1-4

「わあ、人が多い」

 人通りがある道に出る。人が行き交い、荷車がごとごとと揺られていく。埃の立つ道。

 何から何まで物珍しい。

 インユェは暢気な声を上げた。いまさらなんだ、と男があきれたように見る。

 男の姿も若干ながら浮いているが、それは男の整い方が並外れているせいだろう。

 しかしそこまで、インユェは気が回らない。

 それだけ目新しいのだ。

「そこまで多くもないだろう」

「多い多い、おれ初めて見たぜ、こんなに人が多いの」

 道は理解できないほど直線的で、壁が至る所に見受けられている。この壁はいったい何なのだろう。しかし立派そうな壁である。

 インユェはその壁を見ていちいち感心している。

 やはり都というものは村とは大違いな場所だ、というのが正直な感想だった。

 村はこんな壁がない。

「お前の村はどんな村だったんだ」

 あんまりにもインユェが馬鹿か阿呆のように感心しまくっているので、男が本当にあきれたように、問いかけてきた。

「おれのいた村はな、壁なんてなくって、あっちこっちで、畑があって湧水が流れていて、とりあえずこんな感じじゃない」

 インユェは壁を指さした。この壁の正体が気になってしょうがない。

「この壁って何?」

「あれはある程度の住宅の数ごとにできている壁だ。あれの中にはいくつかの住宅と店がある。あそこなどは大きいだろう」

 男が指さした場所は確かにきれいな屋根を持った壁でありほかの場所よりは大きく見える。

「じゃああの中だけで生活できるっていうのかよ?」

 インユェは驚いて男を見上げた。男は彼女を見下ろしつつ、馬鹿にするでもなく答える。

「そういうわけにはいかない。この町の膨大な食料を賄えるわけがないだろう」

「ふうん、外の畑だけじゃだめなのか」

 町の外にいくつかの広大な畑を見ていたので、インユェは意外に思って問いかけた。

 畑は食べる人数分作るというのが、村のやり方だった。

 そんな、鄙びた村という自給自足の狭い生活で生きてきたインユェにとって、畑の規模はよく計算できないものだった。

 税としてあの村が納めていたものは蟲の皮で、それでほかの税は免除されていた。

 まして牙という、年がら年中山や森に入り、交易用の皮や骨や装甲をとってくる役割であればなおさらわからないものだったのだが、そこに気付けないあたりインユェは世間知らずである。

「そうだ」

 男もそのあたりに口を出す気がないらしく、あっさりとしたものだった。

 道なりに道を歩いていくと、何やらかなり大きな建物が見えてきた。

 ずいぶんと大きな建物だ。内部構造も相当大きいだろう。

 何しろ囲む壁の長さがほかの場所と相当違う。

 ほかの場所の六個分ほどの規模だ。長さだけを見てもかなりある。

 上から見ればどれだけ大きい場所なのだろう。

 もしかしたら、先ほど出てきた皇帝の建物より大きいかもしれないと思うだけの広さだった。

「大きい建物だ」

 軽く口開けた後、インユェは呟いた。

「ああ。紫宮の次に大きい場所だ。大極殿ほどの大きさはないが。大きいのは事実だ」

「だから名前なんて言われたってちっともわからないんだよ。大極殿ってどこ」

「お前がいた後宮の近くにある、皇帝が執務を執り行う殿だ」

「へえ」

「大蜈蚣を退治したのが大極殿だ」

「へえ」

 あの宦官の男はそれを言いたかったのか。インユェは納得した。

「じゃあ、紫宮ってどこ」

「それこそお前がいたあの後宮のことだ。皇帝の後宮のことを、一般的に紫宮という」

「初めて聞いた」

「お前が世間に疎いだけだ。どれだけの田舎から来たというんだお前は」

「たくさん。隣の村まで一週間かかるような山」

「隣の町ではなく、村でそれだけの距離だというのか?」

「ちなみに歩きじゃない。馬蟲を使って」

「お前の言うことが分からない。なんだその、馬蟲とは」

「見たことないの、お兄さん。馬みたいなんだけど、お腹に気門があって、目が蟲の目をしていて、足が六本の奴」

「聞いたことも見たこともないが」

 男は少し興味を惹かれたらしい。ほんの僅か、歩く速度をインユェに合わせた。

 大股で、しかし辺りをきょろきょろと見まわすせいで速度が遅いインユェが、たちまち追いついたほどには、速度を落とした。

 それに気づくでもなく、インユェは説明を始めた。

「山での蟲狩の時はすごく役に立つんだ。追い込みに使うと結構。それに牛並みの体力だから畑仕事手伝わせても便利」

 そこまで答えてから、インユェはある事実に気が付いた。

「そっか。馬蟲は涼しい場所じゃないと生きていけないし、山の花草がないと食べるものがないから、平らな場所にはなかなか来られないもんな。お兄さん知らないのは普通かもしれない」

