第6話 海の魔女


 「海の魔女」とは、その呼び名のとおり魔術に精通し、海に棲む魔女である。常に新しい魔術を編み出すことに専念し、滅多に住処から外に出ることはない。

 そして、そんな彼女の住処が「北の海」と「南の海」を区切るように出来た、海底にある深い深い谷だ。

 底が見えず、近寄る生き物はほとんどいないため常に静寂に包まれた場所。だからこそ、海の魔女が魔術の作成に専念できるのだった。


「――で、これがこうなるから……いや、この海藻の反応が……」


 谷の壁に穴を開けて作られた住処。その奥で、一人の人魚が紙に何かを綴っては傍らの大釜に刻んだ海藻や砕いた貝殻を放り込む。

 腰ほどまで伸びた濃紺の髪は、テーブルに乗った海藻と同じく大きくうねっていることもあって、今は作業の邪魔にならないよう後ろで一つに結わえられていた。

 薄紫の目は目の前のことに集中しており、そこに新たな気配が近づいても逸らす気配を微塵も感じさせなかった。


「『アイリス』!」


 住処にやって来たのは、薄暗いこの場所には似合わない金髪に美しい薄紅色の鱗を持つ人魚、リリィだった。

 リリィは海の魔女――アイリスの存在を知ってからというもの、しばしばここに遊びに来ていた。

 だが、アイリスは自身の実験に没頭すると周りが見えなくなるため、大抵、リリィが待ちぼうけを食らっている。アイリスが興味を持つことを呟けば、今まで無視していたのかと疑いたくなるほど意識がこちらに向くのだが。

 今回もそのパターンであり、リリィがアイリスのそばに近寄っても気づいていないのか、視線を向けることなく手元の大釜をかき混ぜていた。


「むぅ。珊瑚の欠片を一つでは少ないか……。なら、もう一欠片追加して……」

「ねぇ、アイリス。聞きたいことがあるの」


 アイリスの向かいに移動したリリィは、大釜を挟んで話を進める。彼女の実験が何をもたらすのかはともかく、意識をこちらに向けさせるには十分な話題は持ってきていた。

 ごくり、と固唾を飲んでから、リリィはゆっくりとそれを訊ねる。


「『人間の足を得る魔術』って……知らない?」

「あとはイルカの尾鰭があれば……なんじゃと?」


 バンがいたら即座に逃げそうな呟きが聞こえた気がしたが、今は流しておく。

 漸く向けられた薄紫の目には、新しいものへの好奇心が宿っている。

 これは何か得られそうだ。と確信に近いものを抱きつつ、リリィは質問を繰り返した。


「知らないかしら? 人魚姫の物語に出てくるような魔術」

「……それは、お主が得たいのか?」

「そ、そう」


 まるでリリィの覚悟を確かめるかのように言うアイリスに、さすがにリリィも怖じ気づきそうになった。今さらながら、人間の足を得るということに不安を覚えたのだ。


「私、ある人を好きになったの。でも、相手は人間だからって、お父様達に反対されて……それならいっそのこと、人間になって会いに行ってやろうって思って……」


 手短に事情を伝えれば、アイリスは「ふむふむ」と頷いて聞いてくれた。人間に恋をしていることに反対をしないのは、単に彼女が魔術のこと以外に興味を持たないからだろう。だが、今はそれが嬉しかった。

 話を聞き終えたアイリスは、持っていた棒を手放すと俯いて肩を震わせた。


「ふっ……ふふっ……」

「ア、アイリス?」


 笑っているのだろうが、その笑いがどういった意味なのかリリィには推し量れず、何事かとアイリスの隣に移動する。

 顔を覗き込もうとしたとき、アイリスは天井を仰いで両手を高く上げた。


「ふははははは! こんな僥倖、他にあっただろうか!」

「え? ちょ、ちょっと。大丈夫?」


 まるで悪役のような笑い方をするアイリスに、さすがのリリィも少しだけ引いてしまった。

 だが、アイリスはそんなことなど気にもせず、満足げに何度も頷いた。


「よもや、このような日が巡ってくるとは、長生きはするもんじゃのぅ」

「じゃあ、アイリスは知っているの? 人間になる方法」


 この反応を見るに、アイリスは人魚が人間になる方法を知っていそうだ。

 確かめるように訊ねたリリィに、アイリスは「まぁ、待て」と間を置いた。そして、本棚に並べた本の背表紙を見ながら言う。


「えーっと、これでもないし、こっちでもない」

「物語だけの魔術だと思ってたから、今まで敢えて聞かなかったけど、本当にあったのね」


 アイリスの持つ本には、世間一般に知られている魔術から、彼女自身が編み出した魔術まで幅広く記されている。最も、彼女が編み出した魔術については半数以上がその効果を確認する前の未完成魔術だが。

