交わしていた、小さな、そしてとても大事な約束。
「……変な事されなかったか?」
「そうね……せいぜい処女を奪われて泣かなくなった事位かしら。ねぇ……そんな……そんな汚れている私は、嫌?」
イリスの声は、ほんの少しだけ震えていた。そんなイリスに対し、ゲルは愛おしそうに頭を撫で、その瞼にキスを落とした。
「生憎、奪われたら奪い返すのが信条でな」
幼い頃に交わした約束。
少年は約束していた。少女を、必ず迎えに行くと。
イリスは奇妙な鳥の声で起床を余儀なくされた。手を伸ばしてみても一番欲しかった温もりの主は既に居なくなっていたのかベッドのシーツに残った温もりの残滓だけが指先に触れていた。欲しかった感触が無いことに気が付き改めて瞼を開いた。体に掛かっていたシーツを寄せ集めて体を隠し上体を起こした。その瞬間、窓が開いて勢い良く部屋の中に風が舞い込んでくる。思わず顔を背けて舞い上がる髪を抑えていた。風が収まり視線を元に戻すと、開け放たれた窓が残されているだけだった。
「全く……さっさと逃げればいいのに。私が起きるまで待っていたの? いいえ、違うわね」
クスリと笑う。ふと、ベッド際のサイドベッドに置かれた物が目に入った。何の包装をされるでもなく、生のままの状態で指輪が置いてあった。しかも、子供用のおもちゃである。所々塗装が剥げているところを見ると随分と年代物のようだ。その見覚えのある指輪に恐る恐る手を伸ばす。手に取ってよく見れば以前約束を交わした時の指輪である。嬉しさで震えてくる手でそれを包み込み胸に抱いた。
「あの男に奪われたと聞いたけれど、取り戻したのね。ふふ。嬉しい。嬉しいわ。こんなに嬉しくて大丈夫かしら」
本当に嬉しそうに、イリスは笑っていた。瞳から溢れた涙が止められない。シーツにこぼれ落ちる見慣れない雫にイリスは動揺していた。氷の女と言われたイリスの瞳からぽろぽろと零れた温かい雫はイリスとしても滅多に無いものだった。養子に出されてから泣かなくなった。伯爵に引き取られてから地獄のような日々を過ごしていた。それ以来、誰も信じないと誓ったのに。たった一人だけどうしても諦めきれなかった男。その男だけは何故かずっと信じていた。養子に行くまでに帰ってくると言ったのに。その約束が反故にされたのに何故かずっと心の隅で迎えに来てくれるのではないかと期待していた。それはきっと現実逃避だったんだろう。伯爵という悪夢のような現実から目を逸らすための小さな希望。結局それが叶えられることはなかったというのに。しかし、何故か追うように警察になっていた。信じていたのではない。あぁこれはきっと、執着だ。こんな幼稚な執着心を受け入れられる日が来るなんて思いもしなかった。
「バカね……相変わらず、鳥の鳴き声の真似も下手なのだから」
シーツに紛れて白い包帯が取り残されている。そういえば肩口に包帯を巻いていた。痛そうな様子もなく、至って健康体だったのであえて何も言わなかった。だが、外された包帯にはまだらに血の痕が残されている。包帯を辿って行くと、染みこんだ血の量も増えていくようだった。最終的には真っ赤に染まった包帯の終着点の先に、黒い鉄の塊がごろんと転がっていた。指でつまみ上げると形が歪になった銃弾だと気がつく。
「……撃たれてた? でも、昨日はそんな様子微塵も……」
痛そうな様子をおくびにも出さなかった。何か違和感を感じた。たとえ幻想遣いだとしても、銃で撃たれた傷を持ちながらあんなに平然としていられるだろうか。ただでさえ、無我夢中で抱きしめたというのに。
「……、」
何気なく包帯を改めてみる。真っ赤に染まっていた包帯の終着点。裏返しにして思わず喉が引き攣った。およそ人間の血の色とは思えない、紫色の血が数滴染み込んでいた。
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