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帰宅するとリビングに母がいて、ニュース番組を見ながらチラシとにらめっこをしていた。赤いマーカーを手に、目ぼしいものに丸をつけていく。朝日は相変わらず自室に籠っているみたいだ。
「おかえり」
顔をあげた母が微笑む。
「ただいま」
夕飯はなんだろうかと思いながらソファに座る。隣にあったチャンネルを取って、母に番組を変えてもいいかと聞いた。んー、と生返事だったが了承だと思って、何か面白い番組はないかなとチャンネルを回す。
「そういえば」
「んー?」
「このあいだのワンピース代、あと二千円分いつ返してくれるの?」
「ああ、うん……」
嫌な話題を蒸し返されて、いろんな気持ちが地の果てまで冷めた。お母さんなんか死んじゃえと思う。金のことだけは忘れないんだからと悪態をつきたいけれど、さすがに母の心を傷つけるだろうからやめておく。
「ママ、あのワンピースわたしに似合うかもってすすめてきたじゃん」
「うん?」
チラシを見つめたままの母に、それなのに払うの?と聞きたくて、なんとなく言えなくて、言葉に詰まった。似合うっていってくれたじゃない、ワンピースくらい、わたしにプレゼントしてくれないの。なんて、虫がよすぎるのかもしれない。わたしはあなたがお腹を痛めて産んだ可愛い娘でしょなんて、都合がよすぎるのかもしれない。
「そういうときだけ甘えてこないでちょうだい。カレンダーに書いておくから。きっちり返済させるからね」
見透かされたようにそんなことをいわれた。声音はきついものではなかったけれど、えぐられたような気分になった。甘えてはいけないとか、親子、じゃん。思いながらも何も返せないわたしをよそに、そのまま母はチラシを持つと、夕飯の買い出しに出かけていってしまった。
バタンと玄関のドアが閉まる音がすると、向こうの部屋から長身をもて余すようにのそりと朝日が出てきた。片手に文庫本を持ちながら、わたしの前を横切ってキッチンへと向かう。
「なんで。親子じゃん。甘えかもしれないけどさ、親子じゃん。親子なんだから、少しくらいプレゼントしてあげよう、みたいな気分になってくれてもいいじゃん、ねえ」
ソファの上でひざを抱える。なんともいえない寂しさを感じて弟の背中に向かって愚痴ると、冷蔵庫からコーラを取り出した弟は、なんてことないみたいな感じでいった。
「無理だろ。だってお母さんおまえのこと嫌いだし」
「……はい?」
え、なんで、え、意味わからない。え、なんで、なんで?
ぽかーんと台所の弟を見上げると、自分のコップにコーラを注いでいる最中だった弟は小さくため息をついた。
「だっておまえ、最近お母さんのこと嫌いなの隠せてないじゃん。わかりやすすぎるよ」
「そんなに?」
「わかりやすすぎ。もう少しくらい優しくしてやればいいのに」
だから何。
正直お母さんにわたしの嫌悪感はバレていないと思ってたよ。というかわからないと思ってた。人間の機微がわかるような、そこまで聡い人だと思っていなかったから。でも、だから何なの。
「わたしがまったくお母さんに優しくしなかったというの?ていうか、優しくできなかったのがいけないというの?わたしそんなにお母さんに冷たくした?え、わたしのせいなの?わたしがお母さんに冷たくしたのが先なの?」
予想以上に動揺して、思わず朝日を問い詰めるような口調になった。朝日はコップのコーラに目線を落としたまま首を降る。
「まあおまえのせいじゃないけどさ、少なくとも母さんはそう思ってるよ」
なにそれ。
お母さん、お母さん、お母さんお母さんお母さん!
