夜に生きる

三角海域

第1話

 冷蔵庫から具材を取り出し、いざ鍋を火にというタイミングで呼び鈴が鳴った。モグラは火を止め、インターフォン越しに声をかけた。

「はい」

「こんばんは。お邪魔でした?」

 聞きなれた声。モグラは玄関に向かい、鍵をあけると、来客を部屋に迎え入れた。肉付きの良い身体をスーツで包み込み、ミディアムヘアの黒髪が艶やかなこの女は、ホタルと呼ばれている。

「お、夕飯の支度中でしたか。タイミングが良くなかったです?」

 悪びれる様子なく、ホタルは笑った。

 モグラはホールトマトの缶詰に手を伸ばし、ナイフで缶を開けると、コンロに火を点け、鍋で薄くスライスしたバターを溶かし始める。ちらりとホタルの方を見ると、モグラの意をくみ取ったのか、脇に抱えていたバッグからファイルを取り出す。

「ここらで最近出回ってる新種のドラッグのことは知ってますよね? あれね、金持ちの坊ちゃん嬢ちゃんのパーティーに出回るようになったそうなんですよ」

 モグラは鍋の中に挽肉を入れながら頷いた。一昨日の夜塩を塗りこみ、キッチンペーパーで包んで冷蔵庫にいれ、今日の朝酒と蜂蜜に漬け込み味付け、自分で挽いた肉だ。

「それで、社長にじきじきに依頼が来たそうなんですよ。その根を断ってくれってね。手遅れになる前にこちらとしては何とかしたい。警察も動いてはいますが、なかなか根を断てなくて困ってるそうで。あんまり他のシマに手を出すのはよろしくないんですが、そこは社長の交渉術でパパッと済ませちゃいました」

「金か」

 モグラは火を通した挽肉にホールトマトを流し込み、かき混ぜながら言った。

「金で納得させるのも立派な交渉術ですよモグラさん」

 ホタルの言葉には返答せず、モグラは黙々と鍋と向かい合う。肉を漬け込むために購入した赤ワインのハーフボトルを取り出し、すりおろした玉ねぎと一緒に鍋に注ぎ入れる。

「まあ、ともかくですよ。社長のおかげでこちら側から介入できることになりまして。我々としてはですね、バシッと滞りなく仕事を済ませたいわけですよ」

「そんなパーティーには出るなと言えばいい」

 モグラはソースをひと煮立ちさせ、火を止め、パスタケースから紐で括った一束を取り出す。塩をいれた鍋は底がそこまで深くない。モグラはパスタの束を、缶を開けるのに使ったナイフの柄で何等分かに叩き折り、沸騰した鍋にいれた。

 ホタルがモグラの手元を覗き込む。話を聞いているのは分かるのだが、ほとんど返答や相槌がないので少々退屈しているらしい。

「そうもいかないわけですよ。お金持ちというのは我々の常識が通用しないんですなぁこれが」

 大げさなアクションをとりながらホタルが言う。モグラはそれを無視してパスタを鍋から取り出し、軽く湯切りして皿の上にのせ、少し火を入れ直したソースをその上にかけた。

「で、俺はどうすればいい。早く内容を話せ」

 食器棚からフォークを取り出し、モグラは言った。

「せっかちですねぇ相変わらず」

 モグラは返答のかわりにパスタをかきこんだ。トークをする気はないというのは行動で示している。ホタルはため息をひとつ吐き出すと、ファイルからレジュメを取り出す。

「仕入れ元はヤクザですけど、あくまでも仲介屋として動いてるだけみたいですね。薬局と同じですよ。処方箋もらって必要なぶんだけお薬を渡すわけです。実際にそれを流す売人自体はみんな小物ですね。そこを捕まえたり消したところで痛くもかゆくもないでしょう。ルートを潰しても無駄です。香港や台湾をはじめ、ヨーロッパにまでルートがあって、うまく使い分けてるんですよ。まあ今回の依頼はここらでそのお薬が出回らないようにすることですからね。処方箋を金持ちボーイ&ガールに渡してる奴を消せばいいわけですよ」

