紅玉摧かれ砂と為る

GB(那識あきら)

ルウケの館

 竜ならざるこの身にも、どうやら逆鱗というものは備わっているらしい。ラグナはソファの肘掛けに爪を立てながら、さりげなく顔を窓へ向けた。頬にかかる赤毛の陰で奥歯を強く噛み締めたのち、細く息を吐き出して、泰然たる態度で再び視線を戻す。

 目の前では、装いとは相反して下卑た面構えの男が、赤褐色の髪を揺らしながら、わざとらしいほどに目を剥いて両手を振っていた。

「ああ、例えばの話でございます、例えば、の。勿論、わたくしめは、国王陛下にはいつまでもご健勝で末永くカラントを治めていただきたいと願っておりますとも。ですが、あんなにお小さかったラグナ様も、間もなく十七。まさに時の流れは光のごとし。そして、悲しいかな、我々人間は常命を持つ身でございます。ですから、例えばの話でございます。例えばの」

「わかっている」

 ラグナが社交の場に出座するようになって一年。まだ両親に随伴するばかりの身ではあったが、今が胸の内を表すべき時か否かの判断はつく。ラグナは感情を抑えたおもてで鷹揚に頷いてみせた。

 男は、眼の奥に寸刻浮かばせた不安を、ひと刷毛はけで喜色に塗り替えるなり、たるんだ顎の肉を震わせた。

「そうでしょうとも。ラグナ様は実に聡明でいらっしゃる。さぞや、ご立派な王にお成りあそばせることでしょう。だからこそ、親交を結ぶのは、それにふさわしい者でなければならないと……」

「ブローム公」抑揚のない低い声が、ラグナの後ろから発せられた。「ラグナ様は、こちらへ遊びに来られたのではありません。夏の休暇の間、雑事に惑わされることなく勉学に勤しむために……」

「しかし、ヴァスティの町の者が、このお屋敷を足繁く訪れていると聞いていますぞ」

 無爵位の文官ごときに話の腰を折られたのが、憤懣やるかたないのに違いない。ブローム公と呼ばれた男は、ラグナの後方に控えている自分よりも年嵩の男を、険相な眼差しでねめつけた。

 ラグナの家庭教師にしてカラント王の腹心、儀仗魔術師ライネ・ヘリストは、自身に浴びせかけられる視線をものともせずに、淡々と答えを返す。

「これからの時代は、たとえ町人や農夫であろうと、読み書きを始めとする教育が大切になってくるでしょう。南の帝国が初等教育を民に義務づけるようになって十四年、その間にの国がどれほど発展したか、賢明なるブローム公はご存じかと思います。それゆえ、ラグナ様がここルウケの館に逗留なさる機会に、近隣に住む者にも講義を行っている、というだけのことでございます」

 はん、と、ブローム公が鼻を鳴らした。

 なるほど、他人に自らを粗野と印象づけるには、このような仕草が有効なのか。ラグナは皮肉を舌の上で転がしながら、ついと目を細める。

「しかし、いくら王妃様のえにしの町だからとしても、少々特別扱いが過ぎるのではありませんかな」

「ここに通えるのであれば、別にヴァスティの者に限るつもりはありません」

「ならば。私の娘も殿下と机を並べることができる、ということですな」

 この屋敷をおとなって以来、鸚鵡おうむのように「我が城にもおいでください」と繰り返し続けていたブローム公が、目を輝かせてへリストのほうへ身を乗り出した。

 へリストは、ほんの僅か眉根を寄せると、言い難そうに口を開く。

「試験を受けていただかなくてはなりませんが」

「し、試験?」

「何しろ我々がこちらに滞在している間だけの特別講義ですから、基本的な単元に割く時間はあまりありません。そういったものは、学校や教会で賄っていただくとして、私は、私にしかできない講義を行うことにしております。そのためには、一定以上の知識を有する者でなければならず……」

「我が娘には無理だと申すのか」

 ブローム公の顔が恥辱に歪むのを見ても、へリストの態度は変わらなかった。

「ブローム公のお嬢様のご学力は存じ上げておりませんゆえ、現時点では何もお答えできません。ただ、試験を受けなければならないのは、ラグナ様も例外ではない、とだけ、申し上げておきましょう」

