第5話 立ちはだかる壁
宮殿に帰ったリリィは姉達に遅かったことを心配されたものの、「ちょっと流されて遠くに行っちゃってたの」と誤魔化した。
まるで『人魚姫』の伝承と同じような展開に、夢の中にいるような気分だった。
「バンちゃん、今日のことは内緒よ?」
夜になり、自室に戻ったリリィは、ついてきていたバンにきちんと口止めをしておく。
悪いことはしていないが、人間に関わるなという暗黙のルールを破っているのだ。知られれば確実に小言の一つ二つは飛んでくる。
バンも言う気はさらさらなかったが、ある者の前では無駄な足掻きだろうなとも思った。
『すぐバレると思うけど……』
「お父様のこと?」
『そう』
「大丈夫よ。お父様なら分かってくださるわ」
リリィの父であるシリオスは、海の出来事をほぼ知り尽くしていると言っても過言ではない。そんな父には今日の出来事もすぐに伝わるだろう。
シリオスは人魚達の王でもあるため、常に多忙な上に宮殿にいることも少ない。おかげで今日は顔を合わせることなく一日が終わったが、明日はどうなるか分からない。
寝る支度をするリリィは上機嫌に鼻歌を歌っている。
それが悲しみに変わらなければいいが……と思いつつ、バンは『おやすみ』と言って部屋を後にした。
翌日、シリオスに呼ばれたリリィは、もう父の耳に昨日のことが伝わったのかと少し驚きつつも大広間に向かう。
大広間にあるテーブルの上座には、癖のある銀髪の男性――シリオスが座っていた。また、隣には美しい金髪の女性――母のフィアナもいる。
少し緊張しながらも平静を装って近づけば、早速シリオスは「分かっていると思うが……」と切り出した。
「昨日は大変だったようだな。嵐の影響で、船から投げ出された人間を救ったとか」
「う、うん。見ちゃったのに知らない振りなんてできないもの」
「命を大事に思う気持ちは良い。それが人間相手であろうと、平等に捉えることもな」
シリオスはその立場故に様々な海へと赴くため、リリィが小さい頃からあまり会うことはなかった。そのせいか、母や姉のように接することができないでいた。
だが、滅多に会わないシリオスでも褒められればやはり嬉しい。
リリィの顔に喜色が浮かんだのを見て、シリオスも柔らかく微笑んだ。一瞬だけ。
すぐに強張った表情に、リリィは「え」と固まった。
「だが、そこにある“感情”は捨てたほうがいい」
「な、んで、それを……」
恋心については姉かバンしか知らない。バンが言うとは思えない上、姉達も後々を考えて言わないはず。
すると、シリオスは小さく息を吐いて、昨日、魚達が伝えてきたときを思い返した。
「それはお前もよく知っているはずだ。海で起こることは、全てと言っていいほど私の耳に入る」
「…………」
近くにいた魚や幻聖族のものが伝えてくることもあれば、海の流れに乗って漂ってくることもある。今回の場合は前者のようだ。
シリウスも反対するのか、と視線を落としたリリィに、フィアナが優しく声を掛けた。
「リリィちゃん」
「お母様……」
「恋をするのは素敵なことよ? けれど、どうしても叶わないこともあるの」
「…………」
昨日、姉達から散々聞かされた言葉だ。
どう足掻いても、種族の壁は越えられない。物語のようにはいかないのだ。
フィアナは思案するように片手を頬に添えると、にっこりと微笑みながら恐ろしいことを口にした。
「そうねぇ。どうしてもって言うなら、相手の方をこちらに連れて来ちゃえばいいのよ」
「死ぬぞ?」
「やだわぁ。冗談よ、冗談」
シリオスの冷静な突っ込みにフィアナはおどけてみせるも、言った言葉は本気に思えた。
宮殿内にはバンをはじめとするイルカ達のために、酸素を補給する場所はいくつかある。酸素については魔術を用いて外から運んでいるため、常に切れることはない。
だが、呼吸の対策はあったとしても、イルカのように長く水中を泳ぐことはできない上、体の作りが水中生活に適していないのだ。
フィアナは落ち込むリリィの頭を撫でながら言葉を続ける。
「でも、母親としては、相手がなんであれ一度は相手の方を見ておきたいわね。もし、どうしようもない人なら、本当に海に引きずり込んじゃいそうだけど」