 パスタを平らげ、皿をシンクに置き、モグラはホタルに訊いた。

「大物なんだろう。そう簡単に見つかるもんなのか?」

 ようやく会話のキャッチボールができてうれしいのか、ホタルは嬉々として答えた。

「仲介している以上、ヤクザさんたちはその誰かさんと繋がりがあるはずじゃないですか。そこからちょちょいと」

「また金か」

「いいえ。あの人たちはお金稼ぎのプロですからね。お金で交渉しようとすると長引くので却下です」

「じゃあどうやったんだ」

 ホタルはにへらとだらしなく笑うと、自分の胸や下腹部を指でなぞり、甘い声で言う。

「女にはいろいろと口を割らせる術があるんですよ」

 舌で自分の指先を軽くなめながらホタルは言った。

「私、そこそこルックスもいいですし、アッチの方はインテリジェンスなので」

 モグラは呆れたように首を振り、シンクに置いた皿を洗い始めた。

「信じてないんですか? あ、じゃあ試しましょうか、今から」

「いらん」

「本当ですかぁ?」

「早く先を言え」

「はいはい。腕はいいけど頭は固いですよねモグラさん」

 ホタルはレジュメに目を落とし、情報を説明した。

 ドラッグをばらまいているのは、佐久間隼人。実業家だった父から会社を継いだ御曹司らしく、経営は部下に任せ自分は遊びほうけているという典型的なタイプだと言う。大規模なパーティーをしょっちゅう開催し、そこでドラッグを使い「ナニ」をすることにはまっているらしい。

「くだらない」

「しょうもないですよね。金があれば堂々と表を歩きながら裏道の人と繋がれる。ウィンウィンのビジネス関係として。いやな世の中ですよ」

 ホタルは大げさに悲観してみせる。本気でそう感じているのか、小バカにしているのかが分からない。

「モグラさんにはその佐久間を消してもらいたいわけです。でもですね……」

 ホタルの言葉をモグラが手で制する。

「お前が身体で落としたやつが佐久間にも情報を流してるって言いたいんだろう」

「その通りです。さすがですね」

「嫌になる」

「仕事がですか? それとも今自分がいるこの腐った世界が?」

 小首をかしげてそう問いかけるホタルの表情は大変に明るい。心の底から彼女が言うところの腐った世界を楽しんでいるのだろうとモグラは思う。

「ディナーをこんな話で台無しにしたことがだよ」

 モグラがそう言うと、ホタルは声をあげて笑い、それは申し訳ありませんでしたと言った。



 次の日、モグラは自分の雇い主である社長のもとへ向かった。

 社長というのは愛称ではなく、きちんとした役職だ。

 モグラの雇い主は、賢木初音。大手ホテルチェーンの「社長」である。その大きな資金力を活かし、初音はひとつのコネクションを作った。所謂闇の仕置人のように金銭で悪人をさばくようなものではなく、初音に利をもたらすのならば、非合法なことでも手を貸すというものだ。つまり、暗殺も資金援助も初音にとっては同じカテゴリーであり、ホテル経営と同じくビジネスなのだ。

 初音が住居兼オフィスとして使っている上野のマンション(全国に同じような場所が何軒もある)に向かう途中、モグラは中華料理店に立ち寄った。

「こんにちは」

 暖簾をくぐり、炒め物の匂いと賑やかな声がモグラの鼻腔と耳朶を刺激する。モグラはここの匂いと雰囲気が好きだった。

「あれま渡辺じゃないか。久しぶり」

 大きな中華鍋を器用に振りながら、小太りの男が微笑みかける。彼はこの料理店の店主で、陳 ( ちん )恭 ( きょう )敬 ( けい )という。本名ではなく、日本に来た時に名を変えたとのことだった。恭敬にはつつしみうやまうという意味があり、そうした生き方をしたいという思いを込めての名らしい。自分も渡辺という仮名を使っているが、そんな立派な意味はない。もっときちんと考えるべきだったのかもしれないと時々モグラは思う。

