第14話 初恋の人


(……なんで、こんなことになったんだろう)


 リリィは内心で呟き、泡の浮かぶ温かいお湯に顔を半分まで沈めた。

 キースに案内されるがまま辿り着いたのは、多くの人が行き交う通りを少し逸れた場所に建つ大きな屋敷だった。門を潜れば手入れの行き届いた庭があり、すれ違った数人はキースを見ると笑顔を浮かべて「お帰りなさいませ、キース様」と挨拶をする。魔王城で言うところの使用人のようだ。

 そして、砂浜で寝ていたし……と、キースはてきぱきと近くのメイドに指示を出し、あっという間に風呂に連れてこられて今に至る。

 浴場は魔王城で入ったものより少し狭いが、風呂はあと二、三人は入れそうなほどに広い。入口とは反対の壁に小窓があるが、ガラスは半透明のため、覗かれても見えないようになっている。


(オズのお城にいたのに、どうやってあそこにいたのかしら? それに、声だって……)


 外は城の庭に出ることすらなかったと言うのに、今は遠く離れた地にいる。キースの様子から察して人間達が攻めてきたから逃がした、というわけでもなさそうだ。

 さらに、リリィの声はアイリスに足と引き換えに渡している。だが、足はまだ人間のもののままだ。


「どういうつもりなのかしら……」


 久しぶりに聞いた自分の声は、やけに弱々しく聞こえた。

 答えを知るにはオズに会うのが一番だろう。

 ならば、どうにかして魔王城に戻らなければならない。

 模索するリリィだったが、ふと、浴場にある小窓から叩くような音が聞こえて視線を向けた。


「開けておくれ」

「…………え?」


 窓の向こうに見えるのは、何とか窓を通れそうな小さな人間らしきシルエットだった。

 聞き覚えのある声に「まさか」と思いつつも小窓を開ければ、記憶よりも随分と幼い少女がいた。小さな体は彼女から放たれる魔力によって浮いており、開けられた窓から音もなく室内へと滑り込んだ。

 癖のある黒髪は長く、リリィの腰ほどまでの背丈とほぼ同じ。紫水晶を思い起こさせる丸い目は、可愛らしさの中にも知性を感じさせる。

 見た目にそぐわぬ口調に呆然としていたリリィだったが、少女は「ふむ。久方ぶり、と言うべきかのぅ。ただ、わしら人魚からすれば一瞬にも等しい僅かな時間だったが……」と、まるで今から考察でも始めそうな言葉を呟いた。


「……アイリス?」

「左様。ちと、嬉しい収入があったのじゃ。それで、調子に乗って若返りの薬を編み出したがこの様だ。幼い手ではやりにくくて敵わんからのぅ。元に戻るまでお主の様子を見てやろうと思ってな」