「だっ、大丈夫よ! 悪い人じゃないわ! ……多分」
言い切ってから、ティナに言われた言葉を思い返して自信をなくす。
悪い人ではないと自分が思い込んでいるだけかもしれない。人は見かけで判断するな、と何かの本に書いていた気がする。
だが、記憶に刻まれた優しげな風貌は、両親達が案じるような悪い面はないように思えてしまうのだ。
すると、フィアナはまた微笑んで宥めるように言った。
「ふふっ。そんなに必死にならなくても大丈夫よ。相手の方も、気づいたら海の中に――」
「フィアナ。昔の武勇伝の一部かい?」
「え?」
「いや、なんでもない……」
フィアナの歌もリリィに引けを取らないほどの美しさだ。また、真相のほどは分からないが、彼女はその昔……シリオスと出逢う前に、何人もの漁師をその歌声で惑わし、船を難破させたという噂がある。
あくまでも噂である上、ただ歌っていただけで難破させる意思がなかった可能性もあるため、特に追究したことはなかったが。
つい口から出た言葉に小首を傾げるフィアナに、シリオスはこれ以上は何も言うまいと言葉を濁した。
そして、咳払いを一つしたあと、ずれてしまった話を元に戻す。
「とにかくだ。もう人間には会わないほうがいい。しばらくは海鳥達ともな」
「そんな……あの子達は何もしていないのに!?」
「海鳥に会うとなれば、また陸に近い場所に行くことになる。つまり、人間に見られる可能性がある」
再びあの人間と会うようなことがあれば、リリィの気持ちも忘れように忘れられないだろう。そう思っての言葉だったが、リリィからすれば苦痛でしかない。
シリオスも行動を制限したくないのは山々だが、手は早々に打っておかないと手遅れになってしまう。
泣きそうな顔の末娘に胸が痛いが、ここは親として心を鬼にするときだ、と「これもお前の身を守るためだ」と言った。
「っ、お父様のバカ!」
「うっ」
涙を零して声を荒げたリリィは、身を翻して大広間を出て行った。
覚悟はしていたが、実際に言われるとなかなかに応える。
見るからにショックを受けていたシリオスを見て、フィアナは大きな溜め息を吐いた。
「あなた、しっかりしてくださいな」
「私だって喜んでやりたいさ。けれど、こればかりは……」
「そうねぇ。まぁ、これでフィンみたく反抗期がきても、文句は言えないわね」
「うっ」
いじけたようなシリオスに、フィアナがさらっととどめを刺した。
大広間を飛び出したリリィは、宮殿の片隅にある庭に出て泣いていた。部屋に戻れば大好きなあの本がある。だが、今は目にしたくなかった。
庭は宮殿の隅にあるため、他の人魚やイルカ達に見られる恐れも少なく、心を落ち着けるにはいいと思ったのだ。
岩に張りつく多くのイソギンチャクが波に揺られている。真っ赤な珊瑚に掴まっていたタツノオトシゴは、リリィの様子を見ると気を遣ってかそっと何処かへと去って行った。
「ううっ……ひっく……。なんで、皆、分かってくれないの……」
静かな庭にリリィの声だけが響いた。
イソギンチャクに隠れていた二匹の魚は出るに出られず、どうしたものかと顔を見合わせる。
すると、珊瑚礁の上を大きな影が横切った。バンほどではないが、円形のその影はゆっくりと泣いているリリィに近づく。
『ほっほっほ。末姫様がここに来るのは久しぶりですなぁ』
「……長老」
リリィに声を掛けたのは、一匹のウミガメだった。歳のいった男性の声のとおり、ウミガメとしてもかなりの年齢になる。
長老と呼ばれたウミガメは、リリィの前に出ると穏やかな声音のまま訊ねた。
『お父上とお母上に何か言われたのでしょう?』
「聞いてたの?」
『いやいや、お父上が酷く落ち込んでおられたので、何かあったのだろうなと思いましてな』
「…………」
落ち込みたいのはこっちだ。と内心で文句を零しつつ、「じゃあ、長老も忘れろって言いに来たの?」と半ば自棄になりながらも言う。
しかし、長老はまたしても『ほっほっほ』とのんびりとした笑いを零すと、それを否定した。
