第16話 特別な場所
「他に気配はないけれど、何かあっても困るし……また今度にしようか」
少し悲しげに笑んで馬の頬を軽く撫でるキースを見て、リリィは咄嗟に彼の袖を摘まんだ。
キースの言葉に悪い予感がしたわけではない。
ただ、このまま帰るのも惜しい気がした。
「わ、私なら大丈夫。せっかく、ここまで来ちゃったし……」
「…………」
「……あ。でも、ケガしちゃったら大変よね……」
勢いで言ったことを少し後悔した。
魔族は退けたが、新手が来ないとは言い切れない。そこでキースがケガをしないとも。
だが、キースは表情を和らげると視線を落としたリリィの頭を軽く撫でた。
「ありがとう。それじゃ、お言葉に甘えて」
「きゃ……!?」
「一気に駆け抜けるから、しっかり掴まってて」
突然、視界が大きく揺らいだかと思えば、キースによって抱えられて再び馬上に乗せられた。
リリィの後ろに乗ったキースは、今度は舌を噛まないよう事前に告げてから馬の腹を軽く蹴った。
勢いで後ろに倒れたリリィはキースに当たって落ちることはなかったが、スピードへの恐怖心で目が開けられない。
魔族が立ち塞がっていた林に入ったのか、空気が幾分か涼しくなった。やがて、風に乗ってきたのか、微かに懐かしい香りが鼻腔を擽る。
鼓膜を打つ風の音が小さくなっていく。
それに合わせて馬のスピードが緩くなっていき、キースは手綱を引いて馬を止める。
「ほら、着いたよ」
「わぁ……! お花畑?」
「そう」
視界に飛び込んできた光景に感動の声が自然と零れた。
先ほどまではほとんど緑だった草原が、緑以外の様々な色の混ざる草原となって目の前に広がり、その向こうには穏やかな海が見える。
草原を彩るのは様々な種類の花だ。あちらこちらで咲き乱れ、優しい風に吹かれて揺れていた。
「ここ、僕のお気に入りの場所なんだ。少し横に逸れると下に行く細い道があって、下って行くと砂浜に出る」
「とても綺麗ね……! ……あ! あれは?」
キースが先に馬を降り、リリィの脇腹辺りを支えて降ろす。
その途中、リリィは草花の合間からひょこっと顔を出した小さな生き物に目を輝かせた。
緑と白い花の間では目立つ茶色の毛。長い耳はぴんと立ち、辺りを警戒しているようだ。黒く丸い目は真っ直ぐにリリィ達を見据えていた。
「あれはウサギだね。この辺りに住んでるのか、たまに見かけるよ」
「可愛い……。……噛まない?」
「どうかな? 野生は警戒心が強いから」
海鳥とは親交のあったリリィだが、陸上の生き物は初めてだ。しかも、今も幻聖族ではあるが人魚の姿ではない。
果たして海鳥達のように心を開いてくれるだろうか。会話ができるのも、前提に信頼されているのが条件としてある。
「おいでー」
『…………幻聖族が、なんで人間と一緒に?』
言葉の壁に関しては杞憂だった。
どうやら、こちらの思いは通じたようだ。ただ、リリィの後ろにいるキースを警戒しているが。
最もな疑問であろう言葉にリリィは苦笑しつつ、ぴょこぴょこと跳ねてきたウサギを地面についた膝上に乗せた。
「色々と訳ありなの」
『幻聖族も大変なのね』
「ありがとう」
ウサギは海鳥達と違ってフランクな姿勢だ。それを失礼だとは思わないが、どこか新鮮な気持ちになれた。
膝で身を丸めたウサギの頭を撫でてやれば、気持ち良さそうに目を細める。
さらに、他にもウサギがいたのか一羽、二羽……と次々と姿を現した。黒や白、茶色と色は異なる。
『幻聖族だ!』
『何してるの?』
『珍しいのぅ』
「家族?」
『……一応はね』
集まってきたウサギ達は膝にいるウサギよりも少し小さい。かといって子供ではないものも混じっているようだ。
珍しい幻聖族の訪れに湧き立つウサギ達と話をするリリィ。
その姿を眺めていたキースは、改めて彼女が自分とは違う種族なのだと実感した。
自分も動物の言葉が分かれば……と思いつつ側にいる馬の首を優しく撫でる。もちろん、特に答えはないが。
「お前も、彼女と話ができるのかい?」
「…………」
「って、私の言葉は分からないか」
黒曜石を思わせる黒い瞳がキースを捉える。だが、頷くわけでも鳴くわけでもなく、単に声がした方を向いているだけだろう。
苦笑を零したキースだったが、ふと、耳に美しい歌声が入ってきたことに気づいた。