 感心するリリィだったが、一冊の本を取り出したアイリスはページを捲りながらさらっと答えた。


「いや、実在はしておらんかったよ」

「え」

「しかし、わしは魔術に精通した海の魔女じゃ。作るくらい造作もないこと」

「うん? それじゃあ、人間になる魔術って、まだ……」

「そうじゃな。所謂、未完成品じゃの」


 先も述べたように、アイリスの魔術は未完成品が多い。それは、ここを訪れる者が極端に少ないからであり、試す相手がいないからだ。

 また、人間になった人魚の話は物語以外では聞いたことがない。つまり、魔術は使われたことがないということだ。

 アイリスは本を開いたままテーブルに載せ、その文面に目を通してからリリィへと視線を移した。


「じゃが、それも今日で完成へと変わる」

「……待って待って! それって、私が実験台ってこと!?」


 まだ完成していないなら、失敗する可能性もある。その場合、どうなるかも分からないのだ。

 人間の足を得られず、単に何も起きないならまだいい。だが、取り返しのつかない失敗が起こったら、陸に上がるどころか宮殿にすら帰れなくなってしまう。

 だが、アイリスはこてんと首を傾げると確認するように問うた。


「足が欲しいのじゃろう?」

「欲しい、けど……」

「こんなすごい魔術、わし以外には編み出せんのじゃがのぅ」

(自分で「すごい」って言った……)


