太陽と月 (2)

 

 

 まだまだ仕事が残っているウルスと別れ、ラグナはサヴィネとともに工房をあとにした。所持品検査を待つ人や馬車の列を尻目に、来た時と同じように悠々と鉱山の門を通り抜ける。

 繁華街へとくだる石畳の道に出たところで、ラグナはふと手綱を控えた。

 眼下には、色とりどりの旗や看板を掲げた店屋みせやが軒を並べている。民家の多いウクシ山麓に比べて、その東側に位置するこのカクシ山の裾野には、より雑然と混み合った景色が展開していた。物売りの声や笛の音が、ラグナ達のいる高台にまで、風に乗って聞こえてくる。

 活気溢れる町並みの向こうには、目の覚めるような青色をした湖が、ただ静かに横たわっていた。時折湖面に立つさざ波が、陽光を映して宝石のように輝いている。遥か対岸にルウケの館を探して、ラグナはそっと目を細めた。眩い水面みなもに比して針葉樹の林は驚くほどに暗く、館の白い壁だけが黒色の中に小さくほんのりと浮かび上がって見える。

 ここと、あそこは、近いようでいて、とても遠い。

 ラグナは、ふくらはぎに軽く力を込めた。手綱の動きに応えて、忠実なる愛馬がすうっと歩幅を伸ばす。目指すは、町の西南部にあるウルスの家だ。

 今日は、ラグナは彼の家で夕食をご馳走になる予定だった。ラグナよりもひと月早く十七を迎えるウルスと、二人まとめて誕生日のお祝いをしよう、とのアン叔母の有難い申し出があったのだ。

 大通りから二筋だけ道を山側へ戻った、大きな楠のすぐ隣。ヘリストから渡された葡萄酒の瓶と、王都のテア王妃から届けられた花とをそれぞれ携えて、ラグナと伴のサヴィネは小ぢんまりとした民家の前に立った。

 ラグナが呼び鈴の紐に手を伸ばすよりも早く、中から扉が開かれ、満面の笑みとともにアンが二人の前に飛び出してきた。

「よく来てくれたね! 何か月も経っていないのに、また背が伸びたんじゃないかい? こっちに来てる、って聞いてたのに、いつまでたっても顔を出さないんだから、待ちかねたよ!」

 再会を喜ぶアンの抱擁は、ラグナが小さな頃からの儀式みたいなものだ。お前も家族の一員なのだと、全身でラグナに語りかけてくれる。お日さまと草の香りに包まれながら、ラグナは、すっかり自分よりも小さくなってしまった叔母に、「ただいま」と挨拶をした。これも、従兄弟宅を訪れた時に交わされる儀式の一つだった。

 居間に招き入れられたラグナ達は、肉の焼ける香ばしい匂いに出迎えられた。途端に湧き起こる腹の虫の大合唱を聞き、アンが嬉しそうに破顔する。

「もう少し待っておくれね。鶏が焼ける頃には、皆も帰ってくるだろうしね」

 食卓のいつもの席に落ち着いたラグナは、杏子のジュースで空腹を紛らわせながら、アンと近況を報告し合った。ラグナが先刻の工房での出来事を語ったところで、アンがからからと豪快に笑った。

「そうかい、そうかい。またあのドラ息子が絡んできてたかい」

「自分よりも立場の弱い者を恫喝するなど、将来人の上に立とうという人間のすることではないな」

 ここぞとばかりに、ラグナは語気を荒くさせる。その胸の内を読み取ったか、アンがいつになく静かな笑みを浮かべた。

「ラグナは優しいねえ。でも、これはあたし達の問題だから、余計な気を遣わなくていいんだよ」

 姉ちゃんにも言わなくていいからね、と、釘を刺され、知らずラグナは唇を引き結んだ。

「心配しなくったって大丈夫さ。ほら、町の皆がエリックのことをなんて呼んでいるか思い出してごらんよ」

 わざわざ記憶を掘り返すまでもなく、ラグナは即座に幾つもの単語を思い浮かべることができた。今日耳にしただけでも、「エリックの奴」に「あんなの」、そして今しがたの「ドラ息子」と、枚挙にはいとまがない。

