第2話光太

 

 九(いちじく)光太はゆっくりと瞼を開いた。自分の顔を覗きこむ蒼い瞳とバッチリ目が合う。その瞬間、朧気だった意識が一気に覚醒へと上って行った。自分の顔を覗きこんできたのが妙齢の美人だったからだろう。誰だか分からなかったが、その女性に膝枕をされているということを理解してしまい、光太は飛び起きると同時に目に見えて狼狽した。そんな光太の反応を見て、女性はキョトンとした様子で眺めているだけだ。

 彼女の顔になんとなく見覚えのようなものを感じ、光太は動きを一度止めてじっくりと彼女の顔を眺めた。目が合うとなんとなく気恥ずかしさを感じて頬が紅潮するのが分かる。美人と目を合わすものではない、とつくづく実感してしまった。

「……あ、」

 光太は恥ずかしげに目を逸らしながら、彼女の顔に思い当たったのかもう一度彼女に目を戻した。よく見れば彼女の後ろのブランコに同行していた男性の姿もある。先ほど出会ったフランス警察の二人組であった。

「……あ、すいません」

「大丈夫か?」

「だ、大丈夫……です」

 頬を紅潮させながらそう答えると、彼女はやはり不思議そうな表情だ。光太は必死に頭を巡らせて言葉を探した。

「えーっと、それで……なんで僕膝枕なんてされてたんですか?」

「倒れていたからな。一応怪我が無いか確認させてもらった。一見した所大きな怪我も無い様で何よりだ。ベンチにそのまま寝かせたら頭が痛いかなと思ったんだが……ダメだったか?」

「ダメじゃありません! 寧ろありがとうございます!!」

 下心丸出しで感謝する光太に不思議そうな表情の女性。男性はそんな光太に胡散臭そうな表情を向けている。男性としては光太はあまり快く思っていない存在らしい。だが、光太としては今男性の事等どうでもいい。問題は女性の方である。こんな妙齢の美人に巡り合える等普段では到底無い事だ。折角だしお近づきになりたい。そろそろこの美人と目を合わすのにも慣れてきたことだし。

「そんなにお礼を言われる事はしていないよ。あぁ、そうだ。名乗るのが遅れたな。私の名前は、リノア・デファンドル。そしてこっちが、アラン。アラン・ギヴァルシュだ。君は?」

「光太です。九光太と申します」

 にこやかに返答する光太。リノアはそうか、と微笑み光太の名前を反芻するように自分の口で呟き始めた。

「イチジク……イチジク?」

「あ、光太でいいです」

「コータ?」

 舌足らずな感じがなんとも可愛らしい。合格点である。凛とした印象とのアンバランスさも相まって中々良い物を見た気分になった。光太は口元に笑みを浮かぶのを必死でこらえ、リノアを微笑ましい気分で眺めた。アランなる男性はそんな光太の様子を油断ならない表情で眺めているだけだ。まるで恋人に擦り寄る男を眺めている目と酷似していると気が付き、光太はごほんと咳払いを一つした。アランは明らかに苛立った表情で光太を眺めている様子である。そんな心理まで見抜けるかと光太は声に出しそうになったがとりあえず堪えリノアに視線を戻した。

「コータ。コータ……コータだな。よし、大丈夫だ」

 うんうんと満足げに頷き、リノアは笑っていた。何が嬉しいのだろうか。人の名前を覚えるのが嬉しいのだろうか。そう考えると中々無邪気な面も見えてきてさらに点数増加だ。花丸をあげよう。

「あー、それで。さっきの男の人は捕まえられたんですか?」

「……いや。捕まえる事は出来なかった。コータに肩車して目の前に現れて来てくれたのだから捕まえたかったのだが生憎と叶わなかったよ。仇を取れなくてすまないなコータ」

「あ、僕死んでないですけど」

 拳を握りしめ、本気で悔しそうな表情をするリノアにそう返答する光太。そういえば顔面と胸を強打したのだが骨の方は大丈夫だったのだろうかと今更心配になってきた。その事を思い出し、はたと光太は動きを止めた。その様子に、リノアは不思議そうな表情で光太に目を向けてくる。アランもどうかしたのかといった様子で光太に視線を集中させていた。光太の目線は定まっていなかった。体と同じように瞳孔が震えている。光太の右手が恐る恐ると言った様子で心臓が収められているはずの左胸に触れた。

 とくん、とくん、と。

 鼓動を打つ心臓が確かに感じられる。光太はゴクリとツバを飲み込んだ。

 どうして今まで気が付かなかったのか。

 男の姿がフラッシュバックした。

 赤い拳銃の銃口がこちらに向いている。そして、鮮明に思い出される男の言葉。

『お前、ホントに人間か?』

 その言葉と共に、綺麗だと思った拳銃は火を吹いたのだ。誰でもない光太に向けて。どうして気が付かなかった。

 自分は確実に、心臓を射抜かれたはずなのに。リノアはなんと言った? 『一見した所大きな怪我も無い様で何よりだ』。そう言ったのだ。おかしい。心臓を射抜かれたのならこんな悠長な会話等している場合ではない。何よりも彼女がこんなことを言うはずが無い。

 おかしい。

 何もかもがおかしい。

 心臓を撃たれれば人間は確実に死ぬだろう。だが、ここにいる警察官二人は救急車を呼ぶことも無くたかが膝枕で事を収めている。そんなことがあり得るだろうか。いや、光太の常識ではあり得ない事だろう。光太は改めて自分の格好を見た。出掛ける時と何ら変わらないパーカーにジーンズ姿。おかしい。

 出血したはずの光太の血が一切付着していないのだ。

 夢だった? それにしては恐ろしくリアルだ。それに、いつ意識が混濁した? 石畳に胸を強打した時か? いや、あの時の痛みは明確に思い出せる。あんな一瞬で意識が混濁し、夢等見るだろうか。余りにもリアル過ぎる夢に戦慄すら覚える。

「コータ? どうした?」

 心配気なリノアの声で光太は我に返った。そして、自分は多量の失血をしていなかったか、銃で撃たれたんですと唇が動き掛け光太はその動きを止めていた。

 今ここでそんな事を言ったらどうなるんだろうか。とりあえず事実を確認するために服を脱がされて胸を確かめられるだろう。夢だと笑われるだろうか。それとも――――ならどうして生きているのかと問い詰められるだろうか。なんとなく、最後の答えは嫌だった。その返答を恐れ、光太は唇を引き締めて結んだ。そして、引きつったような笑みを浮かべて改めて唇を開く。

「大丈夫です。ちょっとめまいがしたので」

 苦し紛れの言い訳を口から出していた。リノアは今だ訝しんだ様子だったが、それ以上追求してくる事は無く、光太はそれ以上の嘘を吐く事はなかった。リノアが自販機で買ってくれた缶コーヒーを差し出してくる。光太はその缶コーヒーで手を温め、ゆっくりと息を吐き出した。

 九光太は普通なのだ。普通の人間なのだ、と。そう思わせなければ自分が壊れてしまうようなそんな気さえして、光太は唇を閉じたのだった。

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