あなたに会えたお礼です。
気づけばもう4月も半分に差し掛かっているなあ、と思い始める4月12日水曜日。
今日も今日とて、バー『こぴー』の前にいる私は、よほど暇なのだろう。
いや、仕事はきついのだけれど…働きたくないでござる。
このバー『こぴー』はキャッチコピーを楽しむちょっぴり大人なバーである。
外観も赤れんがにぐるぐるツタの、明治時代が愛した洋館みたいな感じ。扉も観音開きで、ごっつい板チョコをイメージさせる造りである。
先週の月曜日に初めて通い始め、毎日お世話になっているほどキャッチコピーって面白い。
では、では、扉を開いてキャッチコピーの世界に飛び込もう。
カランカランと音がなった。
「あれ、マスター、これ付けてましたっけ?」
カウンターの奥で、優雅にグラスを磨いているのが、この店のマスターだ。
丸いメガネとちょび髭が可愛らしい50代くらいのおじさん。
店内は5つだけカウンターの前に席があり、オレンジ色のランプが優しく店内を照らしている。
「今日、お客さんに直してもらったんですよ」
私が気づいたのは、扉にかかった小さなベル。昨日まではなかったのだけれど。
「久しぶりに来てもらって、しかも直してもらえた。そして今日もコピーの話ができる。幸せな一日です」
マスターはそう言いながら、グラスを磨き終え、棚にしまう。
バカラのようなキラキラとした輝きが、オレンジの光を吸収して、夕日のように煌めいている。
私はいつものように、カウンターの真ん中の席に陣取って、今日のおすすめをじっと待つ。
「それでですね、今日はそのお客さんも小粋に使ってくれた、岩崎俊一さんのコピーをお出ししようかと」
カウンターの裏に消え、ボードを持って、また現れるマスター。
そのボードには、毎回マスターのおすすめのキャッチコピーが書かれている。
さてさて今日の一行は。
『あなたに会えたお礼です。』 岩崎俊一 サントリー
「あれ、いつもと違いますね」
「そうなんですよ…せっかくのコピーですので、書いた人、そしてその商品も知ってもらえれば、もっと好きになってもらえるかな、と思いまして」
なるほど…確かに、なんというかキャッチコピーがぐっと近くなった気がした。
ううん、言葉にするのは難しいのだけれど…美術館の展示品だったキャッチコピーが、自分の家に飾ってあるみたいに身近になるような…?
「それで、どうでしょう?今日のお客様も、ベルを直してくれた時に、こう言ってくれました」
「すごい、かっこいい!」
私は両手の拳を握り締め、思わずカウンターに乗り出してしまった。
「久しぶりに会えたお礼でベルを直しました…そんなことをサラッと言えるなんて、すごいかっこいいです」
「ふふ」
マスターは目をつむって、小さく嬉しそうに頷く。
「このコピーは、サントリーのウイスキーを片手に、昔からの友人と出会う。そんな光景をイメージしますが、どうでしょうか?」
「う~ん、確かにマスターのイメージも分かるんですが、昔好きだった人に出会うほうが私は、萌えます」
ちょっと目を見開いて、驚くマスター。あれ、なんか変なこと言ったかな?
「わお…それも面白いですね。昔憧れていた人に久しぶりに会って、ちょっと照れくさそうにプレゼントをする…」
「しかも、プレゼントするのはウイスキーとかじゃなくて、かわいいお菓子とかどうです?ちょっとぶっきらぼうな男性が、好きだった女の子に、トリュフとか送っちゃうみたいな」
矢継ぎ早に話す私。ゆっくりと淡々と話すマスター。
「ふふっ、お礼はチョコなんですか?それは可愛いですね」
「そうですよね!あ、でもこのキャッチコピーはウイスキーですもんね、ごめんなさい」
少し調子に乗ってしまったと思って、語尾が小さくなる私。
マスターはけらけらと笑って、大丈夫ですよと、続けてくれる。
「大丈夫ですよ。そういう風に自由に連想して楽しんで欲しいと思って、話しているのですから。なるほど…昔好きだった人にチョコを渡す、という連想は新しい発見でした」
チチチチと、そこで終わりの合図がなってしまった。
「はあ…今日も、やっぱり早く時間が過ぎちゃいました」
私は荷物をまとめながら、少し残念な気持ちを溜息に込める。
「岩崎さんのコピーっていいですね」
「ありがとうございます」
カウンターから出てきて扉を開けてくれるマスターは自分のことのように嬉しそうに感謝した。
「ぜひ今度、この言葉を使ってみてください。例えば同窓会で」
「あ、分かりました!『あなたに会えたお礼です』って言ってみます!」
「では、おやすみなさい。また明日もお待ちしています」
ぎぎぎと音を立て、扉が閉まる。
こんな言葉をつかえたらかっこいいなあ。ちょっと使ってみようかなって、そんな風に思えた4月12日の夜だった。
意外とキャッチコピーって生活の言葉なんだなって発見もあって、少しうれしい。
明日、誰かに話してみよう。
今日の一行は
『あなたに会えたお礼です。』 サントリー 岩崎俊一
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます