第4話 暗雲立ちこめる空
「あれだよ、あれ!」
「確かに、すごい数ねぇ」
アティが指す先を見れば、海面付近を大きな黒い陰がいくつも並んで動いていた。
一隻で動いているのなら何度か見たことがある大きさだが、ここまで集団で固まって動くのは初めて見る。
フィンはアティが言っていた話を思い返し、ある可能性に至った。
「アティの話からすると、何処かに戦でも仕掛けてるんじゃないの?」
「人間は戦好きだものね。私達には考えつかないわ」
「そんな人には見えなかったけど……」
「人は見かけによらないのよ?」
溜め息を吐いたティナに小さく反駁するも、軽く一蹴された。
またしても気落ちするリリィを見てか、バンが空気を流そうと『様子を見てくるよ』と言ってスピードを上げて先を行く。海上に顔を出したとき、人間に見つかれば厄介だからだ。
そして、様子を窺って帰ってきたバンが『問題ないみたい』と言うと、五人も揃って海上に向かった。
「って、多すぎてどれか分からないじゃない」
海上に出たはいいが、今さらながら、この数多くの船の中からたった一人の人間を探し出すという作業に軽く目眩を覚えた。船の縁からちらほらと人の顔は見えるが、リリィ以外は誰も顔を知らないのだ。
一応、手近な船を見て回るも、顔を知るリリィですら目的の人物は見つけられなかった。
エリィは予想を超えた状況に困ったように頬に片手を添えると、リリィと一緒にいたバンを見た。
「バンちゃんはどんな人か見たの?」
『うーん……。残念だけど、反射的に逃げちゃったから、ほとんど見てないんだよね。後ろ姿くらいかな』
「リリィがまた歌ったら、その人も反応して出てくるんじゃない?」
「恐ろしいことを言わないで。見つかったら大変よ? それに……あら?」
あまり深く考えずに発言したのだろう。アティの考えをティナが反対し、人魚が本来は人前で歌ってはいけないのだと改めて言おうとしたとき、吹き抜けた冷たい風に口を閉ざした。
先ほどまでの風とは違う質。冷たく、湿気を帯びたそれは嵐の前兆だ。空を見れば、船の進行方向である北の方から、黒い雲が漂ってきていた。
明らかに不自然なその雲にティナが怪訝な瞳を向けていると、波が徐々に高くなってきた。
「嵐が来たわ」
「しょうがないわねぇ。一旦、引き返しましょうか」
「えー! 嵐くらい平気だよー」
「人間みたく窒息死はなくても、流されて知らない所に行ったら大変でしょ? 帰るよ」
口を尖らせたアティをフィンが窘め、四人はすぐに海中へと引き返した。
ただ、リリィだけは慌ただしくなった船を心配そうに見つめており、海へと引き返す素振りを見せない。
それに気づいたバンが四人を先に帰し、リリィを呼ぶために海上へと引き返した。
『リリィ、危ないよ! うわっと!?』
「バンちゃん!」
『流れが……っ! 早く帰ろう!』
先ほどまでの穏やかさが嘘のように、今は波が大きくうねり、大粒の雨が肌を打つ。また、吹きつける風が強い上に海の流れも急になっている。
泳ぎ慣れているリリィやバンですら、自由に動くことができなかった。
船が心配だが、ここは一旦、引き返すしかない。
そう思ったリリィがバンに掴まりながら船を見たときだった。
「っ!?」
『うわわわわ!』
波と風に押し負けた大きな船体が、鈍い音を立ててぐらりと傾く。それも、リリィ達のいる方向に。
落ちてくる船上の物を避けるためにも、バンは慌てて海へと潜った。
だが、リリィは船から投げ出された一つの人影に気づき、反射的にバンから手を離した。
『えっ!? ちょっ、リリィ!』
落ちてくる船の一部や積んでいた荷物を避け、リリィは真っ直ぐに視界に捉えた人影のもとに泳いだ。
リリィが離れたことに気づいたバンも、降ってくる物を避けながらリリィを追う。
船から遠くに投げ出されたせいか、それとも船上で何かあったのか、追いかけるその人影は足掻くことなくどんどん海底へと落ちていく。
(間に合って……!)