「酷いのだと『バカ息子』なんて称号まであるけど、皆、それを本人がいる前でも堂々と言っちゃうからねえ。『バカ呼ばわりされたくなかったら、バカなことするな』とかね。おかげで最近は随分『バカ』も減ったもんだ」

「ランゲさんは、ご子息を特別扱いなさりませんからね」

 窓際の長椅子から、サヴィネが苦笑とともに会話に参加してきた。長剣をく選り抜きの騎士も、アンにかかっては単なるラグナの兄貴分扱いで、おかげでサヴィネもここではすっかり寛いでみえる。少なくとも、ヘリストとともにいる時よりは。

 サヴィネの言葉に、アンは、そうそう、と大きく頷いた。「『父ちゃんに言いつけてやる』って、それで怒られるのは大抵エリックのほうだからねえ」

 それでよく猿山の長が務まるものだな、と、眉を寄せかけたラグナだったが、エリックの取り巻き達の顔を思い返して、なんとなく合点がいった。思慮の足りない行動といい、自らの品性を下げる物言いといい、全員がエリックに輪をかけて頭の悪そうな者ばかりだということに思い当たったのだ。きっと彼らは、装飾過多な儀式用の剣を、実戦用の剣と見間違えて、もてはやしているのだろう。

 とはいえ、儀式用の剣でも他人を傷つけることは可能なのだ。ラグナはまだ納得しきれずに、サヴィネとアンを交互に見た。

「だが、現に、先刻ウルスはもう少しで殴られるところだった。いくら奴の父親が厳しい人間なのだとしても、事が起こるのを止められないようでは、意味が無い」

 ラグナはこれまでも、ウルスがエリック達に言いがかりをつけられる場面に何度も出くわしたことがある。顔見知りばかりの古い町ゆえに、監視の目が行き届いているおかげだろう、大事に至ったことこそないが、これが仮に王都での出来事なれば、彼らの暴挙はもっと激しいものとなったはずだ。時や場所をたがえたところで、人間の本質が大きく変わることはない。それは、六年間の中等学校生活の折り返しを過ぎて、ラグナが日々強く感じていることだった。

「まあ、そのうち落ち着くでしょ」

 対するアンは、大した問題ではないとばかりに、話を切り上げようとする。いつも威勢の良いアンにしては、妙に歯切れの悪い口ぶりを聞き、ラグナの脳裏に閃くものがあった。

「奴がウルスに突っかかってくるのは、俺のせいか」

 その瞬間、部屋の空気が僅かにこわばったのが、ラグナには分かった。

 しばしの間をおいて、アンが深い溜め息をついた。

「ほら、エリックって、あんた達と同い歳でしょ。お母さんのご実家がこの近くなこともあって、昔っからウルスとエリックって何かと比べられたり一緒に扱われたりすることが多くてね。エリックがウルスのことを気にかけてくれてるのに対して、ウルスといったら、万事あの調子でしょ。子供の頃とか、エリックが『遊ぼ』って誘いに来ても、あの子ったら『遊びたくない』なんて一言で返しちゃってばかりでね」

「王子様とはいつも一緒に遊ぶくせに、……ってことか」

 初等学校入学の年まで、ラグナは一年の殆どをルウケの館で過ごしていた。豊かな自然と静かな環境の中で伸び伸びと健やかにお育ちあそばせるよう、とヘリストは言っていたが、実際のところは、平民出身の妃とその子に対する風当たりを避けての策だったのではないかとラグナは疑っている。

 ラグナが離乳した頃から、テアは王の補佐を務めるために王都とヴァスティとを行き来するようになったが、ラグナは引き続きルウケの館を住み処としていた。そしてウルスは、従兄弟である王太子の孤独を紛らわせるためだけに、毎日のように湖の反対側から館に呼びつけられていたのだ。

 黙り込むラグナの背中を、アンが勢いよく叩いた。

「あんたが気にすることは何もないのよ! ウルスの人見知りは、本当に筋金入りでねえ。お向かいのフェリアちゃんが構ってくれなかったら、あの子、家族以外の人間と会話することが無いまま大人になっちゃったんじゃないかしら。ルウケの館に行くのだって、最初は泣いて嫌がってたんだから。お迎えの馬車に、何度、問答無用で放り込んだか」

