1-5


「俺はこれから仕事だ」

 いきなりスイフーが言い出した。予想外なのでインユェは目を瞬かせた。

「おれのお仕事は?」

 男が今すぐにでもここから出て行きそうなので、慌ててインユェは問いかけた。

 自分は抜擢されたのだから、男について行かなくてはならないと思ったのだ。

「お前の仕事は後だ。俺にもいろいろとやることがある」

「じゃあおれにどうしてろって言うのさ」

「荷物を片付けておけ。桜花殿は広いぞ」

「桜花殿ってどこ」

「この殿舎の名前だ」

「なに、春になったら桜でも咲くの?」

「見事だぞ。それはそれはな。ほら早く荷物を片付けないと寝られないぞ」

「だからさお兄さん。おれこんだけしか荷物ないって言ってんじゃねえか」

 インユェは自分の戦闘服と匕首を見せた。

「あとは皆借り物。お仕事して、お金もらって、いろいろ揃えなくっちゃいけないの」

「部屋にいろいろと用意しておいたから安心しろ」

「それもオキュウリョウ?」

 インユェはおぼつかない発音で問いかける。

「ああ。お前はとっておきだ」

 とっておき。牙なのだから確かに、とっておきになりうるだろう。

 インユェは納得したので、うなずいた。

「うん。わかった」

「あまりふらふらとふらついてはいけないぞ」

「なんで?」

「迷った時にどうするんだ」

「屋根に上ればいいと思う。結構それでどうにかなっちまうもん」

「……お前な」

 男が苦笑いをする。しかし、インユェの金髪をそっとなでると、一度だけ振り返って、殿舎を出て行った。

 残されたのはインユェと、封を解かれていない荷物たちだけだった。

 これからどうしよう。そうだ、この、貰ったものたちを選別しよう。

 そんなことを思ったインユェは、一つの箱を開いて絶句した。

 そこにあったのは、後宮の女性たちが着るようなひらひらとした実に優雅な衣装だった。

 これがいったい何なのか。インユェは目を丸くしつつ、包みたちをほどいていく。

 どれもこれもが高級品だとわかる丁寧な仕事で作られたものたちで、とてもこの、がさつなインユェにはふさわしくない。

 こんなものを何でもらえると思ったのだろう。

 これでは戦いに赴くことができないではないか。蟲狩は戦いの一種だ。とてもこんなひらひらでは。

 それともこれは、目隠しの一つなのだろうか。目隠しというか、あちこちの目をごまかすための。

 きっとそうだろう、こんなひらひらとした姿をした女が、牙だなんて誰も信じやしない。

 だけれども、なぜ誤魔化さなければいけないんだろうか。

 村では、どういうときに誤魔化しただろうか。

 インユェはない頭を振り絞り、思い出すことに成功した。

 違う村の若人衆が来た時だ。あの時はインユェも縁談が持ち上がっていて、その時取り繕ったのだ。

 きれいに見えるように、おとなしく見えるように。長い裾の袴をはいて、どこにでも見受けられる、若人衆に憧れている村の娘に見えるように飾り、縁談を成功させようとした。

 その縁談は結局、見事にぶち壊されたのも覚えている。

 答えは簡単だ、蟲が出たのだ。蟲が出たと聞いたとたん、被っていた猫を全部引っぺがしてしまったインユェと、添い遂げようという猛者は村の若人衆には誰一人いなかった。

 インユェ十六歳の出来事である。

 誤魔化すという事は、事実を知られては困るという事で、では一体なにがスイフーにとって知られてはいけない事実だというのだろう。

 訳が分からない。

 とりあえずもらっていることになっている衣装たちをたたんでいく。衣装櫃はまたたくまにいっぱいになっていき、精緻な螺鈿細工の衣装櫃は三つもいっぱいになってしまった。

 こんな衣装道楽聞いたことがない。村では着替えが三着あれば問題のない生活だった。

 絹の滑らかな手触りは、インユェが知らない世界の滑らかさだった。なめし皮たちのぬめるような手触りと違い、とても軽く、ふわふわと風に揺れてしまいそうな衣たちであった。