 本へと再び視線を戻したアイリスはとても残念そうだ。それもそうだろう。格好の実験相手が怖じ気づいて止めようとしているのだから。

 そして、アイリスは本を閉じると深い溜め息を吐いた。


「仕方ないのぅ。やはり、これはわしら人魚には不要の産物。名残惜しいが、他の者に知られても面白くないし……」

「え? な、何をしているの……?」


 諦めモードのアイリスは、片手に本を持ち、もう片方の手に魔術で青紫の炎を生み出した。

 水中でも消えることなく揺らめく炎に嫌な予感を覚えて訊ねたリリィに、アイリスは一瞬だけ視線を向けてから本に炎を近づける。


「勿体ないが、消すしかないのぅ」

「ま、待って!」

「なんじゃ?」


 本が炎に触れる直前で、リリィがアイリスの炎を持つ手を掴んだ。

 何故、止めるのだ。と視線で問うアイリスに、リリィは視線を泳がせつつも言った。


「わ、私が……」

「お主が?」

「私が、やる、から!」


 強い意思を持って言った途端、アイリスの手から炎が消える。まるで、リリィがそう言うと分かっていたかのように。

 本がテーブルの上に投げられ、リリィの頬を両手で包んだアイリスは顔を近づけて最後の念押しをした。


「人魚に二言はないぞ?」

「使い方違う気が……」

「細かいことは気にするでない。お主は人間になるのじゃからのぅ」


 確かに、と納得してしまった。

 今からやろうとしていることは種族の壁を越える行為であり、二度と海へ帰ることができないかもしれないのだ。

 改めて、自身が求めるものの大きさを感じていると、アイリスが何処か浮かれたように問うてきた。


「して、『対価』は何にするかえ?」

「対価?」


 再び本を捲っていたアイリスの手が、リリィの一言でぴたりと止まった。

 また何か失言をしてしまったかと後悔するリリィに、アイリスは愕然としながら言う。


「まさか、魔術に対価がないと? お主はわしの魔力だけで人間になれると? ……仕方ないのぅ。もう少し魔術に手を加えるしか――」

「いやいや! そんなこと微塵も思ってないから!」


 これから魔術に手を加えるとなれば、もう二度とここに来られなくなるかもしれない。リリィがここに来ていることも、シリオスには伝わっているはずだ。

 ならば、大人しく彼女に従って対価を差し出すしかない。

 アイリスも満足げに頷いた。


「おお。それは良かった。ならば、お主の声を頂こうかの」

「あれ? 選択肢は?」


 先ほどは対価は何がいいかと聞いてきたはず。それが何故、「声」に決まっているのか。

 物語と同じではあるが、実際に声を奪われると思うと不安になる。

 しかし、アイリスは既に声を貰う気でいた。


「ここは物語に沿って声を差し出すが良い」

「アイリス、なんだか悪役みたい……」

「魔女とはどの物語も悪役が多いじゃろう? なりきってみるのも面白そうじゃ。ああ、でも、最近は良い魔女も多いか」


 ふふふ、と笑みを零すアイリスは、今までに見たことがないほどに上機嫌だ。

 長年着手できなかった魔術の完成を目前に浮かれているのだろう。それが失敗に繋がらなければいいが。

 準備を始めていたアイリスは、「あ、そうじゃった」と何かを思い出した。


「お主、服の対価はどうする?」

「え? 服って?」


 陸に上がってからのことを考えていたリリィは、予想していなかった質問に首を傾げる。

 水中で過ごしているリリィ達にとって、「服」というものは特にない。近いものでいけば、胸を隠すものくらいか。


「わしらには不要じゃが、人間ともなれば服を着ているじゃろう? ……はっ。まさか、裸で――」

「そっ、そんなつもりないわよ!」


 さすがに裸でうろつくほどの度胸はない。

 赤面して力強く否定するリリィに一安心しつつ、アイリスは質問を続けた。


「ならば良い。して、服はどうする?」

「魔術で一緒に作れないの?」

「対価があれば出来るはずじゃ」

「『はず』って、まさか、それも未完成……?」

「言っただろう? わしらには不要じゃと」


 不要な物を求める者はそういない。まして、ここは服があれば動きにくい水中だ。

 ならば何故、そんな魔術を作ったのかと思ったが、疑問を読み取ったアイリスに「単なる連想じゃ」と軽く返された。つまり、人間になる魔術を編み出したと同時に、「人間ともなると服もいるな」と思ったようだ。


「対価……対価かぁ……」

「……お主、綺麗な髪をしておるのぅ」

「え? あ、ありがとう?」


 いきなり何を褒めるかと思えば、リリィの長い髪だ。手入れはよくしているが、それは姉達も同じだったため、あまり気にしたことはなかった。

 リリィの髪を一房手に取ったアイリスは、小さく頷いて彼女に向き直る。


「よし。ならば、この髪を半分ほど使おうかの」

「髪を?」

「なに、髪ならばすぐに伸びる。それに、半分切ったところで長いことには変わらんぞ」

「あ、そっか……」


 髪にも魔力が宿っている。半分も切って大丈夫なのかと不安になったが、また伸びるのならば問題はないだろう。

 もしかするとしばらくは魔術が使いにくいかもしれないが、そもそも、人間になれば使えるかも分からないのだ。

 アイリスは石を削って作ったナイフでリリィの髪を切ると、拾い集めて置いていた縄でそれをまとめてテーブルに置く。

 そして、棚から一粒の真珠を持ってくると、手のひらで青い炎を生み出して真珠を包み込んだ。先ほどもそうだが、水中でも燃えているのは魔力を源にしているからだろう。


「準備は整った。飲め、リリィ」


 青い炎を纏う真珠を差し出され、リリィはそっと受け取る。炎は通常のものと違うせいか、少しも熱さを感じなかった。

 ここまでくれば、もう後には引けない。

 リリィは大きく息を吸い込んで気持ちを落ち着けると、ひと思いに真珠を飲み込んだ。

 直後、喉の奥が焼けるように熱くなる。炎を飲んだのだから当然といえば当然なのだが、先ほどまでは微塵も熱さを感じなかった炎だ。


「っ……!」


 息苦しさに体をくの字に曲げる。まるで、下半身の鱗が一気に破がされたかのような激痛が走る。

 テーブルの上の髪を持ったアイリスは気にすることなく、リリィに向かってその髪を投げた。直後、広がった髪は光を放ち、それぞれが固まって一枚の布を作り上げると、リリィを優しく包み込んだ。