 馬蟲は結構繊細な生き物だった。思い出してみればそうだった。

「そうだな、三つ目牛くらいはいるかもしれないけど……」

「なんだその三つ目牛とは」

 男が興味を惹かれた顔で言う。

「目の片方に瞳孔が二つある変わった牛だけど。百年生きると半分人の形になれる変わった牛で、村の周辺では集落作って暮らしてた」

「まさか、その三つ目牛の集落が、一週間かけていく村なのか」

「お兄さん頭いいね。そうだよ」

「何か関わりがあるのか」

「定期的に爪がいくんだ。三つ目牛は人間よりも肉に臭みがないから、蟲が狙いやすいんだ、子供とか特に。だから爪が染料をもらう代わりに、定期的に周辺の蟲狩をするんだ。三つ目牛はそんなに攻撃力がないから、蟲狩とか難しいし。たまにおれも参加したけど、牙まで村を離れるといけないから、滅多に行かなかった。でも交易の時は義弟と一緒に行ったっけな。いい牛たちばっかりだった」

「染料?」

「青い染料あるだろ」

「それはいろいろあるが」

「底なし青って知ってる?」

 インユェは、これも通じなかったらどう説明しようか、と考えていたのだが、それは杞憂に終わった。男が知っている、とうなずいたからだ。

「知っているも何も、高級な染料だろう。一匙で金貨一枚の」

「キンカってなに」

 インユェは真面目に聞いた。男の言う言葉のいちいちが、インユェの知らないことなのだ。

 名称も存在も、本当に訳が分からないものがある。

 だが逆に、男からしてもインユェは訳が分からない相手だったに違いない。

 双方、己の思う一般常識が通じていないのだから。

「これだ」

 男が懐から取り出したのは、ぴかぴかに光る金色の、丸い形をした小さなものだった。

 中央に穴の開いた、何かしら模様が描かれている物体だ。

 見覚えがあった。

「きらきらしてる。銀銭とそっくりだ。これがなんなの」

「これが金貨だ」

「ふうん。これと交換なの、これが何の意味を持っているんだよ?」

 インユェの再びの言葉に、男が絶句する。その言葉がどれだけおかしなものか、わからないのはインユェだけだ。

 おそらくどこの誰に聞いたとしたって、これだけの非常識な問いかけは返ってこないに違いない。

「お前、銅銭は知っているか?」

 男がまさかそれまで知らないのでは、と言いたげな声で言う。

「銅銭って、蟲の皮と交換で使うお金だろ」

「そこはわかったのか」

「銀銭だって知ってるぜ! だって使うもん」

 男がほっとした声になる。そこまで説明することになったら、とんでもない手間だ。

 彼がほっとしたのもまだわかる。

「商売には大事、あれ。で、銅銭や銀銭がどうしたの」

「金貨は一枚で、銅銭三十枚と同じ価値を持っている。銀銭なら五枚だ」

 それを聞いたインユェは目を丸く見開いた。

「三十枚! 一年食べていけるじゃないか!」

「この都の平均年収は、金貨五枚だ」

「え、え、ええっ! おれの村だったら五年間遊んで暮らせるだろそんなにあったら」

 インユェは男と金貨を交互に見比べた。これが、このきらきらが銅銭三十枚と同じだけの値打ちであることが信じられなかったのだ。

「……お前の村はいったいどうなっているんだ」

 男が呟くように言う。

「普通」

「お前の話を聞く限り普通ではない。お前のようなものが一般的だったらな」

 男は言った後にわずかに考えたらしく、こう付け加えた。

「確かに、山深い場所では金貨を見たことがないこともありうるな」

 そんな会話をしている間に、建物は目の前になった。

 男が普通にそこをくぐっていく。インユェも後に習おうとした。

 だが。

「許可のないものは入ってはならぬ」

 門番に止められた。門番はいかめしい顔をしている。そして二人とも槍を携え、インユェの前で交差させた。間違いなく、許可のない奴はここを通っていはいけない、という態度である。