相手は人魚と違って水中では呼吸ができない。早くしなければ手遅れになってしまう。
必死に泳いだリリィは、手を伸ばして青年の腕を掴む。同時に魔力を使って青年を包むように泡を作り上げた。これで水を飲む心配はないだろう。
リリィは自身が泡に入れば泳げないため、中に入らないように青年の腕を掴み直し、すぐに海上へと尾鰭で水を打った。
『あれ? その人って……』
リリィに追いついたバンは、彼女が運ぶ青年に見覚えがあった。リリィが恋をしたという青年、キースだ。
まさかこんな形で見つけるとは思わず、バンは呆然と上に向かう二人を見送った。
リリィが海面から顔を出して辺りを見れば、流されたのか船から随分と離れてしまっていた。船体が半分ほど海に飲まれており、周りには避難用と思われる小型の船が何隻か浮かんでいる。
だが、波は高く、仲間のもとに運ぶのは危ないだろう。今もどんどん流されているのだ。
キースを抱え直し、顔を海面に出させると泡がぱちんと弾けた。周りが水ではない以上、泡を維持しておくのは難しい。
陸の方を見れば、空間が切り離されているかのように空は晴れており、波も穏やかそうだ。
「船の辺りは危ないから、このまま陸まで引き返すわ!」
『……ええっ!?』
ここは陸から相応の距離はある。まして、相手はリリィよりも背丈のある男性だ。しかも気を失っているため、全体重が掛かる。リリィの細腕では、確実に途中で力尽きてしまうだろう。
それでも、放ってはおけないリリィは陸へと向かうために泳ぎだした。
『っ、もう! 仕方ないな!』
唖然としていたバンだったが、すぐにリリィの後を追った。
隣についたバンにリリィはきょとんとしたものの、彼の意図を読み取ると「ありがとう」と言って背鰭に青年の片腕を引っ掛けさせた。
キースは気を失ったままで、目を開く気配はなかった。心臓の鼓動を確かめようにも、この荒波の中では聞こえにくい。
泳ぐスピードを速めながら、リリィは心の中で海の神にキースの無事を願った。
◇◆◇◆◇◆
船から離れて行くにつれ、波は元の穏やかさを取り戻してきた。雨足が弱まり、風が優しく肌を撫でる。体を押す波の強さも感じなくなってきた。
これで大分、泳ぎやすくなった。と、小さく安堵の息を吐く。まだ完全に安心はできないが。
浅瀬に近づくと、バンは身動きが取れなくなる可能性があるため、リリィは彼の背中からキースの腕を外し、波打ち際まで運ぶ。人間のように地面に立てるわけではないため、キースの体を引きずるようになってしまったが仕方がない。
「ふぅ……。ここまで来れば、後は誰かが見つけてくれるでしょう」
『リリィ! 大丈夫そう!?』
「ちょっと待って!」
キースが目を覚ます気配はない。胸元に耳を当てれば、かろうじて心臓は動いている。
これなら大丈夫、とリリィはキースの顔と胸元に手を翳すと、ゆっくりと目を閉じた。精神を集中させ、自身の体内に流れる魔力を研ぎ澄ませる。
きらきらとリリィの翳した手の先に燐光が起こり、キースの体に降り注ぐ。
リリィは母親からある程度の魔術を学んでいる。実際に使ったことはまだ少ないが、感覚的には成功しているはずだ。
魔力を流れ込ませたのを感じ、リリィは閉じていた目を開く。
「――……これで、どうかな?」
口元に手を当ててみれば、呼吸は先ほどより楽になっていた。不幸中の幸いは水をほとんど飲んでいなかったことか。
今すぐ起きてほしい気持ちと、見られたときを案じて起きないでほしい気持ちが混ざり、誤魔化すようにそっとキースの頭を撫でた。
すると、沖から見ていたバンが遠くから近づいてくる声に気づいてリリィに言う。
『リリィ! 早く戻って来て! 人間が来るよ!』
「……うん。分かった」
声はリリィにも聞こえてきた。複数の男のものだ。
砂浜には魚を捕るための網が干されており、それを取りに来たのだろう。
名残惜しさを感じつつ、リリィは見つかる前に海へと引き返した。
「――おい、誰か倒れてるぞ!」
「あれは……キース様じゃないか!?」
(やっぱり、有名な方なのね……)
沖から様子を窺っていたリリィは、改めてキースが相応の身分を持つ人だと分かった。でなければ、名前を知られるどころか、「様」をつけて呼ばれることもない。
漁師達はキースを助けるために一人は町がある方に走っていき、もう一人は波打ち際から離そうと脇の下に手を入れて運んでいる。