『いやいや、恋心というものは非常に難しいものですからのぅ。私も昔は慕ってくれるウミガメに、「決めたものがいるから諦めてくれ」と言うても忘れてはくれんかった』
「長老、モテたんだ……」
ウミガメの恋愛事情はよく分からないが、彼は彼で相応に経験はあるようだ。
意外なところで長老の過去の恋愛について知ることになってしまったが、それも彼の一言ですぐに消し飛んでしまった。
『いやはや、末姫様の今の状況は、まるで物語のようですなぁ』
「え……」
人魚姫の物語のことを言っているのだろう。あの物語は種族を越えて多くのものに知られている話だ。
長老が知っていても何ら不思議ではないのだが、それとリリィの現状を重ねられるとは思わなかった。
『ここで、あの物語なら人間の足を貰うために海の魔女のもとへ行くのでしたかな』
「そう、ね……。けど、人間になれるなんて魔術、聞いたことないもの」
『ですが、「海の魔女」はいるでしょう?』
「……確かに」
物語に出てきた魔女と同一人物もしくは子孫かは分からないが、実際に「海の魔女」と呼ばれる者は存在している。それも、リリィは何度か会ったことがある者だ。
人魚達にはやや遠ざけられているが、リリィからすれば彼女は良き話し相手でもあった。少し癖のある性格をしているが。
海の魔女を思い起こしているのか、長老はどこか遠くを見ながら言った。
『まぁ、単に彼女の二つ名がたまたま同じなだけで、無関係の可能性もあるがのぅ。じゃが、無関係ではない可能性もまた、ゼロではない』
「なるほど……。今まで、物語の世界の話だからって流してたけど、確認したことはなかったわね」
もしかすると、人間の足を得る魔術は実在しているかもしれない。魔術に詳しい者がいないため、存在しないと思っていただけかもしれないのだ。
まさか自分で人間になる可能性を潰していたとは思わず、リリィは遠くを見たままの長老に「ありがとう」と言うと庭を飛び出した。
ただ、その言葉は耳が遠くなってきた長老には届いていなかったが。
『ほっほっほ。最も、そんな魔術があったなら、今頃何人もの人魚が陸に上がっているかもしれませんな。……おや?』
冗談として笑い飛ばした長老がリリィを向けば、そこには誰もいなかった。代わりに、イソギンチャクの影から二匹の魚が出てきたが。
辺りを見回してもリリィの美しい薄紅の鱗は見当たらない。
最後の会話を思い返して、長老は嫌な予感がした。
『おやおや。もしや、本当に海の魔女のもとへ……? ……ほっほっほ。近頃の若者は元気ですのぅ』
のんびりと笑う長老は、やや泳ぐスピードを速めて大広間へと向かう。
未だ大広間には王夫妻が話をしていた。内容はシリオスが赴いていた海での話だったが、長老の姿を見つけるとその会話を止めて何事かと問う。
そして、長老がリリィとの会話を二人に伝えた途端、雷が落ちた。
「もう、長老ったら! 言っていいことと悪いことまで忘れちゃったんですか? あんまり物忘れが酷いと、リリィの代わりに人間に突き出しちゃいますよ」
『ほっほっほ。……いや、それだけはちょっと』
もはや癖なのか笑った長老だったが、すぐに表情に焦りが表れた。
フィアナは冗談とも思えることを本気でやってのけるのだ。下手に逆らわないほうがいいと、シリオスとよく話をしていたほどに。
だが、こうしている間にも、リリィは海の魔女の所に向かっているかもしれない。
シリオスは宮殿内に響き渡るほどの大きな声で呼んだ。
「バン! バンはいるか!」
『はいぃぃぃ! ここに!』
ただならぬ声音に、バンも自身の出せる最速で大広間に滑り込んでシリオスの前に出る。フィアナに甲羅を掴まれて揺さぶられている長老については、なるべく視界に入れないようにして。
「リリィが海の魔女のもとへ向かったかもしれない」
『……ええっ!?』
「すぐに連れ戻せ!」
『はっ、はい! 今すぐ!』
距離は開いているだろうが、バンのスピードならすぐにリリィに追いつくはず。
宮殿を飛び出したバンは、海の魔女の住処がある方角を確認すると強く水を打った。
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