第25話二匹目の蛇
『ゲルは言った。約束のハネムーンの地で渡すものがある、と』
録音機械から流れてくる淡々とした言葉。声は忌々しい『奴』の物だが、その台詞だけで胸は熱くなるのが分かった。
幻想課専用の資料室。かなりの数の古文書や、神話やお伽話が書かれた書物が秘蔵されている。イリスは戸棚の影に隠れてその録音された音声を延々とループ再生していた。その文言の所だけを、だ。
「イリス」
ふと、名前を呼ばれてイリスは録音機械の電源を切った。ゆっくりと足音のする方を見れば恰幅の良い男がにこやかに笑いながら歩いてきた。
「このような所で何を?」
「特に何も無いわ。どうしたの? アーノルド」
「いえね。この前のニホンで出会った蛇の話をもう一度聞こうかと」
男は笑いながらそう言った。幻想課所属のアーノルドという男だ。基本的にこの資料室はこのアーノルドの部屋と言っても過言ではない程この部屋を一番使っているだろう。仕事が主に資料を読み漁っての情報収集、考察だからというのも理由だ。とはいえ、彼の場合は趣味嗜好で資料を漁っている時があるのは否めないが。幻想の者達は何かしら出典元となる『お話』が存在している。そこから相手が何の幻想であるかと推察して弱点まで突き止めるのが仕事だ。相当な量の資料を読み込み、頭の中に叩き込んでいなければとうていたった一人に押し付けていい仕事では無い。アーノルドはイリスの隣まで歩いてくると相変わらずにこやかな表情でイリスを見る。
「何を楽しそうに聞いていたので?」
「なんだ。聞こえてたの」
「元々アラン殿から聞いておりましたよ」
ははは、と笑いながらアーノルドは資料の棚に手を伸ばした。その手には、茶色くて古い書物が掴んである。古ぼけたその本は所々に傷が刻まれ、汚れが目立つ。背表紙には馴染みの無い『漢字』が記されていた。
「探していた御仁がハワイにいるそうで」
「ええ。会ってくるわ」
「罠だとは思わないので?」
「罠だとしても行くわ。それに何の問題が?」
「貴方が納得しているのなら良いですよ。我輩も同行しても?」
アーノルドの言葉に、イリスの目が一層冷たさと鋭さを増したようだった。アーノルドはやはり笑いながら、そして手を叩きながら陽気に言った。
「そのように怒らずとも! イリス、名目は仕事なのですよ?」
「仕様が無いから許可するわ」
吐き捨てるように許可を出したイリスに、アーノルドはどこまでも陽気だった。手にした書物を開き、目を落とすがイリスとの会話を終わらせたわけではないらしい。普段何者にも物怖じしないイリスだが、この男の目を見て話すのは何故か苦手だった。この男の方から目を離してくれたのなら好都合とばかりに手元のボイスレコーダーに目を落とす。
「なに。貴方と一緒に行動するとは言っていません。あの聖なる怪物に同行申請をしたのでしょう? 我輩はそちらのお相手を立候補しただけですよ」
「釘を刺すようだけど、彼女は貴方のおもちゃではないわよ」
「心得て居りますとも」
朗らかに笑うアーノルド。イリスは一瞬だけ彼の手元に視線を寄越した。多頭の蛇が記されたページの様だった。一瞬の視線で捉えられたのはそれだけだ。絵として記された多頭の蛇は雄々しく雄叫びを上げるようにその多くの頭で一斉に空を見上げているように見えた。
「それで、聞きたいのだがね」
「何を」
「貴方が出会った日本の蛇というのは、最強の妖怪の一角であるヤマタノオロチで相違無いと?」
「恐らくね。日本の多頭蛇と言えば彼なのでは?」
「いいえ。それだけ確認できれば十分です」
「貴方、何を企んでいるの?」
「いえ、特には。ただ、何とも面白い対象だと思っただけですよ。イリス、貴方は幻想遣いの起源をご存知で?」
唐突なアーノルドの発言に、イリスは一瞬言葉に詰まった。一呼吸置いてから、ゆっくりと首を横に振る。
「……いいえ。17年前に突如として現れた、としか」
イリスの言葉に満足したのかアーノルドは笑っていた。イリスは不思議な物を見るような目でアーノルドを見る。
「それが最初の幻想遣い、通称スクルドですね」
「スクルドって……確か、『序章英雄詩(エッダ)』の、」
「そう。レギンレイヴ達の元親玉ですよ。彼女は、幻想使い達を集めて世界最強の戦闘集団をつくろうとした。ただ、彼女の悲願は結局達成などされなかった。彼女自身の死を持ってエッダが解体された。遺志を継ぐと思われていたレギンレイヴとゲルは彼女の活動の引き継ぎ等せずに現在逃亡。他の幹部勢も姿を消している」