 つらつらと語る少女は、見た目こそ幼いが中身はアイリスだ。

 興味深そうに辺りを見渡しながら、体を拭いて服を着るリリィに言う。


「お主の長年の願いも、これで漸く果たせそうじゃのぅ」

「……アイリス。何か知っているの?」


 アイリスの言い方は、今まで何があったかすべて知ったように聞こえる。

 怪訝な顔で訊ねるリリィに、アイリスは不敵な笑みを浮かべながら少し前に起こったことを話した。


「わしの元に、魔王が来た」

「……!」


 心臓が大きく跳ねた。

 まさか、真相がこんなにも早く知れるとは思わず、リリィは愕然としながらも話の続きを待った。


「あやつの対価と引き換えに、お主の声を渡したのじゃ」

「な、んで……」

「愚問じゃな。あやつのことなら、お主のほうが知っておろう」


 アイリスがオズと会ったのはあの一度だけだ。リリィのほうが一緒にいた時間は長い。

 しかし、好意を抱いてくれているのは知っていたが、声を取り戻してくれるほどだとは思わなかった。

 そもそも、読心術の使えるメルやメイがいたため、声を無くしてもさして問題はなかったのだ。歌えなかったのは辛かったが。


「……オズは、何を対価に出したの?」

「それはお主が知る必要のないことじゃ。それに……」


 命の次に大事と言っても過言ではない声を対価に出していたのだ。ならば、オズも同等かそれ以上を差し出したはず。

 オズの身を案じる様子のリリィを見て、アイリスは小さく息を吐いた。


「お主が本当に好いておるのは、あの人間じゃろう? 足もそのためのものだ。ならば、今まで邪魔をしておった魔王の身を案ずるより、今の状況を喜べ」

「…………」


 アイリスの言葉も最もだ。元より、リリィは何とか魔王城を出られないかと模索していた。それが実現した今、素直に喜べばいい。

 だが、素直に喜ぼうには親しくなりすぎた。最後に嵐の真実を知ったとしても。

 すっきりしない様子のリリィにアイリスはどこか呆れたように言った。


「考えても仕方なかろう。真相を知る魔王はここにはおらぬ。それに、あやつのことじゃ。またひょっこり現れるやもしれんぞ?」

「……そう、よね」


 自分で言うのも変だが、オズに抱かれていた好意はそう簡単になくなるようなものではないはずだ。

 理由は分からないが、考えても答えは見つかるはずもない。

 また、会話が聞こえていたのか、外からメイドがノックをして「リリィ様。どうかなさいましたか?」と声を掛けられた。


「ご、ごめんなさい。何でもないの」


 ドアの向こうに返してから、アイリスのことを話すべきか逡巡した。

 今は人間の姿をしているが、れっきとした『海の魔女』だ。人間の中で魔女と言えばあまり良い意味で使われていないこともある。

 すると、アイリスは「わしはあくまで様子見と研究のために来ておる。隠れておるから黙っておればよい」と言った。

 それならば、とリリィは外に出るためにドアノブに手をかける。

 アイリスはその背を見ながら小さく呟いた。


「まぁ、あやつが来るとしたら、この状況が不本意である場合じゃがな」

「え?」

「リリィ様?」

「あ、えっと……すみません。お待たせしました」


 ドアを開けてしまったリリィがうまく聞こえなかった言葉に首を傾げるも、きょとんとしたメイドに呼び掛けられて聞き直せなかった。

 アイリスは小さく息を吐くと指を鳴らして一瞬で姿を消した。




 広い部屋は大勢でも食事ができるよう、中央に長いテーブルが配置されていた。天井からは豪華なシャンデリアが吊るされており、陽光石ではなく蝋燭が灯されている。また、テーブルの上や壁にも蝋燭があるおかげで、陽が落ちた今でも室内は十分な明るさを保っていた。

 そんな室内で、リリィの目の前にいるキースはぽかんとしたまま固まっている。

 見つめられたままのリリィは穴があったら入りたい衝動に駆られた。


「ほら、キース様。しっかりなさってくださいな!」

「えっ!? ……あ、ああ、すまない。あまりにもよく似合っているから、つい……」


 少し歳を取ったメイドに背中を叩かれ、漸く我に返ったキースは、耳まで赤く染めながら口元を片手で覆った。

 その表情を見ればお世辞ではないと分かる上に、周りには温かい目で見守る他の使用人達もいる。


(すごく恥ずかしい……!!)


 リリィは何も返すことができず、顔を真っ赤にさせながら、少し前の押しに弱い自分を叱咤した。

 すべての発端は、浴場を出た後にあった。

 メイドに連れられて宛がわれた部屋に入ったリリィに差し出されたのは、どれも真新しく見える数着のドレスだ。

 魔王城にいたときを彷彿とさせる光景に固まるリリィに、メイド達は微笑みながらも「これはどうか」「こっちの色のほうが似合う」などと好きなことを話ながらいくつか試着をさせられた。最終的に落ち着いたのは、かつてリリィが人魚の姿であったときの鱗と同じ薄紅色のドレスだった。