あとは人間に任せていれば問題ないだろう。
リリィは隣にいてくれたバンに「ありがとう」と言うと、海へと静かに潜った。
小さな水飛沫の音がして、キースを波打ち際から移動させた漁師は海へと視線を向ける。
「ん?」
海面から一瞬だけ見えた薄紅色の美しい尾鰭。
魚のものにしては大きく、イルカにしては形が違うその尾鰭に、漁師は一瞬、キースのことを忘れて魅入ってしまった。
初めて目にした尾鰭だが、噂には聞いたことがある。この近海には人魚が棲んでいると。
(もしかして、キース様を助けてくださったのは……)
「うっ……」
「キース様!」
人魚だろうか、と確信めいたものを得たとき、下から小さく呻く声が聞こえて、漁師ははっと我に返った。
うっすらと目を開けた彼はしばらく宙を見つめていたが、すぐに自身が海の上ではなく陸にいることに気づいた。
「こ、こは……?」
「町の近くです! 何があったんですか?」
気を失っていたからか、思考がうまく働かない。
漁師も困惑した様子でキースに問う。彼は先ほど、ある任を受けて港を発ったばかりのはずだ。
キースはぼんやりとする記憶を必死に辿り、出航した後のことを思い浮かべる。
初めは何も問題はなかった。波も穏やかで、空は晴天だったのだ。
海の天候は変わりやすいとは言うが、それはあまりにも突然だった。
「嵐が、起きて……それで……っ、そうだ! 船はどうなった!? うっ……」
「お、落ち着いてください! 俺らも今、キース様がここにいらっしゃったのを見つけたばかりで……」
漸く、船が転覆したことに記憶が辿り着いたところで、キースは勢いよく上体を起こした。だが、すぐに体を動かしたせいで強い目眩に襲われ、また呻いて砂浜に倒れ込んだ。
漁師も今ここに来たばかりな上に船が転覆した件は初耳だった。
しかし、彼が何故、ここに流れ着いていたのか、あの尾鰭が見えたのかという理由に合点がいく。
「キース様。歌は聞こえてきませんでしたか?」
「歌? いや、歌は聴いていないな……」
これから戦いに赴く船上にそこまでの余裕はない。一部の者達は談笑してはいたが、歌ってはいなかった。
漁師は可能性の一つを消して、新たな結論に至った。
「そうですか……。なら、惑わされて嵐に飲まれたわけじゃないんですね」
「どういうことだ?」
惑わされるようなことは何もなかったはずだ。
漁師は何に気づいたのかと言葉を待っていると、彼は何処か安堵したように言った。
「いえ、さっき、俺らがキース様を見つけたとき、沖の方に人魚のものらしき尾鰭が見えたんです」
「人魚の……?」
「ええ。人魚は歌で漁師を惑わせて、たまに船を難破させるんですよ。まぁ、人魚よりはセイレーンのほうが頻度は多いみたいですけど」
どちらも歌で人を惑わせるため、区別をつけるのは歌声だけでは難しい。外見は異なるため、姿を見れば分かるが。
だが、転覆の原因が歌ではないのなら、あの人魚は惑わせたのではなく単に助けた可能性が高い。
「嵐が起こった理由は、きっと神様のみ知るようなもんです。海の天気は気まぐれですから。ただ、どこかの人魚が、キース様をここまで運んでくださったんですよ」
幻聖族である人魚は、滅多に人前に姿を現さない。溺れていようが関係ないと切り捨てるだろう。
だが、キースを助けたと思われる人魚はその常識を覆したのだ。
キースは、出航前に見かけた人魚を思い出す。
「もしかして、あの時の……?」
「おや? 心当たりでもあるんですか?」
「いや、発つ前に人魚を見かけたから、もしかして、その子かなって……」
特に人魚に対して何かをしたわけではなく、ただ会っただけだ。
しかし、あの時、彼女は驚いてはいたが逃げる気配はなかった。つまり、人間に対して持っている意識が他の人魚達とは違う可能性がある。
すると、漁師は嬉しそうに微笑んだ。
「そうでしたか。幻聖族は人間嫌いが多いって聞きますが、その人魚は特別なんでしょうな」
「……かもしれない」
でなければ、キースを助けるなどという、人間に自ら関わるようなことはしないはずだ。
キースはゆっくりと上体を起こすと、海を眺めながら誓うように言った。
「また会えたら、ちゃんとお礼をしないとね」
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