「……スクルドは記録ではただの消息不明でしょう? どうして死んだと断言出来るの?」
そう、警察組織が保有しているスクルドの記録は消息不明で終わっている。死亡とは明記されていなかった。死んだと断言出来ないからだろう。そもそも死体が発見されていないはずだ。
「あれは、死ですよ」
だが、アーノルドは断言した。イリスは困惑した様子で彼を見る。だが、確固たる意志でもあるようにアーノルドは断言している。
「貴方も気をつけなさい、イリス。あれは幻想に飲み込まれた者の末路だ」
「飲み、込まれた?」
意味が分からずにイリスは思わず質問していた。アーノルドは片手でパタンと本を閉じる。
「幻想に侵食され、侵された者の末路。幻想は、ただ貴方達に手を差し伸べている訳じゃない。あれは現実に存在するための前段階にすぎない。彼らは人間の体が欲しいだけだ」
「どういう意味?」
「簡単な話です。彼らは人間の体を乗っ取るために生贄となる素体を探しているだけなんです。そして、侵食されて幻想に飲み込まれた人間はどうなるか」
「……死ぬの?」
イリスの言葉に、アーノルドは微笑んだ。優しさなど微塵も感じない、残忍な笑みだったがイリスはまっすぐにアーノルドを見る。
「ただの死ではありません。そのまま体を乗っ取られ、体が朽ち果てるまで幻想に使い潰される」
「………………」
「そういう意味で、スクルドは死にました。自我が崩壊し、幻想に侵食され『自分』ではなくなる。それを死と呼ばすになんと呼びましょう」
アーノルドから視線を外し、イリスはゆっくりと息を吐きだして目の前の資料棚を見る。確固たる決意を持って唇を開いた。これは、幻想遣い全員の話だ。イリスでさえ例外ではない。だからこそ、アーノルドは語り、『笑っている』。
「それでも、戦う力は必要だわ」
「そう。だから、負のループは終わらないのです。さて、話を戻しましょう」
「あぁ、例の蛇のことね」
気を取り直した様にアーノルドがそう言った。イリスはどうでも良さそうな口調でそう返事をしていた。だが、アーノルドにとっては大事なことらしい。
「その青年、中々興味深い。何せ、体を乗っ取りたいなら通常の幻想遣いの様に契約すればいい。だが、それをせずに中身の精神を殺してまで体を乗っ取った。いや、精神は破壊しているのか? もしかしたら精神を無理やり融合させたのかも。どちらにしろ時間を掛けずに体だけが目的だったわけです」
「英雄でも神でも無いでしょ。だから、乱暴に乱雑に。時間を掛けなかったんでしょう」
「いや、掛けれなかったのでしょう」
イリスの口がぽかんと間抜けに空いている。流石にアーノルドは苦笑していた。
「はは……ただ、貴方も知っているはずですよ。時間を掛けなければ、愛は育まれない」
「はぁ?」
とうとう声に出た。怪訝そうなイリスを無視し、持っていた本を眺めるアーノルド。
「貴方、何言ってるの?」
「いいえ、何でもありません。いや、貴重な時間を失礼いたしましたねイリス。我輩はこれにて」
鼻歌でも歌い出しそうな程上機嫌に、アーノルドはその本を抱えてイリスに背を向け歩き出した。イリスは呆けたようにその背を見送り小さく溜息を吐いた。
「相変わらず、分からないやつね」
「そう、早急に決着をつける必要がある。なにせ、時間を掛けなければ愛は育まれない。逆を言えば、早く事が済んでしまえば余計な情も湧かない。だからこそ普通の幻想使いとは違う方法で体を手に入れた。ヤマタノオロチ……同じ蛇としてこれほど……いや、観察対象としてこれほど興味が湧く対象もそうないでしょう。さぁ、貴方はどんな狂気をもってもう一度この世界を見に来たのですか」
くっくっと笑う。面白くて仕方がないといった様子だった。それは、哀れな蛇をただただあざ笑う。
「くふふ……何とも面白い。研究したくてたまりませんな。あぁ、ご安心をお父上。仕事はちゃんとやりましょう。いやしかし……くふふ」
新しいおもちゃを見つけた子供のように。アーノルドはひたすら、ただひたすらに笑みを浮かべていた。
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