 デコルテが露になったデザインで、縁にはレースがあしらわれている。スカートは裏地の上に薄い生地を何枚も重ねており、まるで花びらを纏っているようだ。

 キースは咳払いをして気を取り直すと、近くに並んでいた数人の使用人を見て言った。


「食事の前に、皆に紹介しておくよ」


 右から、初老に入ったばかりに見える執事長のバルド、先ほどキースに喝を入れたメイド長のエルザ。さらに、料理長や庭師まで紹介してくれた。

 リリィは頭の中で名前を繰り返しながら覚えようとしていると、執事長のバルドが穏やかな笑顔を浮かべて「料理も冷めてしまいますし、どうぞお掛けください」と着座を促す。

 待ってましたと言わんばかりに運ばれてきた料理は、どれも初めて口にするものばかりだったが、料理人の腕が良いおかげで美味しく食べられた。

 談笑を交えながら食事をしていた二人を見て、バルドはどこか安心したように言った。


「ふふっ。よう御座いましたね、キース様」

「え?」

「ば、バルド!? 一体、何を言う気だい?」


 何かを言いかけたバルドを慌ててキースが止めようとしたが、彼は「大丈夫ですよ」とウインクをして見せた。

 そして、今、キースが置かれている立場について話しはじめる。


「キース様は国王より直々に、『魔王討伐』の任を命じられているのです」

「っ!」

「昨日、一旦帰還なされたところなのですよ」


 オズのもとにいるときにその話は聞いたが、改めて言われると強く実感してしまう。

 リリィの微細な変化に気づいたキースだったが、何故、体を強張らせたのかまでは分からないため、バルドの言葉に恐怖を感じたのだと思った。


「そして、明後日にはまた出立され――」

「バルド」

「……失礼いたしました」


 彼女を怖がらせるわけにはいかない。

 まだ話を続けるバルドの言葉を制すれば、彼は漸くリリィの表情の変化に気づいた。

 バルド達人間からすれば、魔王討伐という任務は力を認められた者にしか与えられない大役だと分かる。しかし、リリィは元々は争いを嫌う幻聖族だ。


「申し訳ありません。キース様の武勇伝を色々とお話ししたかったのですが……」

「……あ。だ、大丈夫です。ただ、少し驚いてしまって……また後で聞かせて頂いてもいいですか?」


 バルドは純粋にキースの良いところを知ってもらおうとしただけだ。

 気を遣わせてしまったと申し訳なく思ったリリィが笑みを浮かべて言えば、彼はキースと顔を見合わせてから表情を綻ばせた。


「ええ。リリィ様がよろしければ、いつでもお声掛けくださいませ」


 キースには「無理をしなくてもいいのに」と言われたが、リリィは初めて聞く話は何でも好きだ。少し怖いのは事実だが。

 すると、メイド長のエルザが何か思い立ったように両手を軽く合わせて言った。


「そうだ! せっかくですし、明日は町を案内されてはどうですか?」

「ああ、それはいいね」


 今まで海か、口にはできないが魔王城しか知らないリリィにとって、その誘いはとても魅力的なものだ。

 喜色を浮かべたリリィだったが、先ほどのバルドの言葉を思い出すと、すぐにそれを消して視線を落とした。


「けど、明後日にはまた出発するのに、私なんか相手にされなくても……」

「構わないよ。実は、帰還したのも魔族の攻勢が弱まっていて、他の者達に一度、休んでこいと言われてしまってね」


 気を抜いた途端に攻められても困るが、何故か魔族には攻めに転じる気配が一切なくなってしまったのだ。今は最前線で陣を展開しており、いつ、攻められても対応できるようにはしている。

 最終決戦は近い、と言うところで、他の者達から魔王に挑む準備のための休暇を与えられたのだ。

 最初こそあまり乗り気ではなかったが、結果的にリリィと再会することができたため、兵達の申し出は有り難かった。


「君に見せたいものもあるし、迷惑でなければぜひ」

「……それじゃあ、よろしくお願いします」


 キースが良いと言うのなら、断る理由はない。

 これが終わればまた魔王討伐、というのが酷く引っ掛かるが、今は靄のような感情に蓋をすることにした。

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