 衣装を片付けると次に新しい箱を開けていく。

 今度は紅玉や緑玉をあしらった髪飾りが出てきた。こちらも金でできているらしく、飾りの金属部分が揺れるときゃらきゃらと心地よい音がした。

 そんな髪飾りが一度に十個も贈られてくると、さすがのインユェでも考えてしまう。

 スイフーの思惑が分からないのだ。彼はいったい何をしたいのだろう。

 飾り物をしまっておく場所を何とか見つけ出し、そこにそっと入れていく。こういうきれいなものを壊してしまうのはもったいないと思うだけの知恵を、持っているのだ。

 そして片づけを進めていった時だ。

 不意に視線を感じた。振り返れば小型の犬が一匹。

 犬か、食べられそうにもない大きさだ。蟲のほうが食べ出がある。そんなことをちらりと考えたインユェは、犬相手に舌を鳴らした。

 世間一般で言われているような呼び寄せ方である。

 そしてこの犬も、思った通り、その音に近付いてくる。

 小型の犬はふわふわとしていて、ずいぶんと大事にされているのだろう、体毛が丁寧にくしけずられていた。

「お前どこの犬?」

 インユェはその犬を撫でつつ呟く。

 白い体毛は全く汚れておらず、これがかなりかわいがられている犬だという事を証明するかのようだった。

 こんなちっこいの逃がすとか何やってんだろう、村だったら三分で誰かに捕まって飼い主に引き渡されているに違いない。

 そんなことをつらつらと考えつつ、インユェは子猫を持ち上げるのと同じ動作で、首根っこをつかんで持ち上げた。

 見た目通りの軽さだ。体毛が体を若干大きく見せている部分もあるに違いない。

 さてこいつの飼い主はどこにいる、とインユェは耳を澄ませた。

 物音には敏感な彼女の耳は、郷にいた時から人の耳じゃないといわれ続けてきた特別製だ。

 もしかしたら針が落ちる音だって聞き逃さないかもしれない。そんな現場に立ち会ったことがないから何とも言い難いが。

 そしてインユェの耳は、小さくもはっきりとした声を聞き取った。

「メイメイ、メイメイ、どこにいるの?」

 それはどう聞いても犬猫を呼ぶそれで、たぶんこの声の主がこの犬の飼い主だろう、と見当がつくくらいだった。

 はっきりとした女性の声を聴きつつ、インユェはこの犬を届けに行こうと思い立った。

 外を出歩く立派な理由だ。よし、これで行こう。やっぱりあちこちの作りが気になる。

「今からご主人様のところに連れてってやるから待ってな」

 犬をぶら下げたまま、インユェは歩き出した。

 声を頼りに通路を進んでいく。ここもなかなか入り組んだつくりをしていて、インユェは意識して道を覚えるようにした。

 森の中なら楽なのだ。森というものは人間の痕跡が残りやすくて、そのあとをたどれば村なり里なりにたどり着けるようになっている。

 しかし人間の手によって作られた建物というものには、人間の形跡が残りにくい。

 作り上げられた人工物というものはえてしてそうだ、というのがインユェの持論でもある。

 道を覚えつつ、声の主が近くなるまで歩く。途中怪訝な顔をした女性たちと数回すれ違ったのだが、この建物の中にいるという事が身分の証明らしく、誰も誰何してこなかった。

 そしてとうとう、声の主が見えてくる。

「メイメイ、メイメイ」

 あちこちを見て回っている少女がそこにいた。

 その声を聴いたとたん、犬がじたばたと動き始めたので、インユェは犬を地面におろした。

 とたん、犬が走っていく。犬を見つけた少女の顔が輝く。

「メイメイ、ごめんなさい、驚かせちゃって」

 犬はというと、主に再会した喜びに尻尾を千切れそうなほど振っている。

 いい場面だ。インユェは踵を返そうとした。ここに自分がいる意味がないのだから。

 くるり、向き直って。それからしばし考え込んだ。

 帰る道はどっちだっただろうか。

 覚えていたはずの道をすぽん、とインユェは忘れていた。目先のことに気を取られやすい、単純なインユェはこういうことを良く起こす。自覚があったが、今まで問題なく過ごしてきたせいでとんと改善されなかった性質の一種だった。

「ええと。あー」

 インユェは屋根に上ろうか、と考えた。屋根伝いに帰ればきっと、元来た場所も見えてくるに違いない。

 よし、それでいこう。

 それがちっとも問題の解決策になっていないことを、インユェは知らない。きちんとした道を通らなければ、道など覚えないだろうに、道なき道ばかり進んで生きてきたインユェは考えもつかない。

 そのまま足に力を少し込めて、屋根に跳躍した時だ。

「あなた!」

 下から声をかけられた。見れば犬を抱きかかえた少女が、インユェを見上げていた。

 彼女のきらきらとした桃色の瞳とぶつかる。彼女は薄桃色の髪をしており、つやつやとした髪の状態からも、深窓の令嬢という表現が似合いそうな美少女だった。

 レイシとはまた違う魅力の少女である。

 彼女は大きく髪を結い上げ、清楚な小ぶりのかんざしを揺らめかせている。

「なに?」

 インユェは屋根の上から問いかけた。彼女が言う。

「あなた、メイメイを連れてきてくれたの?」

「その犬のこと?」

 インユェは犬を指さした。彼女がうなずく。

「その犬がおれの貰った場所の近くにいたから」

「おれ……? あなたは女の子じゃないの?」

「女だろ、これでも。むかしっからの口調ってのは簡単に治せねえよ」

 インユェのざっけからんとした調子に、彼女が言う。

「あなたどこの后妃に仕えているの? あなたみたいな人を抱えている后妃だったら噂になってもおかしくないのに」

「后妃に仕えてない。なんつうの、抜擢されたっぽい感じ?」

 言葉があやふやなのはスイフーのせいである。

 彼が詳しく教えてくれない限り、自分の立ち位置はふわふわと浮かぶ羽虫のような状態だ。

「ぽいかんじ?」

「そーそー。後宮にメシダサレタと思ったら、こっちに来るように言われた」

「誰に? そんなことができる人はそうそういないわ」

「スイフー」

 インユェはさらっと男の名前を口にした。とたん少女の目が丸くなる。

「あなたはあの人に呼ばれてきたの?」

「知ってんの?」

「この場所でスイフー様の名前を知らない女性はいないわ」

「へえ」

 有名人か、あれだけの男ぶりならそれもわかる、いい男に見えるもんな、と勝手に納得し、屋根の上にしゃがみ込む。

「ところでさ」

「ええなあに?」

「桜花殿ってどっち?」

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