「これは……」
今でもはっきりと覚えている。
魔族討伐で出航する直前、気を落ちつかせるためにここへやって来た時に聴こえた歌声と同じだ。
風に乗ってきたその声に誘われ、気づけば坂を下りて砂浜に出ていた。
この砂浜は町のすぐ近くから続いており、そのときの気分次第で浜辺を通るか先ほどの林を通るかを変えているのだ。ただ、砂浜は馬が疲れやすいため、二人乗りをしている今回は林の方を通った。
しかし、今聴こえてくる歌声はすぐ近くから。
前を向けば、ウサギに囲まれたリリィが楽しげに歌っていた。肩には小鳥まで留まっている。
(絵画を見ているみたいだ……)
花が咲き乱れる草原で、野生動物に囲まれて歌う姿はどこか現実離れをしている。
ふと、白く小さな花弁を多く持つ丸い花を見つけたキースは、あることを思いついて花の傍らに片膝をつく。
(お母様に教えていただいたのも、随分昔の話だけれど……)
花の茎に手を添えて丸く形作る花を摘み取る。
馬の手綱を離してしまったが、馬もリリィの歌声に聞き入っているのか逃げる素振りはない。
キースは小さく微笑むと記憶の奥深くを探りながら手を動かした。
周りにいたウサギ達が何かに気づいて一瞬でリリィから離れていった。
何事かと思った直後、頭に何かが乗せられた感触がして、リリィは歌うのを止めて不思議そうに見上げる。
「……?」
「ごめん。邪魔をするつもりはなかったのだけれど……」
リリィの斜め後ろには苦笑するキースがいた。
何を乗せたのかと頭を手で触れば、何か柔らかい物に当たった。
固まるリリィを見かねたキースが乗せていたそれを取り、リリィの隣に片膝をついて見せた。
細い茎は複雑に編み込まれ、一つの輪を作っている。白く丸い花が緑の冠を飾っていた。
「『花冠』って言う物でね。花を編んで作るんだ」
「わぁ……! 可愛い!」
「昔、お母様が教えてくださったのを思い出してね。久しぶりだから、ちょっと歪なところもあるんだけど……」
「キースのお母様が? 凄いわね。こんな可愛いらしい物を作れるなんて……」
キースは歪だと言うが、初めて見るリリィでも何処が歪んでいるのかと聞きたくなるくらいに綺麗な出来だ。
これをあっさりと作ってしまうキースの母親はどんな人なのだろうか。
感心するリリィだったが、キースは何故か表情を僅かに曇らせた。
「そう、だね。とても優しくて、手先の器用な人だったよ」
「『だった』?」
「……僕の両親はね、もういないんだ」
「え……」
言うべきか否か、迷った挙げ句にキースは告げることにした。
隠していてもいずれは分かることだ。また、彼女には自分の事を知ってほしいという思いもある。
「父は魔族との戦いの中で命を落とし、その後、母は病に倒れた」
両親はとても仲が良かった。周りも自身達も認めるほどに。
父が亡くなった報せを受けてから、日に日に母の体調は悪化していった。何という病にかかっているのかも分からず、ただただ衰弱していったのだ。
あの頃、何もできなかった自分が酷く歯痒い。
「だからこそ、王より魔王討伐の勅命を受けた際は、両親のためにも必ず果たしてみせようと誓ったんだ」
父の仇を討つためにも、母の悲しみを少しでも晴らすためにも。
キースの表情は真剣そのものだ。
リリィもキースの悲願が果たされてほしいと思う反面、やはりチラつくのは魔王であるオズの姿だった。
彼もまた、人間によって両親を失っている。
(果たそうとするものは同じなのに……ううん。同じだからこそ、捨てきれない思いだからこそ、ぶつかっているのね)
「……ごめんね。こんな所で話すことではなかった」
視線を落としたリリィが言葉に悩んでいると思ったのだろう。
あながち間違いではないものの、かと言って否定しても説明する理由が思い浮かばない。
ただ、キースの思いが強いことだけははっきりとしていた。
今まで彼がどんな気持ちで日々を過ごしていたのだろうかと思うと、自然と胸が苦しくなる。
「…………」
「え?」
キースはふいに頭に何かが乗せられた感触に驚く。優しく撫でられているのだと気づいたのはすぐだった。
リリィの表情にはどこか悲しげな……けれど、同情とは違う色が滲んでいた。
「私にはお父様もお母様もいるから、辛い気持ちを『分かる』だなんて言えない。けど、お父様の仇を討つために、キースがたくさん努力をして来たんだろうなって思ったら、その……つい……」
