砂の漏刻 (1)

 サヴィネが王都からの返信を携えてルウケの館に戻るや否や、事態は急速に動き始めた。

 国王夫妻は、ラグナとフェリアの婚約を、幾つかの条件を提示した上で、認める、と回答した。

 まず、フェリアは、早急に王都に上がること。そして、古くから王家に仕えるケルヴィネ男爵家に養女として入ること。

 婚約についての正式な発表は、六月末の麦秋祭で行うことにするが、それまでは極力公にはしないよう、ヴァスティ鉱山に申し入れること。

 結婚の時期は、来年のラグナの中等学校卒業以降とすること。そして、ラグナは、卒業試験で少なくとも五科目以上で主席をとること。

 他にもフェリアの両親宛てのものなど細かい項目が幾つか並んでいたが、ヘリストはそれらを元に、各方面への書状を淡々と作成した。

 封筒には、ラグナ宛ての私信も同封されていた。父からは、驚きと応援の言葉が、そして母からは、励ましの言葉とともに「お前はもう少しこらえ性というものを鍛えなさい」とのお小言が記されていた。

 そもそも今回の婚約は、所詮は王太子個人による独断専行に過ぎない。国王を始めとする王家ゆかりの人々から無効と断じられる可能性は少なからず存在したが、過去に同じ道を選んだクラウス王としては、とても反対する気にはなれなかったようだった。

 それに加えて、ヴァスティ鉱山の経営陣が既にこの婚約話を知っている、という事実も、ラグナにとっては追い風となった。なにしろヴァスティは、今や国内有数の規模を誇る鉱山なのだ。鉱山主のランゲは、身分こそ平民に違いないが、財力や経済界への影響力は下手な下級貴族よりも勝っている。王太子妃輩出に沸いているであろう彼らを失望させるのは得策ではない、というのが、王城の見解だった。

「いいですか、ラグナ様」

 明日にはルウケの館を発つという晩、書斎にラグナを呼びつけたヘリストは、周りに誰もいないのを確認してから、静かにラグナに語りかけた。

「ラグナ様の婚約に纏わる『真実』を知るのは、我々を含めて四名だけです。ラグナ様と、フェリア殿と、ウルスと、私。我々は、この秘密を、墓場まで持っていかなければなりません。たとえ相手が国王陛下やテア様であろうと、決して口外しないとお約束ください」

 

 翌日、王都への帰途につく王太子の馬車を、今までにない大人数が街道に出て見送ってくれた。

 仏頂面ではあったがエリックも、父親であるランゲ親方の隣にいた。ハルス機械工房の工房長を始めとする顔見知りの技師達も、アン叔母もヨルマ叔父も見つかったが、ウルスの姿だけはどこにもなかった。

 当然だな、と一人ごちた次の瞬間、ラグナは我が目を疑った。

 フェリアが、両親に押し出されるようにして人々の前に出てきたかと思えば、にっこりと笑みを浮かべて馬車に向かって手を振ったのだ。

 ラグナは、思わず腰を浮かせると、馬車の窓にかぶりついた。ガラスに額を押しつけ、後方へ流れていくフェリアの笑顔を見つめた。

 やがて木立に隠れて見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも、見つめ続けた……。

 

 

 

 王都へ戻ったラグナは、目が回るほどに忙しい日々を送ることになった。

 もともとラグナの成績は、ほとんどの教科において常に学年の上位ではあった。おのれを支持してくれる者の期待に応えるため、そして、それ以外の者に対して隙を作らぬため、日々真面目に学業に取り組んできたからだ。

 だが、そんなラグナにとっても、「五教科以上で主席をとれ」という条件は、決して簡単なものではなかった。友であり好敵手でもある者達の顔を思い浮かべながら、ラグナは腹を括った。彼らに確実に勝とうとするならば、今から少しずつ知識を積み上げていかねばなるまい、と。

 それに加えてラグナは、この春、学生を取りまとめる代表委員会の委員長に選出されたばかりだった。弁論大会や舞踏会といった硬軟入り混じった沢山の行事の準備に追われつつも、ラグナは、学校への行き帰りの馬車の中など、ちょっとした時間を見つけては、こつこつと勉強に励むのだった。

 

 フェリアは、ラグナに遅れること僅か二日で、王都に入ったとのことだった。

「これからは、人前では彼女のことを『ケルヴィネ嬢』とお呼びくださいますよう」

 と、ヘリストが、フェリアの養子縁組が問題無くなされたことをラグナに報告した。

 壮年を過ぎたケルヴィネ男爵夫妻には子供がなく、また、彼らの人柄もあって、フェリアの輿入れによって国内の貴族達の勢力図が変わることはないだろう、と、ヘリストは語った。

「面倒臭いな」

「面倒臭いんです」

 大きく肩で溜め息をついて、ヘリストは眉間に皺を寄せた。「面倒臭くされたのはラグナ様なんですから、お諦めください」

 返す言葉も無く、ラグナは「解った」と頷く。それから、「それで」と言葉を続けた。

「私は、フェリアにはいつ会え……」

「当分はお諦めください」

 ラグナの言葉を遮って、ヘリストが言いきった。

「ケルヴィネ嬢には、麦秋祭までの二カ月の間、いわゆる貴族社会というものについて、みっちりと学んでいただかなくてはなりません。それこそ、礼儀作法から、主要な方々のお名前、家族構成まで。ラグナ様と遊ぶ時間などありません」