 子供には子供の世界が必要です。そう言いつつも、テアもヘリストも内気なウルスをどう扱えばいいのか、とても苦慮していたようだった。ウルスの道連れにされたフェリアが「読み書きを教えて」と言い出した時の、ヘリストの助かったと言わんばかりの顔を、ラグナは今でもよく覚えている。

「確かに、初めてウルスと引き合わされた時、もしかしたらこいつは口がきけないんじゃないか、と思ったものだ」

 ラグナがにやりと笑ってみせれば、アンもまた、にいっと口角を引き上げた。

「それね、ウルスは、『知らない子に質問攻めにされた』って言って、家でべそかいてたわよ」

 あはは、と声に出して笑ってから、アンは今度は優しくラグナの背中を叩いた。

「本当にあんた達は、見た目は、兄弟かってほどよく似てるのに、中身は正反対だよねえ!」

 あたしと姉ちゃんも同じようなこと言われたものだけど。そう続けるアンに、サヴィネが興味深そうに「そうなんですか」と問いかけた。

「そうなんだよ。あたしと違って、姉ちゃんは子供の頃からとっても頭が良かったからねえ。じいちゃん――あたし達の父ちゃんね――は、読み書き以上のことは教えてくれなかったけど、姉ちゃんは勝手にじいちゃんの本を読み漁って、ついにはハルスさんとこの、馬鹿みたいに難しい本まで借りに行くようになってねえ」

 テアとアンの父であるラグナの祖父は、ウルスの勤め先であるハルス機械工房の、水車を扱う技師だった。五年前に病で亡くなるまで、水力機関の第一人者として、鉱山や町の発展に大いに寄与していたのだ。

「聡明な方だ、と常々尊敬しておりましたが、なんと、独学であらせられたとは!」

 感嘆の声を漏らすサヴィネに、アンはどこか寂しげな笑顔を向けた。

「この辺りには、子供に勉強を教える大人がいないからね。金持ち用の学校は、とてもあたしらには通えないし、勉強を教えられそうな人間は、人数が少ない上に引く手あまたで、他人の面倒をみている余裕なんてないから。じいちゃんも、独りで本を読む姉ちゃんを見ては、喜ぶと同時に悔しそうな顔してたわ。時間さえあれば、もっと色々教えてやれるのに、って」

「でも、確かお父上と同じ工房で働かれるようになったんですよね」

「そうなのよ。初の女技師、って、皆は騒ぐし、じいちゃんは大喜びするし」

 凄いでしょう、と、まるで自分のことのように誇らしげに胸を張ったかと思えば、ほどなくアンは、大きく肩を落とした。

「でもねえ、姉ちゃんが工房で働き始めてしばらくしたら、じいちゃんってば、今度は何とも言えない情けない顔をするようになってね。『テアの奴は技師としては申し分ないが、あれでは嫁の貰い手がつかない』ってね」

「まさか!」

 サヴィネが、心底驚いたとばかりに、声を荒らげる。

「それがね」と、アンが口元に苦笑をのぼした。「姉ちゃんってば、先輩技師が相手でも、間違ってることは『間違ってる』って躊躇いなく言っちゃう人だからね、女のくせに生意気だ、なんて言われちゃうわけよ」

 理不尽だ、と憤るサヴィネをなだめてから、アンは今度はラグナを振り返った。

「姉ちゃんに浮いた話が一つも出てこない間に、妹のあたしが先に嫁にいっちゃって、もう皆が、姉ちゃんの結婚を諦め始めてたところに、国王陛下が鉱山に視察に来られてね。姉ちゃんが案内役を務めたんだけど、あの日は家に帰ってきてからも、えらく上機嫌でねえ。陛下はとても理知的な方だった、陛下がおられる限りこの国は安泰だ、って、それはもうベタ褒めで。珍しいこともあるもんだ、って、びっくりしてたら、今度は陛下から姉ちゃんに、まさかの交際の申し込みよ。驚きの展開に、山が崩れるんじゃないかって思ったわ」

 身分の違いを理由に、テアは王の申し出を断り続けた。しかし、再三に亘る熱烈な王の働きかけに、頑なだった彼女の態度も次第にほぐされていったという。

「建国の神話にちなんで、紅玉で姉ちゃんの像を作って贈るとか、もう本当にお伽噺みたいよね。それって、あれでしょ、『あなたは私の女神です』ってことでしょ? そりゃあ、姉ちゃんだって参っちゃうわよ」

