砂の漏刻 (2)

 

 

 

 楽隊の奏でる円舞曲が、軽やかに風に乗って、広い庭園を囲む木々の葉までをも踊らせる。どこまでも澄み渡った青空の下、煌びやかに着飾った人々が、笑いさざめきステップを踏む。見事なダンスが披露されるたびに、飲み物を手にした見物から惜しみない拍手が湧き起こった。

 今日は、小麦の収穫が無事終わったことを祝う麦秋祭だ。王都の広場という広場に楽器を持った人々が集まり、天からの恵みに感謝を捧げて歌い踊る。それは王城でも例外ではなく、聖堂脇の庭園では、国内の主だった有力者を招待しての舞踏会が行われていた。

 六月は、カラントが一番輝く季節だ。刈り取りを待つ小麦の海と、その背後にそびえる緑なす山々。滄湖に写り込む風景は、まるで巨匠が腕を振るった一枚の絵画のよう。やがて刈り入れを迎えて、一度は枯れ草色と化した小麦畑が、次第に若草色に塗り替えられていくさまにも、胸躍らされる。

 そうして迎えた祭の日、浮かれ騒ぐ人々を更に浮かれ立たせたのは、ラグナ王太子ご婚約の知らせだった。もっともも、大多数の市井の人々にとってケルヴィネ男爵の名は、北のほうにそういう名前の町があったような、という程度の認識でしかなく、皆は「あのお小さかった王太子殿下が」と、ラグナの成長を喜ぶばかりだった。

 しかし、詳しい話が事情通などから広まってゆくにつれ、人々の噂話は、当初とは少し趣を変えて盛り上がってゆくことになる。

 

 男爵のご令嬢って、もともとはアタシらと同じ平民なんだって。

 命がけで火事から子供を助けた姿に、男爵夫妻がいたく感動して、是非我が娘に、と引き取ったらしいよ。

 王妃様もだけど、王家に嫁ごうって人は、やっぱり普通の人とは違うんだねえ。

 結局のところ、元平民っていっても、今は男爵様とやらのお嬢様なわけだし。

 でも、少なくとも、そこらのお貴族様よりかはずっと、わしらのことを見てくださるんじゃないか?

 王妃様のように。

 そうだな。王妃様のように……。

 

 

 養父母とともに王城庭園に姿を現したフェリアは、もう、どこから見ても押しも押されもせぬ良家の娘だった。銀糸をあしらった翠玉のドレスに、大きく開いた胸元を飾る金剛石のネックレス。胡桃色の髪は、襟足を逆立たせた上で耳の脇からぐるりを生花で飾り、短さを目立たなくさせている。そして、それら華やかな装いにも負けぬ、強い輝きを放つ琥珀の瞳。

 物見高さからフェリアに向けられた、幾つもの不躾な眼差しが、漏れなく感嘆の色を浮かべるさまを目の当たりにして、ラグナは密かに胸を撫で下ろしていた。危惧していた短い髪も、化粧けわい師の見事な仕事ぶりに加えて、ヘリストが事前にそれとなく流した「火事から子供を救い出した勲章である」という逸話が功を奏したか、居並ぶ一同に嘲るような気配は感じられない。

 ケルヴィネ男爵一家は、真っ直ぐに国王夫妻とラグナの前に進み出ると、深く最敬礼をした。重ねて招待状へのお礼を述べたのちは、王の前から下がり、王族公爵から順に、挨拶を交わしていく。

 神妙な顔で養父母に付き従っているフェリアを、ラグナははらはらと見守り続けたが、次なる招待客が自分達のほうへやってくるのを見て、仕方なく意識を目の前に戻した。

 

 お客様は全員おいでになりました、と家令がクラウス王に告げるや否や、ラグナはフェリアを探しに庭園の奥へと向かった。

 先ずは、ダンスに興じる人々の中にフェリアがいないことを確認し、そっと安堵の溜め息を吐く。そうしてあらためて周囲を見回して、一番外れにあるテーブルの傍に、背筋を伸ばして佇む、愛しい娘の姿を見つけた。

 ラグナは、他の客に失礼のないよう気を配りつつも、出来得る限りの早さでフェリアのもとへと向かった。

「ケルヴィネ嬢」

 心持ち上がった息を整えながら、ラグナはフェリアに声をかけた。

 フェリアは、優雅な仕草で軽く膝を折り、返事の代わりとする。

 カラント家とケルヴィネ家、両家の顔合わせ以来、実に一か月ぶりの再会だ。次に会えたら、と楽しみにしていたことが、ラグナには山ほどあったはずだったが、胸の奥から溢れ出す熱にのぼせてしまったか、一向に思考がまとまらない。言うべきことを見失ったラグナは、とにかく右手をフェリアに差し出した。

「一曲、踊っていただけないか」

 絹の手袋に包まれた華奢な指が、そっとラグナの手に乗せられる。

 フェリアの所作に、すっかり見惚れてしまっていたラグナだったが、握りしめた彼女の手が微かに震えていることに気がついて、彼は小さく息を呑んだ。

 深呼吸一つ、頭にかかる靄を振り払う。それからラグナは、父親仕込みの見事なステップで、フェリアを優しくリードした。

 風とたわむる軽やかな調べが、二人を世界から切り離す。

 フェリアの動きにはまだ少しばかり堅さが残ってはいたが、その足運びは完璧だった。一体どれぐらい練習したのだろう、と感嘆する一方で、誰と練習したのだろう、との悋気もラグナの中で首をもたげる。

