電車に三十分ほど揺られて、地元の駅につく。夕日が強烈なオレンジ色をしていてまぶしかった。そこから歩いて十分くらいのマンションの七階がわたしの家である。狭くも広くもないけれど、わたしは我が家をきちんと気に入っている。


 家に帰ると母親が電話で友人に日々の愚痴を漏らしている最中だった。パート先に嫌な同僚がいること、あまり仲良くない相手から土産をもらってしまって返しが面倒くさいこと、息子と娘の成績がそれほど良くはないこと、それから父が不倫をしていること、愛人への悪口。帰宅して早々耳障りな内容に、テンションは下降の一途だ。


 愛人のことを口汚く罵るのはやめてほしかった。高校生のわたしがいうのも何だが品がないから。お母さんの人間性がお父さんの愛人のせいで汚れなくても良いのにと思う。


「あら、お帰りなさい瑞希」


 愚痴の電話が終わった母がわたしを振り返って微笑んだ。もう四十になるのに太ってもいないしシワも少ないし、綺麗な人。心臓と精神が弱くていっそう儚げだ。その人がふうっと伏し目がちにため息を吐く。


「今日は火曜日ね。お父さん、午前中しか会社がないのに帰ってこないのは愛人宅にいるからなのよ。今夜も遅くなるわ、絶対」


 知ってるよ。お父さんは火曜日と木曜日と土曜日に愛人宅に行って昼飯を食べ夕飯を食べ、おそらく愛人といちゃこらして団欒してから夜遅くに帰ってくる。胸くそ悪い話だ。けれどそれはわたしが小五のときにはすでにはじまっていたことで、もはや今さらなことで、その日になる度にいちいち同じことをいってくる母に心底うんざりしていた。


「そうですね」


 とりあえずの生返事をする。わたしを見つめる母の視線は冷たかった。一体わたしがどんな反応をすれば貴女は満足なのか、いっそのこと殴りつけたいと、そう思う一連のことを火木土といわずに毎日繰り返している。


 自分の反応が娘として間違っていることはわかっていたし、母がわたしに理解して同情して、そして愛してほしいと思っていることにも気づいていた。ただでも疲れていて、わたしは本当に疲れていて、勉強もしなくちゃいけないし、こんな話は友人たちに相談しても嫌がられるだろうし、できることなら忘れていたいのだ。毎日毎日、思い出させないでほしい。抱えきれない重さで日々圧死しそうなんだから。


「朝日」


 母を素通りして奥の部屋に向かう。一番目の部屋がわたしの部屋で、二番目が母と父の寝室で、一番奥が弟の朝日の部屋だ。朝日はいつでも自室で本を読んでいる。


「ただいま」

「おかえり」


 今日も弟は帰宅してそのまま自室にこもって読書にふけっていたらしい。目付きが悪くてクールな顔をしているくせに、読んでいるのは萌え系のライトノベルなんだから呆れる。


「たまには外で遊んだら」

「おまえと違って俺には友人なんかいない」

「ふうん」


 弟に友達はいない。でかい図体をしてるくせに、中学の一時期いじめにあっていたらしい。わたしはそのことをよく知らない。弟の悲しみについて考えようとしたけど、これ以上の暗い話はキャパオーバーだった。だから何も考えないようにした。朝日の問題は朝日が解決してほしい。でもできたら、おまえがあまり苦しまなければいい。


 弟を愛しているかといわれると微妙だった。そこまで好きじゃないかも。だけど朝日には幸せになってほしいと思う。そういうときは母のことも祈っている。お母さんは美人だから、だれかかっこよくて若い男の子がお母さんに一目惚れして、お母さんを拐ってどこか幸せなところに連れていってくれたらいいのにといつも。だけどそういう人はまだあらわれない。お母さんは綺麗なのに、お母さんを拐ってくれるヒーローはどこにもいない。


 わたしは、弟を救うヒーローにも母を救うヒーローにもなりたくない。そんな仕事はわたしよりもずっと有能なだれかが引き受けてほしい。わたしはわたしだけで精一杯で、苦しむ母も弟も救う余裕はない。だからときどき、家族が一番大事だとか愛の話とか、されるとキツい。