 王の求婚に纏わる一連の話は、ラグナも各方面から散々聞かされてはいた。そしてそのたびに、あの堅物で生真面目な父王が、よくぞそんな洒落た贈り物を考えついたものだ、と密かに感心していた。今もまた同じ思いを胸にいだいたラグナだったが、それと同時に、これまでは考えもしなかった一つの疑問が、ゆらりと陽炎のように浮かび上がり、彼はそっと唇を引き結んだ。

 果たして、王の身分違いの恋を、その右腕たるヘリストはどう思っていたのだろうか、と。

「ともに力を合わせて豊かな国を作り上げてゆこう、との陛下のお気持ちの表れでもあったのでしょうね」

「本当に、素敵よねえ!」

 アンが、うっとりとした表情で頬に手をやる。しばし宙に視線を彷徨わせたのち、笑みとともにラグナのほうに向き直った。

「姉ちゃんが伴侶と巡り合えたのは、勿論嬉しいけど、一番嬉しかったのは、こんなに可愛い甥っ子ができたってことかねえ。ウルスにとっては、従兄弟で、兄弟で、友人だよ。なんて有難いんだろうねえ」

 照れくさいやらむず痒いやらで、ラグナは何と返したものか分からなくなった。謙遜の言葉で誤魔化そうかとも考えるも、何かそぐわないような気がして、ただもごもごと口ごもる。

 そんなラグナの様子を見て、アンが楽しそうに笑った。

「最近は、ウルスだけでなく町の皆もヘリスト先生に勉強を教えてもらっちゃって、本当に皆さんには、言葉で言い尽くせないぐらいに感謝してるんだよ」

 そして、いつになく真剣な眼差しが、ラグナの目を覗き込む。

「何があっても、あたし達はあんた達の味方だからね」

 不意に窓から吹き込んできた風が、食卓に飾られた花束を揺らした。

 

 

 ウルスが帰宅したのは、それから一時間もたたないうちだった。どうやら作業半ばで工房長に無理矢理帰宅させられたらしく、ぼそぼそと不満を口にしながら壁に鞄をかけている。

「殿下をお待たせしてはいかん、って、本人が自分の意思で早めにやって来たんだから……」

「父ちゃんは見なかったかい?」

 皿と皿がぶつかる音とともに、アンの声が台所から響いてきた。

「帰りに二号坑の前で会ったけど、もう少しかかるから、先に食べといてくれって」

 なんだって、と、アンが声を荒らげた。

「お祝いだ、って言ってんのに、何考えてんのよ、あの人は。馬っ鹿じゃないの」

 エプロンで手を拭きながら、アンが眉を吊り上げて居間に戻ってくる。怒れるアンを見慣れていないサヴィネが、長椅子の上で弾かれたように背筋を伸ばした。

「ちょっと、ウルス、あんたもう一度鉱山やまに戻って、あの馬鹿を引っ張って帰ってきてちょうだい」

 ウルスが抗議の声を漏らした、その時、窓の外から甲高い鐘の音が聞こえてきた。

 室内にいた全員が、一斉に黙って息を詰めた。

 半鐘は、急いた調子で、拍子をつけて、何度も何度も打ち鳴らされる。

「火事、ですか」

 騎士の顔に戻ったサヴィネが、油断のない眼差しで腰を上げる。

「いいや、この拍子は事故だね。鉱山で、事故が起きたんだ」

 エプロンを脱ぎ捨てるや、アンは戸口へと走っていった。

「あたしは、ちょっと様子を見に行ってくるから、あんた達は先にご飯を食べときな」

「ラグナ様」

 サヴィネの言わんとすることを理解して、ラグナは静かに頷いてみせた。事故の状況にもよるだろうが、騎士の機動力と腕力は、きっと人々の助けとなるに違いない。

「サヴィネさん、馬、出してくれるのかい?」

「勿論です」

「助かるよ。じゃあ、あたし達はちょっと出てくるから、ウルス、ラグナ、あんた達二人は絶対に家から出ないこと。いいね、わかったかい!」

 二人が頷くよりも早く、アンとサヴィネの姿は扉の向こうに消えた。

 

 

 

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