第三章・九月四日

第三章・その1

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。……ぼくはおっかさんが、本当に幸いになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸いなんだろう」

 そんなカムパネルラの言葉を頭の中で呟きながら、翼は地下鉄に揺られる。手元の台本に目を落とし、合っていることを確認すると翼はため息をついた。

(何とか、頭の中に入ったかな)

 舞台造形班は土日も学校で作業するとのことだったが、翼の課題はカムパネルラの台詞を暗唱できるまで頭の中に叩き込むことだった。そのため土日の間翼はひたすら、荷物の片付けと台本を読み込むことだけに集中した。

『まもなく星ヶ丘、星ヶ丘。お出口は右側です。市バスターミナル・東山植物園方面は、ホーム中央の階段をご利用ください』

(いけないいけない、集中しすぎて乗り過ごすところだった)

 翼は立ち上がって、扉の方へと向かう。

 改札を出て金曜日と同じ坂道を、翼は登る。同じ坂道だが、金曜の帰り道、賑わうショッピングモールの様子を見たおかげで少し寂しげにも感じた。それは一人で登校していることにも由来するかもしれない、とも思うが。

 高校に着き、階段を上り、教室の前でスリッパに履き替える、そして教室に入る。今後は日常となる、一連の操作に新鮮味を感じるのも今だけだろうか。そんなことを翼は思う。

「翼くんおはよー!」

 教室に入ってきた翼に、翠が声をかけた。

「おはよう、鶴里さん」

 自分の席にカバンを置くと、翠は翼の席まで近づく。

「今日から通常授業ってことで、張り切ってる?」

「別に、張り切るとかそういうのはないと思うけど……」

「そういう考え方は、メ、だよ! 日常を楽しまなきゃ!」

 海部さんによって非日常に巻き込まれてるんだよなぁ、と翼は思ったが声に出さない。

「翼くんは得意科目とかある?」

「得意不得意というより、地理とかは好きだけど……」

「ほうほう、地理かい地理、地理ちゃんかい」

「鶴里さんは、何が得意なの?」

「私? 私は数学かな」

 そんな他愛のない話をしていると、セーラが姿を見せる。

「おはよう、セーラちゃん!」

「朝から相変わらず元気ね」

 セーラは素っ気なく答える。

「おはようにはおはよう! 挨拶の基本!」

「朝からそんなに絡んでいたら、男友達を作る機会を無くしているとは考えないのかしら」

「翼くんを連れ回してるセーラちゃんが言えること?」

「私は人の紹介をしているだけだわ、その分有意義よ」

「むー」

 この口喧嘩、止めるべきかと翼が悩んでいると

「大丈夫、いつものことよ」

 それを知ってかセーラは翼に声をかける。

「それより、カムパネルラの台詞は頭に入ったかしら」

「まあ、大体は」

「そう、なら授業終わってからが楽しみね」

 八時二十五分、予鈴のチャイムが鳴る。

「そういえば、なんでクラスの劇が『銀河鉄道の夜』なの?」

 金曜の夜、父親との電話で浮かんだ疑問を翼は翠に聞く。

「んー、なんでだっけ」

「今年の降星祭のテーマが『幻』ということで、幻想的な世界を表現するこの作品にしたんじゃなかったかしら」

「さっすがセーラちゃん!」

 ポン、と翠はセーラの肩を叩く。

「それくらい、実行委員は覚えておくべきだと思うけど」

「うっ……。それじゃあ、また次の放課でね!」

 放課ってなんだろう、と翼は思った。

 翠が自分の席へと戻ってしばらくすると担任の松林が教室に入ってきて、チャイムが鳴ると同時に朝のSTが始まる。出欠確認や諸連絡事項の伝達などが行われ、そのまま休み時間を挟むことなく一限目へ。

 一限目・翼にとって星が丘高校初めての授業は現代文だった。しかし現代文は教師による教え方の差が大きい科目であり、そのため「慣れ」や「自分に合っているか」が重要になってくる。幸い翼は担当の宮近の教え方が合っていたようで、すんなり馴染むことが出来た。