 本当に俺はどうしようもないな、と、ラグナは内心で苦笑を浮かべた。大きく息をつき雑念を追い出し、フェリアを見つめる。

 フェリアは、真剣な表情で、進行方向を見据えていた。

 そのひたむきな眼差しを眺めるほどに、胸の奥を締めつけられるような感覚に襲われ、ラグナは奥歯を噛み締めた。

「苦労をかけてすまない」

「いいえ」

 あまりにも早い返答が、余計にラグナの心を切りさいなむ。

 痛みに耐えて、ラグナは胸一杯に息を吸い込んだ。

「お前は、絶対に、俺が幸せにする」

 それが、フェリアへの償いだ。そして、ウルスやヘリストへの贖罪でもある。そうラグナが胸の内で呟いたその時、フェリアが僅かに顔をラグナに向けた。

「存じ上げております」

 取りすました口調を裏切る、柔らかい眼差し、悪戯っぽい笑み。

 ラグナは、自分の頬が一気に熱くなるのが分かった。

 フェリアが再び視線を前へ戻す。

 ラグナは自動人形のごとく淡々とステップを踏みながら、ひたすらフェリアの横顔を見つめ続けた。

 

 無事一曲を踊り終え、最初のテーブルへと戻ってきたラグナ達のところへ、一人の恰幅の良い紳士が近づいてきた。派手やかな宝飾品を幾つも身につけ、波打つ緋色の髪をだらりと両胸に垂らしたその男こそ、臣民爵位筆頭の力を持つ、セルヴァント伯爵に他ならない。

 伯爵は、わざとらしいほど愛想の良い笑顔で、ラグナに向かって両手を大きく振り開いた。

「ラグナ殿下、そのお嬢さんを紹介していただけませんかな」

 ラグナは、フェリアに小さく頷いてから、セルヴァント伯に向き直った。

「彼女は、フェリア・ケルヴィネ嬢です。ケルヴィネ嬢、こちらが、マルクス・セルヴァント伯爵」

 フェリアの披露した丁寧な挨拶に、セルヴァント伯は至極満足げな笑みを浮かべた。

「いやはや、お噂に違わぬ美しい方ですな。流石、殿下のお心を射止めただけのことはある」

 フェリアをねめまわすセルヴァント伯の目つきが、次第に粘り気を増していく。

 込み上げてきた不快感を、ラグナは無理矢理呑みくだした。

「今しがたのダンスもお見事でしたな。お二方とも、息もぴったり合っておられて、ほれ、会場のあちこちから、恋破れた者どもの嘆きが聞こえるようではありませんか」

 そう言って伯は、大きな動作で庭園をぐるりと見まわす。

「私めの孫がもう少し大きければ、私もあれらの仲間入りをするところだったんでしょうがね。良かった、と申しましょうか、残念、と申しましょうか……」

 芝居がかった調子で胸に手をあて、セルヴァント伯は深々とお辞儀をした。

「心から祝福いたしますぞ、殿下」

「ありがとうございます」

 

 機会がありましたら是非我が城にもおいでください、と去ってゆくセルヴァント伯と入れ替わるようにして、ヘリストがラグナ達の傍にやってきた。

 ヘリストは、飲み物を乗せた銀の盆を、ねぎらいの言葉とともに、ラグナよりも先にフェリアに差し出した。殿下のあとで、と何度も遠慮するフェリアだったが、とうとうヘリストに押し切られて、恐縮しつつも錫の酒杯に手を伸ばす。

 紅を差した唇が器の縁にそっと口づけるさまを横目で見ながら、ラグナはヘリストに語りかけた。

「先生」

「なんでしょう」

「セルヴァント伯のご令孫は、確か十三歳になられたと記憶しているが」

 一瞬、ヘリストの気配が大きく乱れたのがラグナには分かった。

 だが、流石はヘリスト、ほとんど間を置くことなく、彼は平静を取り戻す。

「左様でございます」

「伯は、父上の時にご息女を妃にと仰っていたとのことだが、その時、伯のご息女はお幾つだったのだ?」

 ヘリストは、しばしの無言を経て、絞り出すように声を発した。

「……十二歳であらせられました」

「ということは、伯は」

「お待ちください、ラグナ様」

 ラグナの言葉を遮って、ヘリストは静かに話し始めた。

「伯が父君として振るうことのできたお力と、現在、祖父君として振るうことができるお力とを、同列に語ることはできません。ましてや、伯のご子息――くだんのご令孫の父君であるミュリス男爵は、かつて従者として陛下にお仕えしておられた少年のみぎりから、忠臣の誉れ高いお方です。さしもの伯も、ミュリス様のご意向を無視して、ラグナ様にご令孫を差し出すことはできなかったかと思われます」

 ヘリストの口調は、普段よりも若干早口に聞こえた。

「しかし」

「ラグナ様」

 有無を言わさぬヘリストの声に、ラグナは思わず口をつぐむ。

「ここから先は、我々の仕事です。ラグナ様には、ラグナ様の為すべきことがおありになるはず」

 そう囁いたのち、ヘリストは、優しい眼差しを二人に向けた。

「今は、ご学業のことと、ケルヴィネ嬢のことを第一にお考えください」

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