「さぁ、海の魔女の神髄をとくと見よ!」


 アイリスが片手を横に振るったと同時に、リリィの鎖骨の上辺りから青い炎を纏った真珠がするりと出てくる。傷跡は一切なく、血も出ていない。

 リリィの体が青い炎に飲み込まれたとき、アイリスの住処に新しい声が飛び込んできた。


『リリィ!』

「おや、お前は確かリリィの……」


 やって来たのはバンだった。

 リリィを追って宮殿を出たバンだが、ゆったりとした泳ぎの長老が大広間に着くまでに時間が掛かっていた上、バン自身も何度か息継ぎをしたせいで到着までの時間が予想を上回ったのだ。

 直面したことのない状況を前に、バンはどうすればいいか分からずに狼狽えた。


『うわわわ、何これ何これ』

「落ち着け小僧」

『小僧!?』


 バンは年齢的には最年少だが、小僧と呼ばれるほど子供でもない。

 まさかの呼ばれ方に衝撃を受けたバンだったが、アイリスは取り合うことなく話を進めた。


「こやつが大事ならば、早々に上に連れて行くことだな」

『え……?』


 炎の向こうで、リリィの影が動く。一つしかなかった影が裂け、人間のような足のシルエットが浮かんだ。

 まさか、と思うと同時にバンは躊躇うことなく炎に飛び込み、リリィを背鰭に引っ掛けて住処を出て行った。


「あとは、お主に掛かっておるぞ」


 真珠に纏わりついていた炎が、徐々に真珠へと吸い込まれていく。

 淡く輝く真珠を見たアイリスは「成功じゃ」と笑みを浮かべ、真珠を小瓶に納めた。



   ◇◆◇◆◇◆



 息ができない。

 どうやって呼吸をしていただろうか、と薄れゆく意識の中、リリィはすぐそばにいるバンに気づいた。


(バン、ちゃん……)

『どうしよう、どうしよう……! リリィが……!』


 声を差し出したことで言葉はバンには伝わらず、口から空気の泡が漏れただけだった。


(……ごめ、ん、ね)

『リリィ?』


 する、と背鰭からリリィが落ちる。

 慌てて、バンは海底に逆戻りするリリィの白いワンピースをくわえた。意外と頑丈なのか、破れる心配はなさそうだ。

 海面まであと僅か。


『あと、ちょっと……!』


 どうか、それまで耐えて。

 バンは必死に祈りながら、海面に近づくと背中でリリィを押し上げた。

 なるべく顔が海に浸からないよう気をつけつつ辺りを見回せば、小さな島が視界に入った。近くには岩礁もあり、バンでも近くまで行けそうだ。

 リリィは気を失っており、自力では泳げないため、バンは慎重にそちらへと向かう。

 岩礁付近に行くと体が岩に擦れて痛みが走ったが、それよりもリリィの生死が懸かっているのだ。気にしている場合ではない。

 何とかリリィの顔が海に浸かることなく安定させることはできた。だが、肝心の彼女が目を覚ます気配はない。


『リリィ……』


 あの青年を見守っていたときのリリィもこんな気持ちだったのだろうか。

 早く起きて、と思いながら、彼女のなくなってしまった鱗を見ると自分の無力さを感じる。

 何故、もっと速く泳げなかったのか。

 後悔ばかりがせめぎ合う中、ふと、バンは影が掛かったことに気づいた。大きな羽ばたく音も聞こえる。


『……ん?』


 こんなにも大きな海鳥はいただろうか、と空を見上げたバンは、目の前を覆う黒い影に絶叫した。


『うわああああぁぁぁぁ!!』


 巨大な影の主は、海ではまず見ることのないドラゴンだった。

 無数の牙が覗く口を開け「ギャウウ」と鳴いたドラゴンに、思わず海に引き返しそうになってしまう。だが、リリィを残しては行けない。

 『あわわわ……』と情けない声を上げながらドラゴンを見ていると、その背中でもう一つ、何かの影が揺らめいた。形的に人間のようだ。

 そして、ドラゴンの背から飛び降りた人を見て、バンは記憶に残るある人物と重ねて声を上げた。


『お、お前は……!』

「ああ……。漸く見つけたぞ……」


 バンを無視してぐったりとしたリリィを抱き上げたのは、漆黒の髪の青年だ。

 何処かうっとりとした声音で言うと、やはりバンを視界に入れることなく、ドラゴンに飛び乗った。


『え!? ちょ、ま、待って!』


 高く空へと舞い上がり、何処かへと飛んでいくドラゴンを、バンは慌てて追いかけた。

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