上野という場所柄、陳と同じく中国から日本にやってきた者も多く、いつのまにか皆の長老のような立ち位置になっていた。当初は陳一人で店を経営していたが、今では香港から出てきた若者を弟子(陳は師匠と呼ばれるほどの腕ではないと謙遜しているが)として雇っている。彼は日本で就職したが会社になじめず退職。国に帰ろうとも思ったが両親の反対を押し切ってまで日本にやってきた手前、なかなか帰国に踏み切れず、ダラダラとすごしていた。そんな時に陳と出会い、店で働くことになった。

「ゴンさん。久々に渡辺さんに会ったんだから少し話してきなよ」

 陳の隣で鍋を振る陳の弟子、陽中が言う。陳よりも日本語が達者であり、まったく違和感なく日本語を話す。彼は陳のことをゴンさんと呼ぶが、それは恭敬をピンインで読むと恭 ( ゴン )敬 ( ジン )となり、それを縮めてニックネームのように使っているのだという。

「いいよ。ちょっと顔出しただけだから。邪魔したね」

「賢木さんのとこにいくか?」

 出ていこうとしたモグラの背中を陳の声が引き止める。

「ああ」

「ちょっと待っててくれないか? ちょうど昨日猪肉の燻製作ったんだよ。前に賢木さんが好きだって言ってたから」

 陳は冷蔵庫からパック詰めされた燻製を取り出し、モグラに手渡した。

「賢木さんによろしく伝えといて」

「わかった」

「それと、顔色よくないよ。ちゃんとご飯食べてるか?」

「食べてるよ」

「どうせパスタばっかだろ。偏るよ、栄養。好きな時に来るといいよ。金なんかいらないから、腹いっぱい食ってきな」

 そう言って陳はモグラの肩を叩いた。こうした気遣いが押しつけのようにならないのは、陳の人柄のおかげだろうか。

「じゃあ、近いうちにお言葉に甘えようかな」

 陳はいつでもおいでと白い歯を見せて笑った。



「美味しい。前に食べたものよりも数段味が上ね。陳さんは料理ならなんでも上手にできるのかしら」

 ワインを飲みながら初音は次々と猪肉の燻製を口に運んでいく。

「それとモグラ。室内ではサングラスくらいとりなさいな」

「この部屋は日差しが強すぎるんです」

「あらそう? 日当たりはいいと思うけど、そんなにかしら」

「目が強い方ではないというのは社長も知ってるでしょう」

 最後の一切れを口に運び、ワインで肉を流し込むように飲み込むと、初音は小首をかしげながらとぼけてみせる。

「そうだったかしら?」

「だからこんな二つ名がついてるんです」

「不本意?」

「いいえ。いちいち名前なんて気にする性格でもないので」

「そこそこ長くその名を使ってるのだから、愛着がわいたりしないの?」

「まったく」

「素直ね」

「仕事の話をしませんか」

「せっかちね。ホタルも愚痴ってたわよ? 不愛想でせっかちだって。女が誘ったら男は受けるべきじゃない? なんというか、それが残念な子ならまだしも、ホタルはとってもかわいいじゃないの」

 グラスのワインを次々に飲み干しながら初音が言う。モグラはそんな初音をじっと睨んでいた。

「はいはい。分かったわよ。佐久間隼人のことはホタルに訊いたわね。ここ最近はレストランの経営に力を注いでるらしいわね。でも、佐久間はおいしいランチとディナーをリーズナブルに提供するための店舗作りをと言っているけど、本当の目的はそれを隠れ蓑にしてドラッグのルートを作ろうというわけ」

「そんなことが可能なんですか?」

「金と人脈をうまく使えばね。警察に尻尾を掴まれない限りはという条件付きだけど、お山の大将は身代わりを用意しているものだから」

 つまり、仮に警察が佐久間を潰しにかかっても、うやむやで終わるということだろう。佐久間の部下なりが身代わりとなり、佐久間は責任をとって辞任するなりする。仕事を失っても生きていくだけの金は持っているはずだ。佐久間が逮捕される事態になったとしても、刑がそこまで重くなることもない。

「では、やはり消すしかないと」

「そういうことね」

 ならば、もうあれこれ話す必要はない。自分の仕事は痕跡を残さず佐久間を消す。それだけだ。

「仕事はいつですか」

「一週間後の火曜日。アメヤ横丁の近くにあるクラブを貸し切ってパーティーをするらしいの。そこのクラブを潰してレストランにするから、最後にみんなで騒ごうってのが目的みたい」