今までの苦労を、努力を直接見たわけではない。だが、決してなかったわけはないだろう。
まるで母親に宥められているようだ、とキースはぼんやりと思った。
戦い続きで、心休まる時などほとんどなかったキースにとって久しぶりの感覚だ。
自然と表情が和らいだのが自分でも分かった。
「……ありがとう、リリィ」
「っ!」
頭を撫でていた手をそっと取って、自然な流れで手のひらに軽く口づけた。
驚いたリリィが唖然とするのを、キースは悪戯に笑みを浮かべて見る。そして、彼女の顔が恥ずかしさだけでなく、別のものによって赤く染められていることに漸く気づいた。
「もう日が落ちる時間か……」
「そ、そうね! 早く帰らないと、身体に障るわね!」
残念そうに呟いたキースの言葉でリリィもハッと我に返った。
吃りながら立ち上がって言えば、キースは一瞬、きょとんとした。
すぐに彼も立ち上がると、リリィの手を取ったまま無邪気に笑んだ。
「じゃあ、帰る前にちょっとだけ寄り道しようか」
「寄り道?」
それまで穏やかな笑顔しか見なかったが、こんな子供のような笑顔もできるのか、と新たな発見をしつつ首を傾げる。
そして、手を引かれるままに向かったのは、すぐ近くにあった小高い丘の上だった。
「ここはね、日暮れの時間が一番良いんだ」
「……っ!」
その美しさに、全身に鳥肌が立ち、言葉を失った。
目の前に広がるのは花畑とその向こうには波のない大海原と空。
普段の緑と青の配色でも美しいであろうそこは、夕陽によって赤く染まっていた。
「綺麗……」
すべて繋がっているのでは、と錯覚させる景色に目が離せない。
今日一日でいろいろな景色を見たが、この風景が最も美しく感じた。
海で暮らしていたときにも夕焼けに感動することはあったが、遥かに広いからだろうか。
すっかり虜となっているリリィを見て、キースは握ったままの手を少し強く握った。
「キース?」
何かあったのかと隣にいるキースを見上げれば、彼は真っ直ぐにリリィを見ていた。
その顔は魔王を必ず討つと言ったときと同じ真剣なものだが、先ほどとは違って不安も見える。
しかし、何に対する不安なのかリリィには分かりかねたが。
「実は……明日、魔王のいる城に乗り込むことになっているんだ」
「え……?」
「魔王討伐に向かう」と言うのは知っていたが、それが早くも頂点に君臨する魔王が相手だとは思わなかった。
リリィが魔王城にいたときは人間達の軍の様子も多少は耳にした。
けれど、まだまだ城までは距離のあるものだと思っていたのだ。魔族が攻勢に転じないのも元凶にあるのだろう。
言葉を探しあぐねていると、キースはどこか自嘲じみた笑みを浮かべる。
そこで漸く、彼の不安が分かった気がした。
「決戦、とも言えるね。今回の戦いで、どちらかが……もしくは両者が命を落とすだろう」
「そ、んな……」
「だから、君に会えて良かった」
「…………」
魔王を討つと決めた意志は固いが、現実はそう甘くはないと彼自身も知っている。
万が一、ということがあり得ることを。
まるで最期のような言葉を吐くキースに、いよいよリリィも何を言えばいいのか分からなくなってきた。
魔族にも、人間達にも傷ついてほしくない。それは、争いに介入していないからこそ抱いてしまうリリィのエゴだとは彼女自身も理解している。
幻聖族のほとんどが穏やかに暮らす傍らで、彼らは長く争ってきた。
家族や親しい者、大切な人を奪われた仇で。もしくは、それらを守るために。もしくは、自らの力を誇示し、富や名声を獲るために。
怨嗟は怨嗟を招き、復讐は復讐を招く。終わりのない感情の渦は、どちらかが完全になくならなければ収まらないのだろうか。
視線を落としたリリィの肩にキースが手を置く。
条件反射でキースを見上げれば、彼の目には不安の色はなく、魔王を討つと強く言い切ったときの力強さがあった。
「もし、僕が無事、魔王を討ち、帰還した暁には……僕の想いを聞いてほしい」
今の気持ちのままでは頷くことができず、代わりに肩に置かれたキースの手に自身の手を重ねた。
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