「私は別に、彼女の足を引っ張るつもりはないぞ。何か彼女の助けができないかと思……」

「ラグナ様」

 非難めいた眼差しで、またもヘリストがラグナの言葉を遮った。

「来月あたり、彼女が養家にいくらか慣れた頃を見計らって、両家の顔合わせを行うつもりです。それまでは大人しくなさっていてください」

 こう言われてしまうと、もはやラグナには何も言えなかった。なにしろ、全ては、他ならぬ自分に端を発しているのだから。

「それと、先ほど陛下から例の紅玉の代金を賜りましたので、明朝にでも鉱山へ届けさせようと思います。つきましては、紅玉のお受け取りはどうなさいますか?」

 盗難騒ぎを引き起こした反省も込めて、きちんと筋を通すために、代金を支払うまでは紅玉は鉱山で預かってもらうことになっていた。

 胸の奥からせり上がってきた重苦しい塊を、ラグナは今一度、深呼吸ののちに呑みくだした。それから、なんでもないような態度で、口を開いた。

「既に婚約は為された上に、像は未完成なのだろう? 約束通り金を払った上で、紅玉は鉱山の好きに任せよう。迷惑をかけた詫び事代わりに」

「……よろしいのですか?」

 ヘリストが、そっと眉をひそめる。

 ラグナはおざなりに首を縦に振った。

 

「ラグナ」

 課外授業が終わり、ヘリストの部屋から自室へ戻る途中、西日差す廊下の片隅で、ラグナは父王クラウスに呼び止められた。

「丁度私も、用があって部屋に戻るところでね」

 ラグナに歩調を合わせながら、クラウスはにっこりとラグナに微笑みかけた。

「このところ、なかなか二人で話す機会がなかったからね」

 屈託のない表情のせいだろうか、クラウスは、同年代のヘリストよりも十は若く見える。身分の差ばかりか十六もの歳の差を乗り越えてクラウスがテアと結ばれることができたのは、彼の人となりの他に、この見目もものを言ったのではないだろうか、と、ラグナはつい下世話なことを考えた。

「しかし、驚いたなあ、いきなり婚約だなんて」

「……申し訳ありません」

「ああ、いや、もう既に我々も心を決めたことだからね。お前を責めるつもりはないよ」

 石造りの壁や天井に、二人の靴音がばらばらと反響する。

「素敵な娘さんなのだそうだね。思慮深くて、芯が強くて、お前ととてもお似合いだとテアに聞いたよ」

「母上が」

 こらえ性を鍛えなさい、と、何よりもまずラグナに釘を刺したテアが、そんなふうに二人のことを肯定的に語っていたと知って、ラグナは思わず驚きの声を漏らした。

「彼女はお世辞なんて言わない人だからね。だから、皆、お前が良い相手と巡り合えたんだな、と、心から喜んでいるよ。ハスロの叔父貴なんて、テアの時にはあんなに反対したくせに、『テアさんがそう言うのなら、良い娘さんなんだろうな』なんて言うんだから、どうしてくれようかと思ったよ」

 そう満面の笑みを浮かべ、それからクラウスはそっと視線を伏せた。

「まさかこの私が、子の親になれたばかりか、子の結婚相手を迎えることができるとはなあ」

 ありがたいことだ、と呟いたクラウスの声は、本当に嬉しそうだった。

 ラグナが無言で見つめる中、クラウスは再びラグナのほうを向くと、照れを隠すように、口角を引き上げる。

「お前達のためにも、まだまだ頑張らないといけないな」

 ラグナは、八カ月前にヘリストに聞いた、両親の馴れ初めの話を思い返していた。王家のために生涯独身を貫くつもりだった父が、あの鉱山で母と出会ったのは、まさに僥倖だったのだろう。しかし、と、胸の奥で続けると同時に、ラグナは「父上」とクラウスに呼びかけていた。

「なんだい?」

「父上は……、その……、どうして母上と結婚しようと思ったのですか」

 目の前に実父という前例が存在するラグナと違い、クラウスの場合は、最初の一歩目からして、先を見通せない漆黒の闇に足を踏み入れるようなものだったはずだ。そこに不安や躊躇いは無かったのか。ラグナの問いかけに、クラウスはそっと目を細めた。

「私はね、お飾りや政治の具が欲しかったわけじゃないんだ。生涯をともに語り合い、ともに歩むことのできる連れ合いが欲しかっただけなんだ」

 例えばヘリストのように、と付け加えてから、クラウスは少し芝居がかった調子で周囲を窺った。「おお、いけない。これを言ってしまうとテアに怒られるんだった」と朗らかに笑う。

「『どうしてそこで先生のお名前が出てくるんですか。私の恋敵ですか。全く勝てる気がしないんですが』だってさ。テアが誰かに負けるはずなんてないのに」

 息をするようにするりと吐き出された惚気に、ラグナは内心で溜め息をついた。いつぞや聞いた『いつまでも仲良くていいわよねえ』というアン叔母の台詞が、まざまざと脳裏に甦る。

 そんな息子の心情に全く気づいた様子もなく、クラウスは柔らかい笑みとともに、ラグナの顔を覗き込んできた。

「そうだ、ラグナ。ヘリストには、お前も大いに感謝しなければならないよ」

「どうしてですか」

 一体何の話だろう、とラグナが首をかしげれば、クラウスは悪戯っぽく片目をつむってみせた。

「紅玉の像での結婚の申し込みはね、元々ヘリストの考えた案だったんだよ。『それぐらいの予算は分捕りますから、さっさとそれ持って心置きなく思いの丈をぶつけてきてください』ってね」

 クラウスの話を聞きながら、ラグナは、ウルスが罪を告白した時のことを思い出していた。ウルスが何を目的に紅玉を盗んだのか知ったヘリストが、憔悴しきった顔で床にくずおれたことを、思い出した。

 俺はどこまで他人を傷つければ気がすむのだろうか。機嫌よく話し続ける父親の横で、ラグナは密かにこぶしを握りしめた。

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