がんばる人のがんばらない時間。
木曜日が昔から好きだった。一週間も終わりに近づいてきて、頑張った数日が後ろにあって、楽しい休日がこれから待っている。
そんな小さな幸せを感じるのが木曜日だった。
というわけで今日は4月13日木曜日。いつものようにバー『こぴー』にいる真夜中23時30分。
このバーはお酒を楽しむバーにあらず、キャッチコピーを楽しむ場であるのだ。
外観は東京駅のような赤レンガが映える洋館のような造り。その壁をツタがぐるぐると巻き付いている。
つい先週、私はたまたまこの場所を見つけ、以来毎日のようにこのバーに足を運んでいる。
さて今日はどんなコピーが待っているのだろうか…、期待に胸を膨らませて扉をぎーっと引いてみる。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた低音ボイスが私を迎えてくれた。
この声の主は、『こぴー』のマスター。丸いメガネとちょび髭ががトレードマークのおじさんだ。今日も変わらず、カウンターの奥でグラスを磨いている。
店内はたった5席、カウンターの前にあるだけだ。その空間を、オレンジ色のランプが優しく包み込んでいる。
私は、5席あるうちの真ん中にスッと座り、カウンターに肘をつく。
「今日も楽しみにきました」
にっこりとほほ笑んで、小さく「ありがとうございます」と返事をしてくれる。
「本日も岩崎俊一さんのキャッチコピーですよ」
ぽわあ、と私の頬が少し赤く染まったような気がした。
岩崎俊一さんとはコピーライターで、今までに『幸福はごはんが炊かれる場所にある』『年賀状は贈り物だと思う』『あなたに会えたお礼です』といったコピーに出会ってきた。
とても温かい、人肌のような言葉に私は虜となってしまった…。うぐう。
「では、紹介しますね」
マスターはそう言って、カウンターの裏に消え、ボードを持って現れた。
このボードはマスター愛用の、キャッチコピー用ボードであり、毎日手書きでその日の一行が刻まれている。
「えっと」
少しドキドキしながら、今日のコトバに目を移すと。
『がんばる人のがんばらない時間。』 岩崎俊一 ドトール
「あ、これ!知ってます!」
「良かったです」
まさかこのキャッチコピーを書いた人も岩崎さんだったなんて、思わなかった!
「このコピーってなんだか不思議な感じがありませんか?」
マスターが探るように私に質問してくる。
「それって…”がんばる”と”がんばらない”が続いているからでしょうか…?」
私も同じように、腹を探る感じで受け答える。
マスターは目を閉じて、小さくうなずく。
「がんばっている人って、いつがんばらないのでしょうか…といったことを考えると、岩崎さんは優しいなあと私はつい思います」
「会社の人で、猛烈に働いている人とかも、不思議に思いますもん!いつ休んでいるんだろうなあって…」
「ふふっ、今”猛烈”って言いました?」
え、私なんか今変なこと言っちゃった!?
「よく見てください。このコピーを」
マスターは言いながら、ボードの「がんばる」と「がんばらない」の部分を優しく撫でる。少しかすれる文字。指には黒いインクがついてしまった。
「ひらがなだ…」
「そうですね、このがんばるは、ひらがなのがんばるなんですよ」
「えっと、それで?」
「漢字で頑張る、ひらがなでがんばる。この言葉ってイメージは違いませんか?」
「あ!漢字だと、周囲の人も知っている感じがします。ただ、ひらがなだと陰ながらがんばるみたいな感じがします」
マスターは穏やかに目を細める。
「あとは、一気呵成にうわー!って頑張るのが漢字のイメージで、コツコツ積み上げるようにがんばるのがひらがなのイメージです」
「では、それを頭の端において、もう一度コピーを見てみるとどうでしょうか?」
もう一度、私はキャッチコピーに視線を移す。
『がんばる人のがんばらない時間。』
誰も知らないところで、コツコツと頑張っている人が、少しだけホッと気持ちを緩めているような絵が、頭の中をよぎった―気がする。
「マスター!努力家の会社員が、少しホッとしている絵が見えました!」
「ふふっ、会社員なんですね。私は、芸術家や音楽家が見えましたよ」
うっ!やっぱり、私が会社員だからかなあ…。でも確かに芸術家さん、自分の描いた絵がそこまで売れない。自分が頑張っているのに。そんな人の肩をポンポンと叩いて、「まあ、たまには一休みをしましょうよ」って言っている。そんな気もしてきた…。
と、ここで試合終了の合図。
チチチチ。終了という割には、すごくチャチいのだけれど。
「あら、もう時間になってしまいましたか」
マスターはそう言って、カウンターから出てきた。
そして、いつものように扉を開けてくれる。
「今日はなんだか、新しい楽しみ方を見つけた気がします」
よかったです、と言って微笑んでくれる。
「岩崎さんのキャッチコピー、自分でも探します!」
「ふふっ、大層お気に召したようで…ではまた明日もお待ちしていますね」
ゆっくりと扉が閉められる。
まさか、あの一行にそんな思いを読み取ることができるなんて…。
初めての感覚だった。いつもはスッと読み飛ばしている一行…いやあもったいなかったなあ。
そんなことを思いながら、家路についた4月13日の木曜日。
今日の一行は
『がんばる人のがんばらない時間。』 岩崎俊一 ドトール
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