桜
山に道は無い。
ヘッドライトに照らされるのは、名も知らぬ草木ばかりだ。
細い枝をかき分け、足元でボキリと踏みしめる。顔を撫でる不快な葉を手で払うと、硬い木の幹にぶち当たった。
「クソッ」
怒りが収まらない。
俺は、己の目玉が飛び出しそうな程の怒りを抱えて、道無き山を登っている。
汗だくで、服の中に熱がこもる。そのくせ、顔を伝うしずくが冷たい外気に触れると、全身に震えが走るのだ。
ヘッドライトが切り取った世界に、人型が浮かび上がる。
薄紅色の服を着た女が立っていた。
「あぁ、ここか」
斜面に座り込んで、薄紅色の女を見上げる。
動きを止めると、山から音が消えてしまった。ただ、俺の荒い呼吸が響いている。
「澄ました顔して、綺麗なもんだな。誰もこんなところに見に来ねぇだろうに」
乱暴に言い捨てると、薄紅色の女は少し首を傾げた。
「俺も、お前を見に来たわけじゃねぇ。お前の足元に死体を埋めてやろうと思って下見に来たんだ」
薄紅色の女は、黙ったまま俺を見ている。話が通じているようには思えないが、怒りのままに言葉を続ける。
「俺の妻が浮気しやがったんだ。汚ねぇ女だ。もう、体も臭いも声も、何もかも汚ねぇ。だから、殺して埋めてやろうと思う」
物騒なことを言っている自覚があるのだが、薄紅色の女は無反応だった。
殺人を犯すと言っている俺を恐れているのだろうか。
「あんたは綺麗だな」
そっと手を伸ばして、指先に触れてみる。
震えている様子は無かった。
「汚ねぇ女でも、ここに埋めればあんたの養分にはなるだろう」
そう考えると、悪い気はしなかった。
妻の死体を担いで山を登るのは大変だろうが、この女の役に立つのだと思えば遣り甲斐があるというものだ。
薄紅色の女が口を開く。
「人の死体など、養分にはなりませぬ。どろどろと腐って、私の根を枯らしてしまう。私はいりませぬ」
随分とキツイことを言う。盛り上がっていた気分が、萎えて行くのを感じた。
「あなたの理由でのみ、事を成せば良い。私には関係の無い事です」
それもそうだ。俺は、己の怒りを持ってして妻を殺すのだ。この薄紅色の女の為ではない。そもそも、ここに死体を埋めても、この女の為にはならないようだ。
だが俺は、いくらでも理由が欲しかったのだ。誰も彼も、俺が妻を殺すことに賛成などしてはくれないだろうから。
俺自身、妻に死んで欲しいと願ってはいても、自分で手を下す度胸など有りはしないのだ。俺以外に人など存在しない夜の山に分け入って、泥だらけになり、惨めに泣くのがせいぜいだ。
「つまらん理由でここまで来たが、あんたは俺に見てもらえて嬉しくはないのか? 俺が来なければ、誰に愛でられることも無かっただろう?」
この女を見に来た訳では無い。しかし、女にしてみれば嬉しい訪問者なのではないか。
「別に」
そうか……そんなものか。
それでも、ぼやけた視界に広がる薄紅色は、俺の目には優し気に映った。
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