 へリストの言葉が終わりきらないうちに、ブローム公が、なんですと、と声を荒らげた。

「我が娘どころか、殿下をふるいにかけるなど、貴様は一体どれほど思い上がっているのだ!」

 大声でへリストを糾弾しながら、ブローム公がちらりとラグナを見やった。その目に浮かぶ得意げな色は、ラグナの代弁者を気取っているがゆえのものだろう。

 ラグナは、冷ややかな眼差しを、目の前の愚か者に思うさま突き刺した。

「つまり貴公は、私のことを、篩にかける価値も無いぼんくらだと言いたいのだな」

 途端に、ブローム公の喉から瀕死の蛙のような声が漏れた。

「え、いや、まさか、そんな、滅相もないッ」

「篩にかけるや地に落ちてしまうに違いない、だから試験などもってのほか。そう思っているのだろう?」

 先刻からの鬱憤をここで晴らさんとばかりに畳みかけるラグナを、へリストが小さな声でたしなめる。

 干からびかけていた蛙は、すんでのところで小さな水場に飛び込んだ。

「そ、それは、その、ラグナ様は優秀であらせられますから、試験など受けるまでもないのでは、と、そう申し上げたかったのでございます……」

 血の気の引いた顔で、ブローム公が身を竦ませる。だが、彼はすぐに目を大きく見開いて、へリストに食ってかかった。

「すると、あの託児院の娘も、その試験とやらに合格したと言うのか」

 脈絡も何も無い突然の話題転換に、へリストは勿論、ラグナも一瞬言葉を失った。

「『あの』とは、一体『どの』お話でしょうか」

 へリストが問えば、ブローム公は、しまった、とばかりに息を呑んだ。

「あ、ああ、その、なんだ、若い女がこちらのお屋敷に押しかけておる、との噂を聞いてな……」

「流石はブローム公、領内のことを良くご存じであられますな」

 へリストのあからさまな皮肉にも気づかず、ブローム公は、「領主として当然のことでございます」とラグナに向かって胸を張った。そうして再度へリストに険のある視線を投げつける。

「へリスト殿の講義とやらを、町の女にまで受けさせる必要はあるのですかな?」

 露骨な侮蔑をその声音に聞き分け、またもラグナは、おのれには無いはずの逆鱗がわななくのを感じた。

「報告を受け、まさかと思っておったのですが、よもや本当であったとは。未婚の娘を不用意に屋敷に入れるなど、あらぬ誤解の元ですぞ! 軽率が過ぎる! ラグナ様にご迷惑であろう!」

 客間の椅子を占拠して実のない会話を長々と引き伸ばしていたブローム公の、一番の関心事が何なのか。今、ラグナははっきりと理解した。先ほどは抑えきれた不快感が、ついに口をついて溢れ出す。

「ならば、私も貴公の城には伺えそうにないな」

 素っ頓狂な声とともに、ブローム公が背筋を伸ばした。何を言われたのか理解できていない様子で、ラグナの顔を注視する。

「貴公には未婚の娘がいるのだろう? 未婚の男としては、不用意に訪れるわけにはいかないな」

 ブローム公が目を白黒させるのを下目に見ながら、ラグナはようやっと溜飲を下げた。

 

 

 

「ラグナ様も、随分こらえ強くなられたものだ、と、感心していたのですがね」

 招かれざる客を見送って、再び客間へと戻ってきたところで、へリストが溜め息をついた。

 ラグナは、抗議の意味を込めて、派手に鼻を鳴らす。

「これでも相当我慢していたんだからな。途中、何度あいつに茶をぶっかけようと思ったことか」

 ラグナ様、と、やんわりと言葉づかいをたしなめてから、へリストは大きく肩を落とした。

「まあ、『町の女』などと、ああも悪しざまに言われては、穏やかではおられないのは解りますが」

「べ、別にフェリアの悪口を言われたから怒ったわけでは!」

 慌てて反駁するラグナを、へリストの涼しい眼差しが押しとどめる。

「……王妃様を悪く言われたのも同然ですからな」

 へリストの言葉に、ラグナはまず目を丸くし、それから口惜しさに顔をしかめた。

「先生……」

「何でしょうか?」

 へリストの表情からは、一切の意図が読み取れない。

 カラント王の右手と謂われながらも、その地位に見合った爵位や領地を固辞し続け、学究と後進の教育とにひたすら打ち込む男、ライネ・ヘリスト。その実直さと王への忠誠は万人の認めるところであり、先刻のブローム公の傲岸な態度も、へリストの人柄の上に胡坐をかいたものと言えるだろう。

 だが、物心ついた頃から彼の教鞭を受けてきたラグナには、師がそのように一筋縄でゆくような人間には思えなかった。勿論、彼の、父王への忠義に疑いを差し挟む気は、砂粒ほどもいだいてはいなかったが。

 しばしの逡巡ののち、ラグナは観念した。眉間から力を抜き、訥々と言葉を吐き出していく。

「……やはり、私は、フェリアとは距離を置いておいたほうが良いのだろうか」

 あのクソ野郎の言うとおりに、と言い捨てれば、今度こそへリストの眉が大きく跳ね上がった。

「お言葉が過ぎますぞ。場所と立場をお考えください」

「場所も相手も選んでいるつもりだ」

 ラグナは目元に力を込めてへリストを見た。

 へリストは、刹那目を細めると、ゆっくりと口を開いた。

「王妃様の前例がありますからな。ブローム公でなくとも、気にする者は気にしてしまうでしょう」

 ラグナの母は、ヴァスティの町出身の平民だった。

「どうせ、ラグナ様がどなたかと婚約なさるまでは、どんなにお気を遣ったところで、口さがなく言う者は出てくるのです。フェリア殿との友情が大切だとお考えでしたら、無理に距離を置かれる必要はないでしょう」

 友情、という単語に、それとなく力が込められているのを感じ取り、ラグナは知らず眉を曇らせた。

おのが為すべきこと、為さざるべきことが何か、理解できないラグナ様ではないでしょうから」

 師の眼差しに真っ直ぐ胸の奥を貫かれ、ラグナの喉がごくりと鳴った。

 

 

 

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