「ああ、そうなんだ。へえ、なるほどね!」
とりあえずわたしは笑った。そんなわたしを弟は呆れたような、哀れむような目で見つめた。
「おまえも母さんの話なんか我慢して聞き流せばよかったんだよ」
その言葉に、心の奥がどろどろと濁り出す。黒い感情がマーブル模様を描くように浸透してくる。死んでしまえ。死んでしまえ。
お母さんの不幸話や苦労話や悪口を、耳からタールを流し込まれて汚されるような不快感と、こっちまで奈落の底に引きずり込むような重ったるさを、母のためにずっと我慢したならわたしを好きになったというのか。あほらしい。
「ああ、なんだ、わたし嫌われてたんだ。へえ。なるほどね。いやはや、長年の疑問が解決したわー」
テレビの音量をあげる。バラエティ番組にチャンネルを合わせる。忘れようと思った。逃げようと思った。とりあえずテレビ見よう。ほら、わたしの好きな芸能人が出てる。こんなこと直視してもいいことなんて何もない。なかったことにしてしまえ。
「ただいまー」
玄関の鍵が開く音がして、お母さんの声が聞こえる。
「おかえりー」
振り返って、母に笑顔を向ける。
お母さん、わたしは、あなたにいいたかったけどいえなかったことがたくさんあります。黙ったまま堪え忍んだことがたくさんあります。
中学受験期、あなたは友人の子供のように賢くないわたしをいつも貶して否定しました。朝五時から起きて問題集をやる子供でないこと、テレビを見ずに勉強だけするような子供でないこと、一流の私立に入れる子供でないこと。
あなたに禁止されていた漫画というものを、友人に借りて人生で初めて読んだ日の翌朝、あなたにアルミ製の棒で殴り飛ばされて起床しました。あなたは怒るとよく、クイックルワイパーの持ち手部分を手頃な長さに解体してわたしたちを殴りました。
成績が下がる度に洗濯板の上にひざ立ちさせられて、自分の体重で板の歯が食い込み、ひざがぼこぼこに変色したりしましたね。
あなたの教育ママぶりのそれらを今になって振り返って、本当は虐待と呼んでもよかったのじゃないかと思うことがあります。
お父さんのことが嫌いなくせに、わたしの成績を責め立てるときはお母さんもお父さんといっしょに賛成している意味がわかりませんでした。
精神の弱いあなたを極力傷つけたくなくて、傷つけたらあなたはすぐ鬱病になるし、死んでしまうんじゃないかと怖くて、毎日あなたの作る手料理をおいしいおいしいと食べました。でもあなたが友人にわたしのことを、同じことしかいわないからあてにならない信用ならないと笑って話すのを聞きました。
あなたはときどきわたしに「そういうとこ、お父さんそっくりね」といいますね。好きになった女優、シャワーの温度設定は高めが好き、部屋の整理が苦手、などなど。いわれる度に死にたくなっていました。「朝日は私に似たけど、あんたはお父さん似ね」と笑うあなたのそれらが、単なる世間話なのか高度な嫌味なのか、わからない日々です。
それなのにわたしのせいですか。
わたしは不幸じゃない、大丈夫、大丈夫、わたしは不幸じゃない、大丈夫、がんばらなくちゃ、わたしは幸せに、幸せになりたいの。なんてね。半ば狂気みたいに言い聞かせて、いつか何もかも忘れて、なかったことになればいいと思ってた。ぜんぶフィクションにしたかった。だけどそろそろ泣いてもいいくらい傷付いたんじゃないでしょうか。ねえ、泣いてもいいかな。だれも笑わない?
幸せになりたがるのが尊くて、前を向くのが正解で、がんばるのが正しくて、暗い過去を話さないのがうつくしい。
世の中の人たちは暗い話も悲劇のヒロインぶった人間も好きじゃないから、だれも助けてくれないなどと恥ずかしくていえるはずもなく、だれか助けても同じくいえるはずなく。引かないで手を伸ばしてくれる他人が何人いそうか数えて、一人もいなかったのだから仕方ない。わたしが友達を作るのが下手くそだったから仕方ない。ため息。
明るくて面白い人間になろうと決意した。どう勘定してもそっちの方が暗い話ばかりの人間より好かれるわけだし、より良く生きられるんじゃないか、とか思って、魂をごりごりすり潰しながら自分の思考回路を明るくしようと試みたりして。
だけど本当は許されるなら不幸になりたい。そしてだれかにわたしを可哀想だといってほしい。
お母さん、わたしはあなたのことが好きじゃなかったけれど、でも愛していました。そしてあなたが同じくらいにはわたしを愛しているものだと、勝手に信じていました。ばかみたいに。
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