「分かりました」

「道具はいつもの場所で受け取って。仕事を済ませてからもいつも通りに。さて、仕事の話はこれでおしまい。一杯どう?」

 モグラは初音の誘いを断り、マンションを出た。もう辺りは暗く、夜風が少し冷たい。三月も末だというのに、春の気配を感じることはない。

 日が出ている間はまだいいが、夜がくればとたんに冷え込む。

 桜の開花宣言が少し前に出されたが、春の気配が未だ遠いせいか、どこか季節外れに感じる。

 モグラはネオンを見つめる。煌々と灯る夜の光。凝視しても、目に違和感を覚えることはない。日の光だけが、モグラの目を白く覆う。いずれフィルムが燃え落ちる時のように、白い光が視界すべてを覆い、目を焼くのではないか。そんなことをモグラは思う。

 モグラはサングラスを懐にしまい、人込みの中へと歩き出した。



 一週間後。モグラはアメヤ横丁の中にある一軒のブティックに足を運んだ。洒落たコートから龍の刺繍がはいったジャンパーなどが乱雑にならぶ店だ。カウンターには一人の黒人がおり、本を読んでいる。

「読書中すまない」

 ちらりと黒人がモグラの方を見た。


「久しぶりだなカーヴァー」

「あんたを見かけない方が平和なんだそのその方がいい」

 カーヴァーは立ち上がり。笑顔で手を差し出した。モグラはその手を握る。

「道具は?」

「用意してある。ちょっと待ってろ」

 彼のスティーブン・カーヴァー。初音が飼っている武器屋のひとりだ。初音が利用している密輸ルートから武器を仕入れ、それをこうして渡し、処分も担当する。モグラはカーヴァーとは特に親しい。互いに読書が好きだという共通点があり、時折本の話をランチやディナーがてらにすることもあった。

 モグラは読む本を選ばないが、カーヴァーはゲーテやチェーホフなどを好んで読んでいた。初めてレイモンド・カーヴァーの本を読んだ時、自分がカーヴァーの家に生まれたことになにかしらの運命を感じたということを酒に酔うと毎回話していた。

「ほら」

 箱を手渡される。いつも通りだ。普通に開けるとダミーが出てくる。箱が二重になっているのだ。仕掛けを解除すると、銃が出てくる。内容によって受け取る武器は違うが、大体は二インチのリボルバーだった。

「気を付けてな」

「ああ。そういえば、何読んでたんだ?」

 カーヴァーは本を手に取り、ブックカバーを外した。



 今日も外は寒かった。人込みの中を歩けば熱気で額に汗がうっすらと浮かびはするが、時折吹く風がやはり寒い。

 モグラは行きかう人の間を抜けながら、クラブを目指した。

 目的地が見える。あらかじめ裏口があるということを聞いていた。裏手へまわると、ガラの悪い連中がたむろしていた。

「なんだあんた」

 モグラは答えず歩を進める。見張りがいることも予想通り。

「もう夜だぜ? なんでサングラスなんかかけてんだよ」

 バカにしたように見張りの一人が言う。

「目が弱いんでね」

 バカにした男がモグラに近寄る。何かを口にしようとし、口を開く。そこにモグラの掌底が叩き込まれる。痛みや苦悶の声をあげることなく、ただ血だけが男の口からあふれ出る。他の見張りが何が起こったのかを認識するよりも早く、モグラの手刀が顎を砕かれた男に振り下ろされ、男は地に伏した。

 見張りたちが騒ぎ始める、困惑。それはすぐに怒りへと変わる。モグラは見張りたちが動くよりも早く駆け、確実に急所へと拳を、手刀を、蹴りを叩きこんでいく。

 見張りたちは困惑を怒りに変える間もなく叩き伏せられた。

 モグラは裏口を抜け、クラブの中に入る。大音量で流れる音楽と絶え間なく明滅し続ける色とりどりのライトの中を歩いていく。見張りと思わしく者に近づき、膝を砕き、喉を潰し、少しずつ奥へ奥へと進んでいく。

