第四章・その2
「海部さん、どこに行くの」
翼が声をかけると、セーラは振り返って言う。
「アキって、覚えてる?」
「確か、オアシス21やらで会った人だっけ」
茶髪の女性という印象があるが、実は男性だと後でセーラに説明された、あの人物。翼にもすぐに顔が結びついた。
「そう。──昨日の夜ね、錦三丁目でNPAに追われてる彼を助けたの。彼に頼られてね」
セーラは進行方向に向き直り、歩きながら続ける。
「NPAって、何の略か覚えているかしら」
「……確か、アメリカの国家平和なんたらだっけ」
「そうね、アメリカ合衆国の秘密情報機関・国家平和計画局で合ってるわ」
ふう、と一度セーラはため息をついた。
「種明かしをすると、八月三十日に追われていた理由はね、アキに会う約束が出来るくらい、私が彼に近いところにいるからよ」
「海部さんが目的でなく?」
「そう。──彼らの目的は、あくまでアキだけよ」
つまりセーラ自身を追っていたわけではなく、セーラの前に現れるアキを求めてセーラは追跡されていたということになる。だからセーラはあの時、「追っ手を撒いてから」アキに会ったのだ。
「……何故、何故アキは追われているんだ?」
「世界一の大国として、交渉失敗は許されざる行為だったの」
東階段入り口の鉄扉の前で、セーラは再び立ち止まる。
「アキは最初、アメリカ合衆国に『世界を選択するための』交渉を持ち込んだわ。けど結果的に、交渉は失敗に終わった。詳しいことはさすがに話せないけど。──問題はアメリカ側の心情よ。他のところに同じような交渉を持ち込まれて、成立してしまったら。アメリカの権威が落ちることは必至ね。だから、NPAを動員してまで、アメリカは彼を探し出そうとした。その結果、ついに昨日、彼は見つかってしまった」
セーラが髪を撫でると、パラパラと艶やかに、黒髪が流れ落ちる。
「アキが助けを求めたのは、私だったのよ。私は彼をNPAから逃したわ、情報屋のツテを使ってね。なかなか難儀だったわ、人一人を隠し切るのは」
前髪を搔きわけ、ため息をつくセーラ。
「だから昨日アキを逃した私は、その代償としてNPAに狙われるの。──今からね」
バン。銃の発砲音らしき音が周囲に鳴り響く。それをスタート合図にするかのように、セーラは走り出す。
セーラは普通教室棟の東階段をかけあがり、三階へ。翼もそれを追いかけ、同じく三階の図書館前へ到着した。
「建物の三階なら、さすがに大丈夫なんじゃ」
翼は息を切らしながら、セーラに尋ねる。
「そうね、普通は大丈夫だけど、」
セーラは窓の外を見て、とっさに翼を伏せさせる。
「──相手が相手だから、ただの一時しのぎにしかならないわね」
パン、と突然、直近の窓ガラスに蜘蛛の巣状のひびが入る。
「狙撃、か……?」
「最悪殺してでも、と思われているらしいわね。さすが、手段を選ぶ余裕はないというべきか」
二人は普通教室棟南側の廊下へと移動した。手すりより下に身をかがめ、ゆっくりと奥に向かって歩き出す。
「あっちの棟の方が安全じゃないのか、ここより」
「展開教室棟? ──だめよ、こっちの方がまだ安全だわ」
セーラは床に「上」の漢字を左右反転したような形の平面図を指で書き、つなぎ目の部分を丸く囲って示す。
「この、展開教室棟と事務棟の境目部分に射線が通るだけの隙間があるの。そこを通るギャンブルは出来ないわ」
「けど、この半分屋外の廊下よりは安全じゃ」
「手すりがコンクリート製な分、射線は通りにくいの。それに、教室が間にあるとはいえ道路側に行くのはよい手段とは言えない」
その理屈は、翼にも理解できた。しかし、まだ腑に落ちない部分がある。
「この先、どこへ行くんだ?」
「渡り廊下よ」
翼の問いに、セーラは即答した。
「渡り廊下?」
「そう、この階の渡り廊下ならある程度安全だわ」
最上階の四階はともかく、下の階の渡り廊下は壁があるのでこちらの動きは読まれないという算段である。
普通教室棟の中間、二年G組教室の前から渡り廊下へ移動すると、セーラは床に腰を落とし大きくため息をつく。
「ある特定の人物を職務質問するよう、事前にタレコミを流しておいたから警察も不審者事案として動いているはず。藤枝くん森岡さんの二人も主体的に動いてくれるはずだわ」
「じゃあ時間さえ稼げれば──」
「NPAが警察の動きごときで簡単に諦めると思う?」
しつこくアキを追っているNPAが、そう簡単にセーラの攻略をも諦めるとは到底思えないことは、翼にとっても明確に理解できる。下手すればいつどこで自分が襲われるか、判らないまま過ごす日々がセーラに訪れるということでもあって。
「海部さんを、守らなきゃ」
