年賀状は贈り物だと思う
4月11日火曜日の23時30分。
私は今日もバー『こぴー』の前にいた。
見た目は明治時代の古い洋館。地肌の赤いレンガが、ぐるぐる巻きのツタの間から見え隠れ。扉は大きな板チョコみたいだ。当然、観音開きの優雅な造り。
ここはキャッチコピーを楽しむ、ちょっぴり大人な世界。キャッチコピー好きのマスターが毎日、面白い一行を教えてくれるのだ。
さてさて、今日はどんな一行が待っているのでしょうか?
うきうきした思いで、私はゆっくりと扉を開く。
「ああ、ああもう…あ!いらっしゃいませ」
カウンターの奥で、マスターがなにやら悪戦苦闘していた。
たった5席しかない狭い店内。オレンジ色のランプが店内を温かく包んでいる。
しかも5席すべてカウンター席。そのカウンターの奥に、丸い縁のメガネと鼻の下のちょび髭が可愛らしいマスターが、いつもは悠然とグラスを磨いているはずなのだけれど…。
「どうしたんですか?」
私はいつものように、真ん中の席に腰を下ろす。
「いやはや…年賀状のお年玉をチェックしていて…」
年賀状のお年玉…?ああ、あの数字のやつか。年賀状の表に印刷されている数字、その数字が懸賞番号になっていて、当たるといいものがもらえるらしい。
「なにかいいものでもあたったんですか?」
「それが、まったく当たらなくて…とほほ」
とほほなんていう人初めて見た!
「見てください、これ、切手が3枚だけです」
マスターの手元には、大相撲の横綱の懸賞金並の手紙の束がある。そこから上3枚だけをつまんで私に見せてくる。
「うう~、でも、お年玉が目的じゃないからいいです」
そう言って、300万円相当の厚さはあるかと思われる束をカウンターの奥にそっとしまう。
「それで、年賀状、出してます?」
「年賀状ですか?え~と…」
う!年賀状…いつから出してなかったけ…。
「…もしかして、出してないとか?」
「いや、だって、忙しいし…」
そうだ、忙しいのが悪い!12月なんて、くそ忙しいし!
「それに…なんというかパソコンで大量に印刷できちゃうから、送っても送らなくても一緒かなって…今、ラインとかもあるし…」
マスターは天を仰いで、大きなため息を吐いた。
「まあそうだろうと思いまして、今日も岩崎俊一さんのコピーを紹介したいと思います」
岩崎俊一さん…昨日のキャッチコピー『幸福は、ごはんが炊かれる場所にある。』が今でも心の奥で、温めてくれている気がする。
なんというか、本当に温かい。同じ言葉を使っているのに、ここまで体温を感じられる言葉を書けるなんて…嫉妬してしまう。
と、ぼ~っと考えていたら目の前にいつものボードがあった。
このボードはどうやらマスター愛用の、キャッチコピー書く用ボードのようだ。
ほら、喫茶店とかで「今日のおすすめ」とか「店長のおすすめ」とか書かれているボード。それをイメージしてもらえれば分かりやすいかも。
「今日のコピーは、こちらになります」
ボードの文字をゆっくり読み進める。
『年賀状は贈り物だと思う』
贈り物…?
「どうですか?イマイチ実感が湧きませんか?」
「いや…そうじゃなくて…なんというか」
一気に恥ずかしくなってしまったのだ。
私、さっきなんて言ったけ。「パソコンで大量に印刷できちゃうから、送っても送らなくても一緒」
モノだった。
「私、年賀状をずっとモノだと思ってました」
目をつむって黙って頷くマスター。
「作業の一つ…なんていうか、面倒な一月の作業のような感じだったんです。だけど、この岩崎さんの一行って、すごく心が込められている気がして」
「それで?」
「年賀状をもらう相手の気持ちがすごい伝わってきたんです。それに、手書きで必死に書かれた一枚も、小さく一言が添えられた一行も、もらった時に嬉しかったんです。私も」
「ふふっ」
いつものようにグラスを磨きながら、小さく微笑んでくるその顔を見ると、少しだけ素直になれるような気がするのはいつものことだ。
「年賀状って、送られると幸せな気持ちになりますもん…でも、今日までそんなこと考えてきませんでした…」
「どうです?今年は年賀状、書きますか?」
「…うっ…いや、頑張ります!手書きは少し厳しくても、一言を添えるくらいなら、できますもん!」
チチチチという音が響いた。
どうやら今日も終わりのようだ。後ろを振り返ると、古い時計が、私に囁いていた。今日も勉強になったでしょ?と。
マスターがカウンターから出てきて、扉を開けてくれる。
「どうでしたか、今日は?」
「岩崎さんのキャッチコピー、私好きです」
「ふふ、よかったです…明日もお待ちしていますね」
星が今日も綺麗に輝いている。なんというか、心のなかに幸せな感覚が、あったかく残っている気がするような。
ちょっと、今年は年賀状頑張ろうかなって。早めに準備して。
そんなことを思った4月11日の夜だった。
今日の一行は
『年賀状は贈り物だと思う』 日本郵便 岩崎俊一 2000~2009
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