 改めて、わたしの父は不倫をしている。相手の女は母ほど美しくはない。田舎者のにおいがする女だ。旦那がいて、大学生の息子がいて、美しさに憧れている凡庸な中年の女。


 父はこの女の旦那と仲の良い友人で、一時期わたしたちは家族ぐるみで付き合うほどだった。しかし父はその友人の奥さんをおそらく寝取ったようで、気がついたら父とその奥さんができていて、父は彼女の一家をわたしたちの家から徒歩十五分のところに住まわせた。はじめの頃、わたしたちはその新家によく遊びにいったものだ。花火大会をしたり。そして母は、父と女の不倫を知ってとうとう発狂した。


 当時中学受験真っ盛りで、母から要求される勉強量とか上がらない成績への中傷とか遊びへの制限なんかで辟易としていたわたしは、正直父が不倫するのもわからなくはないと思った。そもそも、父と母が仲良くしていた記憶はわたしにはない。


 物心ついたくらいのときは両親共働きでほとんど家にいなかったし、わたしたちの小学校入学を機に母が家庭に入る頃には母はいつも父を罵倒していた。


 その頃の我が家はローンなしでマイホームを買ったりと、少しお金のある時期だった。そこに父の親戚が食いついた。父の姪っ子がよく我が家に遊びに来ては金をせびり、父の母、つまりわたしと朝日の父方の祖母が、父にいくつもの物件を買わせてはそれを自分名義にしていたそうだ。


 わたしと朝日が寝静まった頃に、母と父はよく喧嘩をした。ときどき目が覚めて、そっと扉をあけてリビングをのぞくと、「もっと家庭を大事にしてよ!」「俺の金に俺の親戚だ!おまえに関係ない!」と怒鳴りあう二人がいた。


 父が働きに出ているあいだ、母の愚痴の相手をするのはわたしたち姉弟の役目だった。母は父方の祖母や父の姪っ子がどんなに悪どいか言って聞かせた。父方の祖母に可愛がられている朝日を利用して名義を取り戻そうとしたこともある。


 大きくなった今思えばあれは洗脳だった。わたしたちはその影響で今でも父方の祖母を好きになれない。そしてわたしは父の立場になってみて、もし自分の結婚相手が自分の母やきょうだいをクソミソにいう人間だったらどう思うだろうかと考えた。自分の母親やきょうだいを、泥棒野郎だの、生まれが悪いからこういう卑劣なことをするんだだの言われて、好きになれるわけは、ない。


 だから正直、わたしは父の不倫を仕方がないことだと思った。でも母は受け入れられなかった。


 母の友人には幸せな人が多い。優しい旦那は収入も多く家庭は安定し、難関私立中学に合格する飛び抜けて頭の良い子供を持つような。


 わたしと弟はそこまで頭の良い子供じゃなかった。しかも朝日は小さい頃から人付き合いの苦手な問題児で、たびたび学校から呼び出しを受けるし、他人の親から苦情が来る。


 父は飽き性で、一つの仕事にずっと就くことができずに就職と失職を繰り返していた。その度に収入が変わり、家計が狂っていく。それなのに相変わらず自分の子供よりも自分の母や姪っ子に小遣いを与える。そして自分よりブスな女と不倫をし、その愛人一家をあろうことか徒歩十五分のマンションに囲い、自分と子供たちをそれと付き合わせようとする。


 わたしと朝日が小学五年生になる頃、母はとうとう鬱病と統合失調症を発症した。


「なんで私ばかりこんな辛い目にあうのかしら。でも、私がいけないのかしらね。私は結局あの人を一度だって愛していなかったのだから、きっとその罰があたったのね」


 そう美しいため息を吐く母に、知るか、と吐き捨てたいのを寸でのところでこらえた。愛してないならいいじゃないか、ふざけんな、もうわたしをあなたの不幸から解放してほしい。そう叫びたかったが我慢した。その日はこれから大事な話があったから。

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