 誰もモグラを気にもしない。ドラッグと明滅する光が彼らをトランス状態にしていた。モグラは仕掛けを解く。

 階段を昇った先のVIPルーム。ガラス越しに下を見下ろすことができる。そこで佐久間は狂乱の宴を楽しんでいるはずだ。

 モグラは少し距離をとった場所で立ち止まる。

 女に腕を引かれ、足取りのおぼつかない男がガラスの近くにやってくる。モグラは銃を箱から取り出し、そのシルエットに向ける。

 大音量で鳴り響くダンスミュージックがさらに音を増していく。低音がモグラの身体を揺らす。まるで心音が内側からモグラの身体を揺らしているように感じる。

 引き金を引く。乾いた音がダンスミュージックにかき消されるが、ひび割れたガラスが銃が発射されたことを証明していた。続けて引き金を引いていく。ガラスが割れ、破片が真下に降り注ぐ。

 所々で悲鳴があがりはじめた。

 モグラは混乱が広がり始めたクラブを出て、銃を仕掛け箱に戻すと、指定されたゴミ箱へ箱を捨てた。

 そのまま上野駅へ向かい、コインロッカーからバッグを取り出し、トイレで着替えると、元々着ていた服をバッグに詰め、同じロッカーにいれ、駅を出た。

 仕事を終えた後でも、やはり外は寒かった。いつからか、殺しをしても心に異様な熱を帯びることは無くなっていた。



 家に戻り、しばらく明かりを消した部屋でモグラは本を読んでいた。月明かりが窓から差し込み、本に印字された黒を淡く浮かび上がらせる。そろそろ眠ろうかと考えはじめたころ、モグラの携帯が鳴った。ホタルからの着信だった。

「お見事でしたね。さすがです」

「お前が佐久間を窓際まで誘導してくれたおかげだよ」

「時々優しいですよねモグラさん」

「今どこにいるんだ」

「あれ? お誘いですか?」

「違う。こんな夜中にどこに行くっていうんだ」

「モグラさんの家であれやこれやとかなんて言ったら電話切られちゃいそうですね。とりあえず今は社長のところで休ませてもらってます」

「大丈夫だったのか? ドラッグとか、佐久間に何かされたりとか」

「ナニをして佐久間との距離を縮めなきゃなんですから、ナニしてなんぼですよ。まあちょっと強めでしたけど、私そうそうドラッグでハイになることないですからね」

 ホタルは過去にある男にドラッグを大量に使用され、オーバードースで死にかけたことがあったという。本来なら死んでいたはずだが、ホタルの身体である変化が起き、ドラッグを完全とはいえないが無効化できる体質になったのだという。初音がホタルを拾ったのもその体質と自分の身体を切り売りすることへの躊躇の無さなどを気に入ったかららしい。諦観がホタルの強みだと初音は言う。強い感情がプラスにもマイナスにも働かない。フラットな感情はあらゆる状況に適応するのだと。

「この前のディナー台無しにしたかわりに、今度美味しいイタリアンを紹介しますよ。そこのパスタは超おすすめなんです。モグラさんもすんごい気に入ってリピーター化すること間違いなしですね」

「自信満々のところ悪いがな、俺は別に特別パスタが好きなわけじゃない。あくまでもパスタを作るのが好きなだけだ」

「またまたそんなめんどくさいことを言う。本ばっか読んでるからですよ。外に出ましょう外に!」

「機会があればな。じゃあ、お休み。おつかれさん」

「ドライですねまったく。おやすみなさい」

 電話を切り、ソファに深く腰掛ける。

 何かを作り、何かを食う。その単純さが人間らしさを自分の中にとどめてくれるようだとモグラは考えていた。パスタをよく作るのは、それが理由だった。

 ゆっくり目を閉じる。

 夜の向こうで色々な音が聞こえる気がした。フラットであろうとすればするほど、モグラは自分がすり減っていくように思えた。自分はホタルのようにはなれないのだとモグラは思う。

 大きく息を吐き、音を消していく。

 少しずつ音は小さくなり、意識は眠りの微睡に溶けていく。

 完全に眠る前に、カーヴァーが見せてくれた本のタイトルを思い出す。レイモンド・カーヴァーの小説だった。

 頼むから静かにしてくれ。

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