女の子たちが服を着替えると、この街に春がやってくる。

ようやく水曜日を終えることができた。

今日は4月5日。週の半分が終わった自分を祝福するために、私はキャッチコピーバー『こぴー』にやってきた。

甲子園球場のツタのようなものが絡みついた赤れんが作りの洋館のような建物。そこが私の最近の行きつけのバーである。

このバーでは、お酒を楽しむのではなく、キャッチコピーを楽しむのだ。

最初はまったく興味がなかった私だけれど、少しずつキャッチコピーの表情を知るたびに、のめり込んでいっている気がする…。

さて、あの板チョコのようなゴツゴツした扉を開いて、入店しよう。

時刻はいつもと同じ23時30分。お店が閉まって、キャッチコピーの時間がやってくる。


「もう春ですね」

お店に入ると、マスターから声がかけられた。

「そりゃあ4月ですもの」

私はいつもの席に腰を落とす。店内には5つだけ、カウンターに席がある。その真ん中が私の特等席…になりつつある。

そして、コートを脱いで隣の席にかけておく。

室内はオレンジ色のランプで包まれ、温かい。マスターがカウンターの向こうでグラスを磨いている。その磨く音しかしないのだけれど、居心地がいい。

「今日もいいコピーが入ってますよ」

マスターはグラスを磨くのをやめ、カウンターの裏に姿を消した。

そう、今日もまたキャッチコピーを味わうのだ。

マスターが、ひょっこりと目の前に現れた。いつものボードを持って。

「春にぴったりのコピーを、今日は用意しています」

そう言ってマスターはボードを置く。

『女の子たちが服を着替えると、この街に春がやってくる』

「どうですか?」

マスターは目元柔らかく、聞いてくる。

「なんというか、パステルピンクみたいな感じがします」

私がこの一行を読んだ瞬間、脳内一面パステルピンクのようなものが湧きだした…気がした。

そんな素人丸出しの感想もマスターは楽しそうに聞いてくれる。

「おお、色で表現してくれるなんて面白いですね」

「そうですか」

少し照れくさくなって、そっけない返事をしてしまった。

マスターは気にせず話を続ける。

「女の子はどの季節でも服を替えますよね?」

そう聞かれて、一秒も置かずに私は首を縦に振った。

そりゃ、真夏にコートを羽織っていたら、おかしい人になってしまう。

「じゃあ、なんで服を着替えることが春のイメージに近いんでしょうか?}

うぐ…確かに…。

なぜ服を替えるのが、春っぽいんだろう。

学生の頃は、衣替えが6月と10月にあったから、連想するんだったら夏とか秋のはずなのに。

「ふふ、今日も面白い顔をしていますよ」

マスターが必死に考える私にチャチャを入れてくる。

でも、そんなことは無視だ。昨日の”つまらない”を分からなかったことが、かなりくやしかったから…今日は絶対に答えを出してやる。

服を着替えるだけのことを伝えているんじゃない…ハズ。

「着替えると何が変わるんだろう…」

「お!」

「例えば、私が服を替える…でもいくつかは新しいのを買いたいし…」

マスターがニコニコしながらこっちを見てくる。どうやら方向性は間違っていないみたいだ。

「みんなに見せたい…って思うはず。だから大きな街に行く。それで、それで…その時の気持ちって軽やかな感じがするから…春なんじゃないかなあ」

一言一言、ゆっくりと絞り出すように話す、私。

マスターはその都度頷いてくれる。

「では、夏のイメージは?」

「う~ん、活発な感じでしょうか」

「秋は?」

「ゆっくりした静かな感じ、あとは個性が出てくる感じ…」

「冬は?」

「寂しい感じだと、思います」

マスターはゆっくりと頷く。

「なるほど、お客様はそうイメージするんですね」

…?うん?私”は”ってどういうことなんだろう。

「私”は”ってどういうことですか?」

「え?そのままの意味ですよ」

マスターは、きょとんとした顔をしたが、すぐにニヤリと笑う。

「ああ、なるほど…お客様は一つの答えを求めていたんですね…」

「一つの答え?」

「夏にさびしいイメージを抱く人はいるかもしれませんよ?冬に活発なイメージを抱く人もいるかもしれません…つまり、お客様の考えたことは一つの答えであっても、1つだけの答えではないのですよ」

…どういうことなのだろう。頭の周りにハテナマークがたくさん湧いてくる。

「ですから、つまり、今日の質問”服を着替えることが春のイメージに近いのはなぜか?”に対する答えは、100人いたら100通りの答えがあるということです」

にっこりと笑い、マスターは人差し指を立てる。

はあ?そんなのありなのか!昨日は必死に一つの答えを探していたのに!

「ふふ、こういうのもたまにおもしろいでしょ?」

「…ええ、とても」

「あらら、機嫌悪くなっちゃいましたか」

「別に悪くなってません!」

私はそこで時計を見る。24時になりそうだ。

「ほらもう時間ですから、私はそろそろ帰ります」

「ふふ、分かりました。またいらしてください」

おだやかなあの空気に包まれると、なんだか腹を立てるのが馬鹿らしくなってくる。

私はコートを羽織り、扉を開けた。

背中に

「最後にもう一つ、なぜ”まち”の漢字が”街”だったのでしょうか?では、おやすみなさい」

と、マスターの声が重なった。

確かに、なんでだろう。でも小さい”町”だと、少し田舎っぽい感じが…。

ってまた、感覚で考えている…あれ?もしかして、キャッチコピーを楽しむってこういうことなのかな…。

まあ、いいや。今日はお風呂で、この『町問題』を考えることにしよう。

ようやく一週間も折り返し地点。また明日からも頑張ろう。

そして土曜日には、春の訪れを教えに行こうかな。

『女の子たちが服を着替えると、この街に春がやってくる。』のだから。

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