第2話 『仲違いのビンタ』



 家に上がった美春。

 取り合えずお茶を入れて美春に差し出した。

 俺が出したお茶を一口飲み、ホッと一息を吐いた美春に対して本題に入る。


「で、急にどうしたんだよ」


「なによ、私が彼氏の家に来たら駄目な理由でもあるわけ?」


「いや、別にそういうわけではないけどさ」


 幼馴染みでお互いの家を行き来してた頃ならそんな風に言わなかったが、たまにしか会えない現状、そういう風に言うのが自然になっていた。

 実際、彼女が家に来るときは休みが取れて、デートをするときだが……っ!


「も、もしかして、デートか? 休み取れたのか?」


「ざーんねんっ! この近くで仕事があるから、寄っただけよ。あと一時間もしない内に仕事に戻るわ」


 舌を出して笑う美春の姿に、思わず落胆してしまった。

 久し振りに一緒に過ごせると思ったのに、また会えなくなるのか。


 それに会えないのに笑っている美春の姿にも、苛だちを感じた。


「なぁ……いつになったら休みが取れるんだよ。先々週もダメ。先週もダメ。今回もダメ。俺たち、ずっと二人でデートしてないじゃないかよ」


「そんなこと言われても、仕方ないでしょ。私だって忙しいんだし。アンタだってバイトだから、合わせるのも難しいじゃない」


「そりゃあ、そうなんだけどさ……」


 そう言われると反論することが出来ない。

 それは俺の非でもあるからだ。


「まぁ、その内合わせるわよ。それよりも少し洗面所貸して貰うわよ。今からのお仕事は、安西信明さんとのロケなんだから」


「安西……信明?」


 安西信明。

 その名はよく知っている。

 かつて美春が出演したドラマで主演をやっていた俳優だ。

 まだ二十一歳だが、その演技力は高く評価されている実力派俳優。


 その男と会うから、美春は化粧をしようとしている。

 いつもの美春なら、そんなことの為に化粧直しとかしないはずだ。

 それにマネージャーに言えば化粧直しをしてもらえるのに、プライベートな時間にわざわざ個人的に行おうとしているのだ。


「なぁ、なんでわざわざ化粧するんだよ。いつも通りやればいいだろ? ファンの人らにも、お前は化粧しない方が可愛いって──」


「うっさいわね、私の勝手でしょ! それに、安西さんには化粧した方が可愛いって言われたのよ」


 『安西さんには』……。

 俺の言葉よりも、安西信明という男の言葉を……。


 その言葉を聞いた瞬間、俺の小さな怒りの灯火が燃え上がった。


「──なんだよ……安西信明って! お前は彼氏の言葉よりも、安西信明って男の言葉の方が大事なのか!?」


「はぁ……? なにいきなりキレてんのよ?」


「そうだよな! 俺よりもアイツの方がイケメンだし、優しいもんな! 俺みたいな平々凡々な男よりも、お前と同じようにスポットライトに照らされているアイツの方がお似合いだよな!」


 止められない。

 言葉が。

 溜め込んでいた思いの丈が、止まってくれない。


「俺がお前の事を想っている間に、お前は他の男ですか? ふざけんじゃねぇよ!」


「いい加減にしなさいよ! アンタおかしいんじゃないの!? 誰もそんなこと言ってないじゃないのよ!」


「違うのか? 合ってるだろうが!」


 なら化粧をする理由はなんだと言うのか。

 俺に可愛く見せたいからではなく、安西信明が喜ぶから。

 それのどこに間違いがあるというのか。


「私はただ、出演者の印象を良くした方が良いと思ったからで……!」


「やっぱりそうじゃねぇか! 俺との時間よりもお前は違う男への印象を優先したんだ!」


 俺に会いに来た。

 そんなことで嬉しかった自分が馬鹿みたいだ。

 

 最愛の幼馴染は俺の事を見ていなかった。

 俺の世界で最も近くにいる存在は、自分の世界にいる男を優先し、隅っこでうずくまっている俺に気付きもしない。


「そんなに他の男が良いなら……」


 舞い上がってくる憤怒のマグマ。

 汚濁のようにへばりつく鬱屈とした悪意が、舌に乗って吐き出される。


「他の男のところへ行っちまえば──」


 ──バチンッ!


 悪意を全て言葉にすることは出来なかった。

 鋭い痛みが走り、甲高い音が響いたあと、俺の左頬に熱を発生した。

 ジンジンと痛む頬にゆっくりと手を当て、涙目で右手を突き出していた美春の姿に、全てを悟った。


 ──俺は、美春に叩かれたのだと。


「……最低ッ!」


 美春はバッグを手に持ち、逃げ出すように勢いよく外へ出ていった。

 離れて遠くなっていく足音。

 俺は力なく膝をついた。


「なに、やってんだよ……俺」


 ここまで言うつもりはなかった。

 アイドルとして活動している美春にも、化粧は必要な事だと判っていたのに。

 誰よりも努力家で、誠実である美春を誰よりも判っていた筈なのに。

 それなのに俺は、美春の頑張りを踏みにじった。


「ごめん……ごめんな」


 ──最低。

 美春に反論出来る言葉が見当たらない。

 俺に出来ることは、たた美春に対して謝ることだけだった。


「あぁ……くそ……」


 俺は美春に対して謝罪のメールを送ったあと、小さくうずくまった。

 自分の殻に、閉じ籠るように……。



 ──その日、美春から返信が来ることはなかった。

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