第30話怨念

 頬を殴りつけられたのは本当に不意打ちだった。頭蓋骨に与えられた振動は直接脳みそに与えられ、一瞬頭の中が真っ白になっていた。思わず膝と手を床に着き、突然殴りつけてきた男を見上げていた。恐らく酒を飲んでいるであろう赤ら顔の看守だった。光太は殴られた頬を片手で撫で怯えたような目で看守の男を見つめている。

「突然、何を……、」

「ヒック……記憶喪失だぁ? 何意味わかんねーこと言ってんだよぉ!」

 赤ら顔のまま、酒臭い息を吐き出して看守は無造作に床に崩れ落ちている光太の腹を蹴り上げた。酒臭い看守の下卑た笑い声が光太の脳内に響く。うつ伏せに倒れた状態になっていた光太は立ち上がろうと床に手を着いたが、立ち上がろうとする光太の頭を踏みつける無礼な足があった。光太の頭を踏みつけ、手に持っていた警棒で光太の体を叩き始めた。

 先刻の事である。光太はたまたま歩いていた看守の背に声を掛けた。風呂に入りたい、と掛け合ったのだ。今でなくても夜になれば入れてくれるだろうと適当に検討を付けていたのだが、なぜかその看守が泥酔していた。新入りである光太には分からなかったが、囚人達の間では有名な暴力的な看守だったという。そんな事も知らずに声を掛けた光太は見事に看守の訳の分からない逆鱗に触れて現在こうして暴虐の限りを尽くされている。強く足で踏み込まれ、光太の額は硬い床に打ち付けられた。ぎり、と光太の奥歯が噛み締められて鈍い音を立てた。

「お前等犯罪者はなぁ、黙って俺の言うことを聞いとけばいいんだよ!」

 光太の頭に乗せられた足がぐりぐりと動く。尚も立ち上がろうと抵抗する光太を押さえつけるように、看守は下卑た笑いを上げながら足に体重を乗せてきた。光太が抵抗を諦め、床に這いつくばるのを確認すると看守は容赦なく背中を踏みつけ始めた。えぐり込むように光太の横腹を蹴り上げて仰向けにさせると顕になった腹までも容赦なく踏みつけた。周囲で光太を救おうとするものは居らず、遠巻きに眺めて自分は関係無いと目を逸らしていた。何度も何度も踏み付けられる光太の腹。

 腹を踏みつけ続け、光太の口から血が溢れ始めた頃他の看守がようやく気が付き慌ててその看守を止めに入った。暴行が終わったことを確認した光太が自分の口を抑えながらゆっくりと上体を起こした。咽る度に逆流して口から吐き出しそうになる血液を押さえ付け、ゆっくりと看守に目を向ける。遅れてやってきた警察官が光太の傍にしゃがみ込む。

「お、おい大丈夫か!?」

「……大丈夫ですんで、」

 警察官の肩を借りて立ち上がる光太。警棒で強かに叩かれた体には若干痛みは残っているものの腹程のダメージは無い。腹を抑えながら警察官に訴えた。

「風呂、入らせて下さい」

 光の灯らない瞳でそう言うと、警察官は心配そうに仕方がないと返答してきた。



 相変わらず蒸し暑いその気候に、レティシアは溜息を吐いていた。賓客として通されたホテルの部屋は高級スイートルームだった。巨大な窓から高層の部屋独特の絶景が広がっている。広すぎる部屋にもレティシアは少しだけ落胆している。付き従っていたお付のメイドは苦笑しながらレティシアが羽織っていた上着に手を掛けた。されるがままに上着を脱ぎ、レティシアは不愉快そうにメイドを見る。

「イリス女史との待ち合わせの時間までは?」

「あと三時間程度、という所でしょうか。お風呂でも入られますか?」

「……そうします。準備を」

 レティシアから命を受け、メイドはそそくさと部屋から出て行った。レティシアは溜息を吐き、荷物に入れていた文庫本を取り出した。普段滅多に読まない恋愛小説は、そろそろ佳境に向かっている。ソファに体を預け、レティシアはその文庫本を開いた。本を読み終わる頃、湯浴みの準備を終えたメイドから声が掛けられる。

 結局、その恋愛小説の結末は悲劇の恋だった。



 体に刻み込まれた痣の数々を見て光太は渋い表情をしていた。まさか本当に風呂に入りたい心境になるとは思わなかった、と胸中で舌打ちする。風呂に入りたい、というよりもある程度密室の水場に行きたい、が本音である。まさかあんな暴行を受けるとは夢にも思っていなかった。光太はシャワーを頭から浴びながら忌々しげに自分の体を見直していた。流石にシャワー室は個室だが、部屋の外では一人看守が見張りに立っているはずだ。光太はイライラして壁に拳を打ち付けていたが、特に何を言われるでもなかった。きっと先ほどの事を怒っていると分かっているからだろう。

「あの看守は殺せ。ただし献上品の魂は要らない。あんな薄汚れた魂なら要らない。殺したら捨て置け」

 ぽつぽつとシャワーにかき消されるような小さな声で光太はそう『誰か』に命じた。シャワーから出るお湯を止め、光太は深い溜息を出した。シャワー室から出ると、看守が用意していたバスタオルを差し出してきた。看守の目には哀れの感情が込められていた。恐らく暴行を受けた光太の体が余りにも痛々しかったからだろう。光太はやはり用意されていた囚人服を着こむと看守に声を掛けた。光太の指は近くにあった顔を洗う用の水道の蛇口に向いていた。

「すみません、腕の痣をもう少し水で冷やしても?」

「あぁ、いいぞ」

 許可を貰い、光太は蛇口に近づいていった。水を出して腕を冷やし始めると、光太が焦ったように看守を見る。

「ど、どうしましょう!?」

「どうした!?」

「水に……水に、吸い込まれるんです!」

「!?」

 驚く看守の前で、文字通り水に吸い込まれるようにして光太は姿を消した。



 この数分後、とある警察官により先程光太を暴行していた看守が銃殺されるという事件が発生したが、それはもう光太には関係の無い話だった。

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