 インユェは男を見た。

「お兄さん、さっそくなんだけど、入れない」

 別段この人々をぶちのめして突破することもできるが、そういう乱暴はあまりよくないことくらい、インユェだってわかるのだ。

 金貨の価値を知らない世間知らずであったとしても。

 お兄さん、とインユェが男を呼んだとたんに、門番の顔つきが変わった。

 今すぐに彼女が罰せられる、という顔をしたのだ。ほんの少しの哀れみも含まれた視線である。彼らを男が見やる。

「そいつは入れろ。安心しろ、おかしな奴だが怪しくはない」

 男がざくりと言い切った。

 ずいぶんないいようだが、インユェは自分が多少ずれていることもうっすらわかってきていたので、何も言わなかった。

 門番の二人が顔を見合わせる。

 そして、インユェの前で交差させて、通せんぼをしていた槍をどけた。

「はいれ」

 男が偉そうに言う。インユェは頷き、門をくぐった。

 一歩足を踏み入れた途端にざわめきが増した、そんな感覚をインユェは覚えた。

 数を数える、百や二百じゃ甘っちょろいだけの人数がいる。

 いったい何人この壁の中にいるというのだ。

 若干体がこわばる。これだけの人数というものに出くわしたことがないのだ。

 そして一度にこれだけの視線を向けられたこともない。

「お兄さん、おれなんだかとっても目立っている」

「それはそうだろう。俺が連れてきたからな」

「なあに、それ。お兄さんが誰かをここに連れてくるのってとっても珍しいって言いたいの?」

「そうだ」

「よくわからないな。お兄さん、おれ帰りたくなっちゃった」

 ここに居たら何かが変わってしまう、そんなかすかな恐れのようなものが、インユェの中に芽生えていた。そんな彼女の逃げ場を男が封じていく。

「お前の居場所はもう、ここ以外にないだろう。皇帝には話を通しておいてあるからな」

「じゃあ村に帰る」

「そうしたらお前の村の誰かがここに来ることになるだろう」

「それはいけない」

 インユェは笑いつつも、辺りを見回す。視線の数は相当で、どうも居心地が悪い。

「こっちだ」

 男はそのまま歩き出す。インユェを置いて行きかねない速度だったので、それに追いつけるように速度を速めた。

 建物は皇帝の後宮という場所によく似ていた。

 そこに何の気負いもなく堂々と入っていく男の正体が、今さらながら気になってくる。

「お兄さんここ、後宮って場所と似てるんだけど」

「小規模だがそれに近いからな」

「え、どういう」

 インユェの言葉は途中で途切れた。一つの殿舎の前まで案内されたからだ。

「ここがお前の新しい場所だ」

「ここ?」

 そこを覗き込めば、あらゆる調度品が置かれていた。宮女として暮らしてきたインユェが知るものもあれば知らないものもある。都に来てから初めて見るものも多い。

 そしてその空間が整えられていることに驚いた。

 さらに言えば、そこは誰も住んでいないようだった。なんだこれ。なんだここは。

 そんな疑問が頭に浮かんできたので、インユェは男に問いかけた。

「ここ誰も暮らしてないのか?」

「ここは整えられることがあっても、人が立ち入る場所ではないからな」

「なんで? どう見たって住む場所なのに」

「ここには俺の気に入ったやつを入れようと前々から思っていてな」

「ふうん」

 インユェは深く考えなかった。そうか、抜擢されるくらいには気に入られていたのか。

 そしてここが新しい場所なのだろう。

 これから、牙としての腕をいかんなく発揮できるようになるのだろう。楽しみだ、とそこまで考えてから、男に言った。

「おれ、インユェ。お兄さんの名前聞いてないよな、なに?」

 男は彼女のつむじを見つめながら、口を開いた。

「スイフーだ」

「スイフー」

 インユェはその言葉をなぞった。スイフー、いい名前ではないか。

 呼びやすく覚えやすい。

「ん、お兄さんスイフーか。覚えた」

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