「井岡さんは家ではどんな感じなんですか?」

「まあ、瑞希はいつもこんなもんですね。家でも変わらない調子です」

「だと思った!」


 あははうふふと穏やかに談笑する父親と担任ににっこりと笑顔を浮かべながら、だと思ったってなんだよ、クソじゃねえかと思った。担任は若くてノリのいい冗談の好きな女性教師で、普段はとてもいい人なんだけど。


 バカじゃねえの、何わかったような口きいてんの、あんたが今話してる人畜無害そうな中年は不倫クソ野郎で、学校でいつもにこにこ笑ってるわたしは家に帰ればメンヘラな母親がいて生きるのつらい感じなんだぜ、あんた本当、無知で察し悪くて頭お花畑だな。なんて。そう思うと同時に、わたしは抱えているものをだれにもわからせず生きているんだなみたいな、ばかみたいな、優越感めいた暗い感情が芽生える。


 なぜこんなに荒れているのかといえば、受験についての三者面談をしているからであり、その三者面談に良い父親の皮をかぶった不倫クソ野郎が来ているからでもある。


 不倫に走ったこと自体は、まあ理由に想像がついたので仕方ないかなとか思っていたけれど、うちの父親がダメなのはまったく反省する気がないところだ。ついこの間、帰宅する度に嫌味をいう母にとうとう父が返した言葉が「もうこの件についてとやかくいうのはやめてくれ。俺はもう彼女の毒に飲まれてしまったんだ」だった。アホすぎて全然許せない。その場で頭カチ割って殺してやりたかった。顔だけで金をもらえるくらいのイケメンになってから言えよ。ぱっとしない中年男と中年女の不倫のくせに、なにを自分達に酔っているのか、これが運命の物語だとでも思っているのか。三流悲劇が笑わせる。


 そんなわけでわたしは父が生理的に無理だった。普段から愛人宅に入り浸りで家に帰ってこないのは、正直わたしにはとてもありがたいことだ。


 父は恐らく自分のしていることにあまり自覚がない。不倫が家族にバレているとわかっているのに息子や娘に近づきたがる。拒絶されると怒る。父親を尊敬しないのはいけないことだと怒鳴るし、もっと親子間のコミュニケーションを大事にしたいと叫ぶ。その思考回路がまったく理解できない。どうしてそこまで無神経なのか。わたしの半分がこいつで生成されたのかと思うと死にたい。


「瑞希、いっしょに帰ろうか?」

「いい。友達と約束があるから」


 そうか、じゃ、気を付けてなと父が手を振って廊下の曲がり角の向こうに消えていった。今日は木曜日だった。


 友人が待っているというのは嘘だったけれど、一刻も早く別れたかったからそれでいい。あの人に絡まれるときは息をするのもつらい。あれの娘という事実もつらい。早く愛人宅でもどこにでもいけばいい。わたしに関わらないでほしい。


 手持ちぶさたに廊下をぶらぶらと歩くと、自販機やテーブルのおかれた休憩スペースに見知ったクラスメイトを発見した。「お!」とお互いに手をあげる。


「面談終わり?」

「終わり」

「担任に何か言われた?」

「今日は特に何も。まだ春だから。怖いのは9月の面談だよー。順番いつ?」

「次の次よー。もう心臓ばくばく」


 おそらく暇潰しに文庫本を読んでいた友人の、隣の椅子を引いて座った。二人して気だるげに椅子にもたれ、ため息をつく。


「お母さんもまだ来ないしさー」

「あ、お母さん来るんだ」

「そう。井岡はお父さん来たんだっけ」

「そう」

「男親と女親、どっちが成績うるさい?」

「断然お母さんだわ」

「うちもー!」


 くすくすと額を寄せあって忍び笑いをする。二人きりで楽しくおしゃべりをする。ぜんぶ話してみようかと思う。いつもと違って二人しかいないここは、静かで穏やかな空気感が漂っていて、心が凪いでいて、助けを求めれば友人もそっと手を差しのべてくれるような気がした。過不足なく。でもやっぱり無理だなと思う。家に帰って冷静になったとき、わたしはきっと話してしまったことを後悔するだろう。なかったことにしてしまいたいのにほじくり返さざるを得なかった自分の弱さを、きっと嫌になる。


「あ、お母さんからメール来た。校門前にいるって。迎えにいかなきゃ」

「行ってらっしゃい。面談がんばれ」

「本当がんばるー。このあとお母さんと買い物行く予定あるしさ。欲しい鞄をおねだりしたいから穏便に済ませたいのよね」


 軽快に笑う友人にあわせて笑みを浮かべながら、心臓にドスッと痛みが突き刺さった。嫉妬と劣等感。


「親に買ってもらうためにがんばるんかい」

「だって高いんだもん。がんばって可愛く甘えてくる。本気出す」

「もう十八歳だけど」

「もう十八歳だけど十八歳の本気可愛い顔するから」

「おバカ」


 じゃれあうように笑いあって、バイバイと友人を見送った。だれもいない静かになったスペースで一人、ゆっくりと目を閉じ、身体を折り曲げてテーブルに頬をくっつける。


 母は最近、わたしに何も買ってくれなくなった。出掛け先で何か買ってもらうと、帰宅してからその代金を請求される。かなりしつこくいつまでも。母のことが好きじゃないくせに割りきれていなくて、母親が子供に無償で何かを買い与えることが当たり前だと思っていて、そういうことをされると人並みに悲しい。


 不倫してても精神が弱くても、虐待もネグレクトもされたことない。高いお金を払って私立の学校に通わせてもらってる。帰る家も晩ご飯もある。だからたぶんちゃんと愛されてる。反抗期をこじらせただけのただのありきたりな親嫌い。だけど仲良しな親子を見ると胸が痛むくらいは、する。

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