翼の口から、自然に出たその言葉。それを聞いてセーラは笑い出す。
「何がおかしいんだ?」
「あなたが私を『守る』、なんてね。おかしすぎるわ、まったく」
セーラが相変わらず笑うので、翼としては不満が隠せない。
「前にも言ったかしらね、助けられた分際で『僕が、君を助けるよ』なんて言った彼の話は」
「まあ、聞いたけど」
セーラと翼が初めて会ったあの日、翼は「セーラが助けを求めている」と表現した。それを思い出し、セーラは目を閉じて微笑む。
「そうね、ならあなたの力、使わせてもらうわよ」
セーラはスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかける仕草をし始めた。
* * *
『クロスフィア特命係の勝見健太郎係長、本名・加藤克巳係長の携帯電話でよろしいかしら』
突然かかって来た、見知らぬ携帯番号からの電話。しかも向こうは自分のことを完全に把握している。不可思議な内容だったが、克巳は電話を切らずそのまま相手の言葉を待つ。
『クロスフィア研究所のアキは知っているわね。昨日も会っているはずだし、アメリカ合衆国の秘密情報機関・国家平和計画局に狙われているってことも、知っているはずね』
もちろん、克巳は知っていた。セーラに対してアメリカの情報機関が尾行をしているという事実は耳に入っていたし、健夫から昨夜の件について報告は入っていた。しかし放置せざるを得なかったのだ。それは、日本という国がアメリカ合衆国と同盟を結んでいる以上、彼らの邪魔をすることは政治的問題に発展する懸念があるからで。
『国家平和計画局がアキを追うことを止めるよう、アメリカ側に働きかけてくれないかしら。それが私の要望よ。もちろん政治的問題があることは知っているわ。でも、政治的にしか解決できない問題よ』
克巳は目を瞑る。電話の相手は海部セーラだろうと予想することは簡単だった。この要望を飲めば、セーラの情報網から下りてくる情報が多くなるかもしれないという打算も考えのうちに入る。逆に、飲まなければセーラの喪失により情報網が機能不全に陥り、情報不足になることも考えられる。しかし、下手すればアメリカの情報機関から情報が手に入らなくなる危険性もあるのだ。日本における最大の情報提供元はアメリカから、するとそこから情報が入らない自体はたとえ一時的でも致命的だ。
『簡単には頷いてくれないでしょうね。デメリットが大きすぎるもの、一人の意見では判断できない事案だってことも知っているわ。だから、こちらも取引の材料を使わせてもらうわ』
取引の材料とはなんだ。嫌な予感が克己の脳裏をよぎる。
『もしこの要望が迅速に通らなければ、私は翼くんを盾にして生きていくわ。アキを逃したせいで、私の命も狙われているのよ。だから当然のことね』
「……内閣情報監を呼んでくれ。国家安全保障会議を開く準備もだ、大至急!」
「は、はい、手配します」
近くで書類を作成していた仙田が慌てた様子で内線をかける。
『ご協力、感謝するわ』
電話が切れると、克巳はただ、頭を抱えるのみだった。
克巳から内閣情報監にセーラの要望が伝えられ、内閣情報監は霞が関の内閣府庁舎から永田町の官邸へ走り、佐藤吉雄内閣総理大臣へ報告を行う。
「それはつまり、合衆国に非協力的な態度を取るということか?」
「解釈によっては、そういうことでございます」
総理大臣官邸五階・総理執務室には官房長官と外務大臣も呼び出されていた。押野北米局長にも招集がかかっているものの、到着は間に合っていない。
「しかし、人命に関わる事態です。迅速なご決断を」
内閣情報監は総理大臣を促す。
「しかし、たかが市民一人だろう? それと合衆国との関係をトレードするのはいくらなんでも」
「たとえ国民一人だろうと、人命に勝るものはあるとお思いですか!」
「しかし、要求には屈するなとマニュアルには」
テロリストの要求に国家の方針を揺るがされてはならない、とされている。一度要求が通ってしまえば一度ならず、次の要求へとつながってしまうからだ。
「テロリストの要求ではありません、マニュアルを気にする必要などありません」
「合衆国との関係が悪化してしまったら、そちらも困るのではないか?」
「国民の命には代え難いものでございます。それに手段はいくらでも代わりはありますし、いつまでも関係悪化が続くような、そんな軽い日米同盟でしょうか」
「うむ……」
「総理、ご決断を」
内閣情報監の懸命な説得に、ついに総理大臣は折れた。
「……解った、ホットラインをつなげ」
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