 一限目が終わると次は物理。特別教室棟二階に物理講義室はあるものの、事前に教室での授業と連絡が入っているため誰も移動する様子はない。

「宮近先生の授業、どうだった?」

 早速とばかり、翠が翼の席にやって来て聞く。

「解りやすかった、というより自分に合ってたって感じかな」

「ふむふむ、確かにみやちーは面白いよね!」

「面白い、とはまた違うと思うけど」

「そう?」

「というよりみやちーって……」

「え、可愛くない?」

 翠の感性はいまいち理解できない、と翼は思う。

「みやちー可愛いよね、ねえセーラちゃん?」

「かわいいかはともかく、上手い授業のやり方はするわね」

 話を振られ、左隣の席のセーラも翼の意見に同意する。

「書き手の気持ちを知るには自らが書き手にならないと解らない、ってことで短いながらも創作をしたりしたのは楽しかったし、なかなか貴重な体験だったと思うわ」

「ねー、結構楽しかった!」

「翠さんは意味が理解し辛い作品だったわね、宇宙人がやってくるのを手からビームを出して倒す感じだったかしら」

「覚えてることはすごいけど、そんな変な作品だった?」

「何故ミントガムを食べるとビームなのかしら」

「トレハロース的な何かなの!」

 ふと、翠が時計を見る。

「もうすぐ授業始まるね。次は柳田先生だよ、この先生も面白い先生なんだ!」

「脱線はするけど、面白い先生ってことには間違いないわよ」

 翠とセーラ、二人の意見が一致するってことはどんなに面白い授業なんだろう。翼の期待感が増したまま授業開始のチャイムを迎えることとなった。


   * * *


 三限目は移動教室である。

「オーラルだよオーラル! オーラルコミュニケーションだよ翼くん!」

「何故わざわざここまで来るのかしら」

 そんなに楽しみなのかな、と翼は見ていて思う。

「翠がこんなに浮かれてるのは、視聴覚教室での授業があるからよ」

 そこに、歌穂が来て翼に教える。

「どうして、視聴覚教室とやらが楽しみなんだ? 映画でも見るのか?」

「それはね、──」、

「それは! 視聴覚教室が恋のスポットなんだからだよ!」

 突然、翠が叫ぶようにして言った。

「机に残る無数の落書き、そう、その中には恋の詩も混じっているに違いない!」

「小説の読み過ぎよ、翠」

「実話じゃないの、あれ!」

「そうやって騒ぐ人が増えたから、机に落書きしてないかチェックされるようになったの、忘れたのかしら」

「ロマンは追い求めるものよ!」

 そんなやり取りをしながらも四人は教科書を手に二年C組の教室を出て、渡り廊下を通る。

「ちなみに、何でそんな話があるのか教えてあげるね」

 歌穂が翼へと話しかけた。

「『机上詩同好会』って、知ってるかな。中学校の英語の教科書にも採用されているけど、知らないかしら」

「いや、全然」

 翼には聞いたこともないタイトルである。

「まあ簡単に言えば、その作品のモデルになったのがこの学校だと言われてるの。『机上詩同好会』を作った人がこの高校出身だって噂も重なって、一学期ブームになったのよ。そのブームを引きずってるのが翠よ」

「引きずってるって失敬な。今でもブームは健在だよ!」

「そう思ってるのは翠だけよ」

「ブームだよね、翼くん!」

「いや、聞いたことなかったし……」

「ブームだよね、セーラちゃん!」

「……まあ、下火ってところだから消えてはないわね」

「ほら!」

 二人が無視し始めたので、翼もかわいそうに思いながらもスルーすることにした。

 特別教室棟の西階段を二階分上がっている間も、翠は「机上詩同好会」という作品の魅力を語り続ける。三階まで上がって右、西に折れるとそこに英語科準備室、奥にELT教室、そしてさらに奥には視聴覚教室がある。

「三宅さんが後半組だったから、加藤くんも私と同じ後半組かな。翠とセーラちゃんとは分かれることになるか」

 セーラと翠はELT教室、歌穂と翼は視聴覚教室へ向かう。教室の前でスリッパを脱いで、靴下の状態で教室の中へ。

「それにしてもセーラちゃんと一緒にいない翼くんなんて、珍しいかも」

 座席しかり、降星祭の演劇しかり、なんだかんだで確かに海部さんとセットになってるのだと、翼は改めて実感した。

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